57 名前:No.16 心を込めて 1/4 ◇ZetubougQo 投稿日:07/12/30 23:34:52 ID:Sc9eEBrb
僕が彼女と交際を始めたのは、まだ自分が大学生のころだった。
そのころの僕は、毎日特に目標も無く、典型的なモラトリアム人間だった。
彼女のことは、実はずっと前から知ってはいた。
何か一本筋の通った感じで、自分とは違う世界の住民。
僕が持っていた彼女に対しての印象は、そんな感じだった。
その彼女のことを見るようになったのは、僕が彼女と同じ趣味――本――が好きだったからだった。
家の近くの本屋。
いつものように新刊をチェックして話題作をちょっと立ち読みした後、
ふらりといつもは行かない趣味コーナーへ行き、適当に近くの本に手を伸ばす。
そんないつもと変わらない日常の延長線上。
それが、僕と彼女の「出会い」だった。
出会いはそんな些細なことだったが、それがきっかけで僕は彼女のことをよく見るようになった。
知的で、物静かで、それでいて躍動感あふれる彼女。
いつしか僕はそんな様々な面を持つ彼女の魅力に虜になった。
彼女のことを色々と知り、声をかけ、勇気を出して、そして……僕は彼女のとなりに居るようになった。
僕は彼女と居ることで「生きること」に意味を見出すことができるようになった。
暗闇の中に居た僕に未来を指し示してくれた彼女。
無気力だった僕に一生懸命になれるものをくれた彼女。
そんな彼女は、僕の憧れであり、希望だった。
僕は彼女に愛のすべてをぶつけた。
いや、愛だけじゃない。
悩み、不安、価値観。
幸せ、喜び、思い出。
僕は、己のすべてを彼女に語り通した。
それを。
そのすべてを、彼女は一つひとつ受けとめてくれた。
僕は初めて、ああ、自分のすべてを尽くしたい、と思った。
58 名前:No.16 心を込めて 2/4 ◇ZetubougQo 投稿日:07/12/30 23:35:09 ID:Sc9eEBrb
彼女の澄んだ心は、まるで静寂の中の湖畔、丹念に磨きこまれた鏡を思い起こさせた。
苛められたとき、災難にあったとき。
彼女は僕の心の乱れを赤裸々に見せてくれる。
幸せなとき、楽しいとき。
彼女は僕の幸福感をさらに高めてくれた。
彼女のために費やす時間は本当に楽しかった。
うまく行かないときがあっても、僕はそのたび一回り成長して乗り越えてきた。
もし彼女と出会っていなかったら、世界がこんなに輝いていることも知らず、自分の可能性をここまで引き出すこともできなかっただろう。
僕は大学を出ると僕は、彼女にすべてをささげ、彼女のために生きていくことを決意した。
茨の道だという事は自分でも重々承知だったし、何も大学を出てまで、と呆然とする親の気持ちも分かるつもりだ。
それでも、僕は決断を覆しはしなかった。
59 名前:No.16 心を込めて 3/4 ◇ZetubougQo 投稿日:07/12/30 23:35:24 ID:Sc9eEBrb
だが――
やはりというか必然というか、僕のような若造が食っていくにはこの世界はあまりに過酷過ぎた。
また今日も門前払いを喰らい、一人夜道を帰途に付く。
分厚く雪の覆いがかけられた細道を、かじかんだ手に封筒を抱え込み、歩く。
ボロアパートの一室にたどり着くと、僕は薄暗い電球をつけ、そそくさとコタツにもぐりこむ。
疲れたなんて言ってはいられない。
赤くかじかんだ手で鉛筆を握りこむと、温まる間もなく次の仕事を開始する。
しんしんと雪が降る夜、かりかりという鉛筆の音だけが響く。
夜も更け、時計の針がそろって上を向く頃、身の切れるように冷えた空気を震わせて、鐘の音がやってきた。
等間隔で重く響き渡る百八つの鐘の音と、不定期に立ち止まる筆記音。
二つの音が二重奏となって狭い部屋に流れる。
鐘突きも半分ほど終わったころだろうか。
僕はそっと鉛筆を置き、宙を仰ぐ。
ほう、と肺に溜まった空気を吐き出す。
白く広がる息を眺めながらふとこの生活を振り返ってみる。
働きづめなこの極貧の生活。
夏には野草を採って喰い、冬にはコタツの電気さえ入れない。
工事のアルバイトで日当を稼ぎ、毎週出版社をまわり、採用口を探す日々。
傍から見れば不幸に見えるだろう。
でも。
それでも僕は、幸せだった。
彼女と居られるから。
彼女に自分のすべてをささげられるこの生活だから。
視線の先には一冊の本。
彼女との出会いのきっかけになったあの本。
『小説を書こう』
60 名前:No.16 心を込めて 4/4 ◇ZetubougQo 投稿日:07/12/30 23:38:27 ID:Sc9eEBrb
僕は鉛筆を拾い上げ、原稿の最後の台詞を書き込んだ。
「本当に、ありがとう」
僕はちびた鉛筆で文章の最後をこう締めくくり、原稿を新しい封筒に入れる。
本当に、ほんとうにありがとう。
そして。
新年も、よろしく。
ぱんぱんと封筒をはじくと、僕は小さく「彼女」に呟いた。