【 All right, this world 】
◆EQP3Ercj1w
35 :No.09 All right, this world 1/5 ◇EQP3Ercj1w:08/01/06 22:02:43 ID:gp3+6sJH
空の片隅が薄い灰色に染まり始めていた。雪が降っていた。街灯がその雪を照らすほどにはあたりはまだまだ暗いけれど、もうすぐ朝が来ようとしていた。
僕は過ぎ去った夜を思い返して「喉、いてぇ」と呟いた。
あぁ、徹カラなんて参加するんじゃなかった、と呟いた。
ボーネンカイ。バイト先の忘年会。僕がひそかに狙っていた女の子は酔った勢いで僕に「この前告られちゃってさ」って言って薬指の指輪を見せた。
僕は飲んでいたビールでむせそうになった。
「あ、あ、良かったね。相手はどんなヤツ?」
それしか返事できない僕を、その女の子は笑ってあしらった。
その後の僕は、普段なら参加しないニ次会で、ひたすらに歌った。十何曲目で急に気持ち悪くなって、途中で抜け出した。
「あ、帰るの? お疲れー。って、こら、次はアタシが歌う番ー!」
僕は今ひとり、徒歩15分のところにある下宿先まで歩いている。
「寒いなぁ……」
雪がしとどに降る。しとど、でいいんだっけ。違う気がする。知らないや。雪降る朝の街は僕以外誰も歩いていない。似たような境遇のヤツも、ホームレスさえも。
時計を見る。午前4時30分。僕の横をゆっくりタクシーが走り去る。でも僕は乗らない。
「乗ればよかったかなぁ……」
そう呟くと、ふと、頭上からの雪がやんだ。
アーケードの下に来ていた。
道路をまたぐように左右から続くアーケード。最近はすぐそばの駅前の大型店舗に客を奪われている、寂れつつあるアーケード商店街。
横を向けば雪の積もっていない、人の気配もない舗装された道。前と後ろには雪が降り続く真っ白な朝の光景。
まるで動物園の檻か水槽の中にいるみたいに、僕はアーケードの外の朝を眺める。
街灯に照らされた、静かな白くて暗い朝。
アーケードからのすこーん、という音によって破られる、静かな朝。
――音? 僕は音のした方を振り向く。アーケードの中。目を凝らしてようやく、その片隅の錆びたベンチに、僕は音の主を見つける。
女の子。
高校生くらい。茶髪じゃなく黒い髪。肩まで。コートを羽織ってるけれど、下から覗くのは生足だからたぶん、スカート。ってことは制服? 高校生?
すこーん。女の子が座ったまま足をぶらつかせて、ブーツが地面を打つ。すこーん。早朝のアーケードに、高校生の女の子が一人で座っている光景に僕は驚く。
アーケードの中にも、その周囲にも、他に人の気配はない。
……どうしよう。
……っていうか、何でこんな時間に一人で?
結局、僕はアーケードの中に入る。ベンチに座る彼女に歩み寄る。33%の暇つぶしと33%の好奇心と33%の下心を持って。結局、僕はいつも100%にはなれない。だから狙っていたバイト先の子だって逃す。
36 :No.09 All right, this world 2/5 ◇EQP3Ercj1w:08/01/06 22:03:02 ID:gp3+6sJH
でもベンチに座っていた彼女は逃げないで、近づいてきた僕を見上げた。
見下すような視線で見上げた。
「……わたしに御用?」
ぱっと見ではわからないくらい薄い化粧。来ているのはやっぱり制服。進学校の。
ピアスだってしていないその女の子は、口にうっすら笑みを浮かべて、嘲るように僕に訊いた。
あっちは高校生で、こっちは大学生。
でも、笑われた僕は急に怯む。33%の下心を僕は捨てる。33%の好奇心に恨みを抱く。33%の暇つぶしを諦める。0%の僕は一刻も早くここから立ち去ろうとする。
アーケードの外では、真っ白な雪が降る。
「何か御用?」
「………」
立ち去ろうとした僕を、女の子はベンチの空いた場所をぱんぱんと叩いて止めた。とりあえず座ったら? 僕は、逆らえなかった。
彼女は一転、どうしようもなく優しげな口調で僕に訊く。
「それで、何か御用?」
「……別に」
「ヘンなの」
「引き止めたのはそっちだ」
「でも近寄ってきたのはそっち。下心見え見えだったよ、ばぁか」
