【 Space Wonder Morning 】
◆D8MoDpzBRE




50 :No.13 Space Wonder Morning 1/5 ◇D8MoDpzBRE:08/01/06 22:10:53 ID:gp3+6sJH
「この飛行機はどこへ向かうの?」
「どこにも向かわない。特に行くあてなどないさ」
「また、そうやってはぐらかすんだから。本当のところはどうなの? 教えてよ」
「本当に目的地なんて無いんだ。いずれ分かることだよ。第一、僕も君もパスポートやら旅行鞄やらそんな大層
なものを何一つとして持ってこなかっただろ?」
 僕たちが乗り込もうとしている航空機は、夜明け前の寒空の下でエンジン音を唸らせていた。
 真夜中と言っても差し支えのない光景だった。東の空にスピカの輝きを見出せなかったとしたら、夜の闇はま
だまだ続くものだと錯覚していただろう。冬の夜空に春の星座が現れたという事実が、黎明が近いことを物語っ
ていた。
 チコが先に航空機に乗り込む。ハシゴを昇っていく彼女のお尻を見上げるようにして、少し離れて僕もそれに
続いた。とにかく、ずんぐりとした外見を持った大きな航空機なのだ。チコがハシゴを登り切る前に、下を見下ろ
してその高さに怯えなければいいな、と思った。
 幸いチコはそんなことに気を留める風でもなく、最後の段を難なくクリアして機内に乗り込んだ。僕は試しにハ
シゴの最上段から下を見下ろしてみたのだが、地上は完全な闇に包まれているばかりで何かを見通すには決
定的に明るさが足りなかった。これならば逆に怖さを感じることもない。
「とても大きい飛行機だから期待してたのに、中は案外狭いんだね」機内の座席に座って、チコが言った。
 客室は十二畳くらいの広さはあった。外の景色が見渡せるようにと苦心して取り付けた大きな窓もある。確か
に航空機の大きな外観からするとやや物足りなくは思えるが、二人で占有するには贅沢と言ってもいい程度の
スペースは確保されているつもりだった。
「細かい説明は省くけれども、これは飛行機というよりはロケットに近いんだ。大気圏外に出て、気圧にも熱にも
重力にも宇宙線にも耐えなきゃいけない。それだけ頑丈に作ってある。それに膨大な燃料を積んでおくためのタ
ンクだって必要だ。商用飛行に回す二号機以降は、大体これと同じ大きさで一六人の乗客を収容できるように
設計してあるから、僕たちなんて恵まれ過ぎている方なんだよ」
「ふうん。じゃあホントなら、ゆったりとレジャー気分を味わいながら機内食を頂く、なんて余裕もないんだね」
「その気になれば東京からニューヨークまで二時間で行けるんだ。どの道、くつろぎのディナーなんて無理な相
談さ」
 僕がチコの無邪気すぎる発想をはねつけると、彼女はあからさまにつまらなそうな表情を作った。夢がないん
だねと言われているような気がした。確かに飛行時間の短縮ばかりにこだわって航空機を開発してきた僕らに
は、それ以外の部分に目を向ける余裕などなかったかも知れない。
 改めて僕は思い直してみた。例えば、宇宙空間でランチを摂るというくらいなら、案外悪くないような気もする。