すこーん。ブーツが地面を打つ。僕は思わず彼女から目を反らして、ベンチからアーケードの端、道路の方を見る。でも立ち去らない。彼女の「ばぁか」が僕をここに引き止める。
外では、まだ、雪。でもここに雪は降らない。この中だけ世界から隔離されている。そんな気分。
「……ホームレス、いないんだね」
「当たり前じゃん。いま時期こんなトコに寝たら死ぬし」
ドコに行ったかは知らないけれど。あいつらもタイヘンだよね。彼女は話題を変えようとした僕の言葉にも、何の気なしに返事する。吐く息は白い。
それから、沈黙。彼女も、僕の隣から立ち上がろうとはしない。
「……キミさ、学校は?」
「あるよ、冬休みだけど。とーきこーしゅー」
冬期講習。彼女が間延びした口調で言う。思ったとおりの高校生。
ベンチの向かえで閉まったシャッターの張り紙が、『たむろお断り』と言う。
「その制服、K高だもんね。勉強大変そうだ」
「あ、おじさんわかるんだ。やるねぇ」
37 :No.09 All right, this world 3/5 ◇EQP3Ercj1w:08/01/06 22:03:20 ID:gp3+6sJH
「おじさんじゃなくて、まだ大学2年なんだけどな……この前まで普通の高校生やってたし」
キミと3つぐらいしか歳違わないよ。そう言うと彼女は「ゴメンゴメン」とようやく、普通に、笑う。
「じゃあおじさん、大学は?」
「今は休み。短いけどね」
ふうん、と彼女は口を尖らせる。それからすこーん、とブーツの音。アーケードに異常に響く。その中で、僕の隣で話している彼女は普通の女の子に見える。
また、沈黙。何となく、僕はこの沈黙が嫌いだ。
「あのさ……キミの名前、訊いていい?」
ケータイのボタンを叩いていた彼女が、顔を上げて僕を見る。
「何で?」
「何となく」
「そのうち番号と住所も訊くんでしょ。ばぁか」
「き、訊かないって」
「知ってるよ。そんな度胸なさそうだし」
「なっ……」
彼女は僕を見てケタケタ笑う。カバンから飲みかけのペットボトルのジュースを出して飲んでから、彼女は「アリス」と言った。
「この前読んだ小説の登場人物の名前がそれだったから、そう呼んで、名前」
「小説もろバレじゃん」
僕がそう言うと、アリスと名乗った彼女は人差し指を左右に振った。楽しげに。何かを楽しむように。
「甘いね、おじさん。アリスって名前が出てくる小説なんていくらでもあるよ。さて、どのアリスか、おじさんにわっかるっかなっ?」
「……全部同じだ」
投げやりにそう返した僕に、彼女はにっこり微笑んで言う。
「ご名答」
「え、いいのかよそれで」
彼女は頷く。
「いいの。世の中そんなもんだよ」
世の中、という部分を彼女は強調する。世の中。世界。このアーケードの外で雪にまみれている世界。“そんなもん”なその世界から、今だけ隔離されている、僕たち。
「ところで、おじさんの名前は?」
彼女からの問いに、僕は悩む。“そんなもん”なその世界で僕には一応名前はある。けれど考える。彼女はアリス。僕は考えて、答える。
「……ないよ、名前。僕なんて小説でいえば脇役の脇役の、それこそ名前ももらえないようなキャラだと思うし」
そんな僕の回答をじっくり考えてるふうな、彼女。普通に可愛い、と思う。バイト先の、髪の毛をケバいくらい茶色に染めた連中よりずっと。そんな僕を見透かすように彼女は「ばぁか」と呟く。
38 :No.09 All right, this world 4/5 ◇EQP3Ercj1w:08/01/06 22:03:45 ID:gp3+6sJH
「でも回答には99点あげる。やるねえ、おじさん。あたしが99点あげるなんて、おじさんは特別だよ」
「特別、ねぇ……」
何で高得点なんだろう、でも99点は、僕らしいかな、と思う。1点足りないあたりが特に。彼女はそんな99点の僕を見て、言う。
「で、そんな99点のおじさんは、今まで何してたの?」
「ん? バイト先の忘年会の後カラオケしてた」
僕は何気なく言う。
「夜のあいだずっと歌ってたんだけど、何か色々嫌んなって、途中で抜け出して――」
……何気なく言ってしまってから、気づく。
大事なことに。ずっと思ってたけど、あえて触れなかったことに。
……じゃあ、彼女は夜のあいだ何をやっていた?
わざと訊かないようにしていた疑問。でも心の底ではそっと抱いていた疑問。訊いちゃいけないと薄々勘づいていた疑問。
訊いたら、全てが壊れそうな気がする。
けれど彼女は、笑って僕の質問を待っていた。いいよ、訊きなよ? 彼女の表情がそう言っていた。
「わかってるくせに、ばぁか」
だから僕は、全てを壊すスイッチを押さざるを得ない。
「……キミは何してたの?」
「ホンモノのおじさんからお金もらってイロイロ」
彼女は即答する。
僕は後悔する。
――訊かなければよかった、と思う。
思わずスカートから見える細くて白い足を見てしまう僕を、僕は嫌悪する。思わず制服の胸元を見てしまう僕を、僕は嫌悪する。
それから僕が彼女の答えを一切理解できない人間だったら、と思う。たとえば7歳ぐらいの子供だったら、とか。
そうしたらたぶん僕は彼女とずっと会話を続けることができるだろう。普通の彼女と普通の会話を続けることができただろう。
綺麗な黒髪の彼女をただの平凡で純粋な女子高生だと思って、友だちもたくさんいるんだろうなぁ、なんて思いながら会話することもできただろう。
でも僕は、彼女が僕とは違う世界の住人だったと知ってしまう。
「今からあたしと一緒にどっか行こっか? ……あ、お金は取らないよ。学校はサボってもいいし」
「うん」なんて、僕は言えない。
そして彼女は何もかも、わかってる。
「って、冗談冗談。乗らないでしょ? だよね」
彼女の言ったとおり、僕にはその度胸がない。僕にはいつも何かが足りない。彼女が言ったとおり、僕は99点なのだ。
39 :No.09 All right, this world 5/5 ◇EQP3Ercj1w:08/01/06 22:04:02 ID:gp3+6sJH
彼女の世界に入ることなんて僕にはできやしない。
僕は彼女を呆然と見つめる。そして彼女は、全てを許すような笑顔を僕に向ける。許す? 誰を?
すこーん。ブーツが地面を蹴って彼女の声が聞こえる。
「だいじょうぶだよ、夜はもう終わったからさ。落ち込まないで。だいじょうぶ」
すこーん。
「あたしはどこにでもいるようなアリスで、おじさんはまだ名前のついてないキャラだからさ。きっと何にだってなれるよ。だいじょうぶ」
「……そっか」
大丈夫。彼女は繰り返す。大丈夫、大丈夫。そっか。大丈夫。……でも一体、何が大丈夫なんだ?
僕は「そっか」なんていいかげんに答えておいて、でも全然答えを見つけ出せない。
アーケードの外。まだ雪が降ってる。たぶん晴れないまま朝はやってくるだろう。誰にでも平等に朝はやってくるだろう。
世界に何があったって、夜は必ず去っていくだろう。
「あたし、もう行くよ。腰痛いし、帰ってシャワー浴びたいから」
すこーん、と最後に地面を打ち鳴らして彼女は立ち上がる。それからアーケードの外に出て、雪の降る中に消えていく。
“そんなもん”な世界の中、『ホンモノのおじさんたち』にしてみれば“どこにでもいるような”少女に、彼女は戻っていく。
「待って!」
僕は思わず外に飛び出す。彼女はもう消えている。そのときケータイが震えてメールが来た。急いで開くとバイトの同僚からのメール。
『具合悪そうだったけど無事に帰れた? だいじょうぶ?』
僕は、答えない。代わりに僕はもう一度叫ぶ。
「待ってったら!」
けれど誰も答えずに、雪だけが僕の頬に降りかかる。
僕は下宿に帰って服を脱いでシャワーを浴びる。熱い熱いシャワーを頭から浴びる。シャンプーが目に入って、痛い、と思う。
痛い。
涙が出てきて、何のせいで出た涙だろう、と思う。
シャワーから出る。部屋の寒さに震えた。それから見た窓の外は一面の雪で、けれどもう、街灯がいらないくらい明るくなっていた。
夜は、もう過ぎ去っていた。
服を着て、それから僕は窓をいっぱいに開ける。外の空気が雪ごと流れ込んでくる。その冷たい空気を思いっきり吸い込んで、ふと僕は彼女にも、同じ朝が来ていればいいな、と思った。
同じ朝の空気を吸い込んでいてくれればいいな、と思った。
そうすれば、きっと大丈夫な気がするから。きっと、大丈夫。
理由はわからないけれど、きっと、大丈夫。きっと。