51 :No.13 Space Wonder Morning 2/5 ◇D8MoDpzBRE:08/01/06 22:11:16 ID:gp3+6sJH
ランチの献立がどうであれ、宇宙空間で食事をするという事実の方に一般客は興味をそそられるかも知れない。
宇宙食だと言って缶詰のようなものを出しても歓迎されるだろう。
 次第にエンジン音が大きくなり、航空機がゆっくりと前進を始めた。僕たちはシートベルトを締め、これから身
に降りかかるだろう重力に備えるべく顎を引き締めた。
「いよいよだね」
「成層圏までは通常のジェットエンジンで推進するから普段の飛行機と感覚は変わらないはずだよ。ただ、そこ
からは特殊なジェットエンジンとロケットエンジンを段階的に併用する」
「特殊なジェットエンジンって?」
「超音速でも作動するジェットエンジンだよ。こいつらが点火する瞬間は、ガツンと来るから気をつけて」
「分かった」
 チコの返事をかき消すようにしてエンジンが爆音を上げた。甲高いうなり声のようなこの音を、僕は日頃から耳
にしていて慣れている。これを合図に、ほぼ遅れることなく僕たちの背中を座席に無理やり押しつけるような重
力加速度の波がやってくる。機内の僕たちは、まるで上り坂を上っているような錯覚に襲われる。無論、この世
に上り坂の滑走路など存在しない。そして航空機は一キロメートル近くの助走を経た後、ようやく機首を持ち上
げて億劫そうにその巨体を空に浮上させていく。
「外が暗くて良く分かんないんだけど、私たちは今どの辺にいるの?」
「まだ富士山のてっぺんにも届いちゃいない」
 ぐんぐん高度を増していそうなことは確かだった。途中、窓の外を白い雲の欠片とおぼしき影が通過して行っ
た。本当に小さな欠片であったに違いない。地上から見上げた空が雲一つないように思えても、空に上がって
みればそれなりに見つかるものだ。
 しばらくすると、徐々にエンジンの音が弱まり始めた。機内で感じることのできる航空機の傾きも緩やかになっ
ていった。そろそろ通常のジェットエンジンで到達することのできる限界になりつつあるのだろう。ここまでは安
定飛行だ。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
「何を?」
「今回のフライトの目的だよ」チコの目が僕を見据えていた。
「世の中にはね、実際どんなに素晴らしいと思えるものでも、それをついうっかり口にしてしまった途端につまら
なくなるなんてことが多々あるんだよ。見てのお楽しみじゃ駄目かな」
「うーん、じゃあヒントちょうだい」
「ヒントって言ってもねえ」僕は頭を掻いた。「じゃあ特別に明かすけれども、これは君に対するお礼であり恩返し

52 :No.13 Space Wonder Morning 3/5 ◇D8MoDpzBRE:08/01/06 22:11:32 ID:gp3+6sJH
なんだ。僕が貧乏学生だった頃、辛い試験期間を乗り越えるのにはどうしても君の声が必要だった」
 僕の言葉に反応して、チコの頬が赤くなった。
「ひょっとして、あのこと? まだ覚えてたの?」
「忘れるはずもないだろう。あの頃、君がモーニングコールをくれたお陰で今の僕があるんだから」
「イヤだもう。忘れて」必死で両手を振りながら、チコが抵抗の姿勢を示した。
 その瞬間、ぐらりと機内が揺れた。僕らが相当高い地点まで来ていることは分かったが、機体はそこから更に
機首を上げるような体勢に突入している。
「そろそろじゃないかな」
 僕がそう言い終わるとほぼ同時に、機内の赤ランプが点滅した。異常時にもこのランプは点灯するようにでき
ているのだが、今回はエンジンを切り替える際の合図として点灯した。
 機械音声によるカウントダウンが始まる。
「え、もう次が来るの? まだ心の準備ができてないよ」
「君のために点火を待つなんてことは出来ないからね。言っておくけど、これから来るやつは離陸の時とは比べ
ものにならないよ」
「もう、やめてよ。意地悪ッ――」
 語尾は聞き取れなかった。それだけ爆音も衝撃も激しかったのだ。まるで雪崩と大火事が同時に来たような
轟音をバックに、ほとんど機体は垂直に起き上がっているんじゃないかと思えるくらいの重力加速度を受けてい
た。
 言葉が重力に呑まれてしまったかのように喉元から吐き出せない。呼吸するのも難しい。隣の座席に座ってい
るチコを気遣ってやりたいと思うのだけれども、首を曲げたら最後、二度と元に戻らないような気がしたから様子
を見てやることも出来ない。辛うじて僕らは手と手を取り合って、堅く握りしめた。
 理論上、加速は二分ほどで終わるはずだった。しかし、その二分が一時間にも二時間にも感じられた。息を
止めていたことが時間感覚に悪い影響をもたらしていたのかも知れない。しかし、呼吸をしようにも出来ないの
だ。
 突然、それは収まった。僕らは身体をつんのめらせるようにしてその瞬間を迎えた。反動というやつだ。二分
のトンネルを抜けたのだ。
「おいチコ! 僕たちは今、宇宙にいるんだよ」僕は興奮を抑えきれずに言った。極度の酸素不足に陥っていた
はずだったが、気にならなかった。
「本当に? もう何が何やら分からないよ」チコが息も絶え絶えに返答する。
「外を見てみなって」

53 :No.13 Space Wonder Morning 4/5 ◇D8MoDpzBRE:08/01/06 22:11:51 ID:gp3+6sJH
 チコが恐る恐る窓の外を見やった。
 僕はシートベルトを外した。ふわりと身体が浮く。重力の影響の及ばない宇宙空間に来た僕たちは、もはや床
に足の裏を付けるように強要されることもないのだ。僕はチコの肩に寄り添うようにして同じ景色を眺めた。
「大丈夫なの? シートベルト」
「平気さ。これから後は基本的に慣性飛行だから揺れたりすることも少ない。ただ実際にはこの機体を赤道上
の周回軌道に乗せるための微調整が必要だったり、その後静止トランスファ軌道に修正しないといけないけれ
ど」
「難しいことは分かんないや」
「そうだね」
 僕たちは難しい議論を諦め、顔を並べてただ宇宙の景色に吸い寄せられるように見とれていた。星は瞬いて
いなかった。大気の揺らぎに影響されないために、遥か遠方から放たれた光がぶれることなく瞳を射るのだ。
 眼下には地球が見えた。それはまるで僕たちが生まれ育った大地とは別物のような相貌をしていた。
「ねえ、太陽はどこにあるの?」チコが僕の方を向く。「それともまだ夜のまま?」
「いい質問だね。その答えは後ろの窓にあるさ」
 僕はチコにシートベルトを外すように促して、そのまま彼女の手を取ってフワフワと機体の後部に移動した。チ
コは無重力状態でどう立ち振る舞えばいいのか分からず混乱しているようだった。僕はその様子が可笑しくて、
ついつい笑ってしまった。
 やっとの思いで後方の大きな窓に辿り着いたチコは、驚きのため息を上げた。
「すごい」
 僕たちが見たのは、地球の丸い輪郭から半分ほど頭を覗かせて差し込んでくる太陽光だった。目を焼かない
ように、機体の窓には光量を調節するシートが取り付けられていたが、それでも太陽が持つ威容はその他の星
の輝きとは比べるべくもなかった。
「これは日の出なの? それとも日の入り?」チコが僕に訊いてきた。
「地上と同じ感覚で考えればいい。僕たちは夜明け前に地球を経っただろ? だからこれは日の出だ」
 チコがなるほど、と肯いた。
「そして僕たちはこれから太陽から逃げる」
「太陽系外?」
「いやそういう意味じゃないんだ。まあ見てれば分かる、かな?」
「もう、さっきからはぐらかしてばっかりじゃん」頬を膨らませながらチコが抗議してきた。
 僕はハハハと中途半端な笑い声を漏らして後ろの壁を蹴った。反動で、身体は機体の前方へと導かれた。逃

54 :No.13 Space Wonder Morning 5/5 ◇D8MoDpzBRE:08/01/06 22:12:06 ID:gp3+6sJH
げたなー、と笑いながらチコも僕を追ってくる。
 僕たちは無重力鬼ごっこを堪能した。重力という足場を失って、むしろ僕たちは自由に飛び回った。それこそ
鬼ごっこなんて小学生時代以来のことだと思う。無論、無重力でやるのは初めてだ。僕は容易にはチコに捕ま
らなかったし、一方のチコはひとたび僕を捕まえると容易には離してくれなかった。
 十回くらい鬼が交代した。僕がチコを捕まえて、背後から羽交い締めにした時だ。チコが頬ずりをしながら僕
の唇に唇を重ねてきた。それが鬼ごっこ終了の合図になった。
「ありがとうね」チコが呟いた。「これが目的だったんだよね。宇宙に連れてきてくれたことが」
「それだけじゃないさ」僕が応える。「言っただろ? 僕は君からプレゼントされたモーニングコールのお返しが
したいんだって。君からもらった素敵な朝と引き替えに、僕は君だけにこの素敵な朝をプレゼントしたいんだ」
 もう一度、僕は後ろの窓の方に向かって指を指した。依然、太陽は地平線から半分だけその顔を見せて輝い
ている。
「この機体は地球が自転する向きと反対方向に、つまり太陽から逃げるように地球の周りを回り続ける。二十
四時間かけて。だから、この機内はずっと朝なんだよ。そして僕たちが地球に帰還する頃には、昇ったばかり
の太陽が地球の大気の色を真っ赤に染め上げる時間帯になっているはずだ。宇宙からは見られないけれど、
その現象のことを地上では朝焼けって言うんだ」

[fin]



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