【 ネコミミ 】
◆D8MoDpzBRE




52 名前:No.15 ネコミミ 1/5 ◇D8MoDpzBRE 投稿日:07/12/30 23:24:46 ID:Sc9eEBrb
 ピコの嘆息が私に報らせる。もう時間は残されていない。
 私の寝室に深い夜が訪れる。空気を微かに湿らせながら、闇を部屋の隅々にまで這わせて真っ暗に染め上げ
る。月明かりが青白くカーテンを照らしている。
 私はベッドで横になる。白いシーツはまだ少し冷たい。肌が緊張する。
 後ろ足を震わせながら、ピコが私の寝床に忍び込む。微かな暖を私に分け与えて、私の懐で丸くなる。猫特有
の猫背で震えている。
 私は毎晩のように涙を流す。
 もう時間は残されていない、と知る。
「お腹が空いたの?」
 ほとんど自問するように、私はピコと向き合う。ピコは応えない。
 黒くて暖かい毛皮の向こう側で、鼓動する心臓の気配を感じる。速いビートを刻んでいる。
 ピコの半生に関して思いめぐらせる。
 ピコとは三週間前に出逢った。すでに老いて青息吐息の状態でピコは現れた。私はほとんど直感的にピコの
老衰を見抜いた。もはや野生で生きていく力は残っていなかった。
 しかしピコの生い立ちを、物語を、私は知らない。そもそもピコと呼ばれる前にどのような名前を持っていたの
かさえ、私は知らない。
「あなたのために何かを残したい」
 ピコは目を閉じて、耳を閉じている。柔らかい毛玉になっている。
 ピコが生きている証を、私は感じている。私の両腕に包まれて眠る小さな存在を。
 淡い光のような存在感。私はピコに癒されている。
 月が傾く。
 影が揺れる。
 私は眠る。

 ピコと出逢って以来、私は中学校には通っていない。東中。ヒガシチューと呼んでいる。干からびたシチューみ
たいな響きだ。
 両親はいるけどいない。死んではいないけど会ってもいない。そういう意味だ。二人とも家に帰ってこなくなって
久しい。たまにお金だけが私の口座に振り込まれる。父なのか母なのか、送金主は分からないし興味がない。
 昼過ぎに私は目覚める。
 私は孤独のまま迎える朝が大嫌いだった。両親がいた頃でさえ私は孤独だった。

53 名前:No.15 ネコミミ 2/5 ◇D8MoDpzBRE 投稿日:07/12/30 23:32:41 ID:Sc9eEBrb
 私は朝起きを拒んで、昼過ぎまでの時間を夢の中で過ごすようになった。
「ナーオ」
 ピコが催促する。もうピコは寝床にはいない。フローリングの床の上で、私の怠惰をなじるような目線を送って
くる。研磨された木目に、ピコの姿が反転して映っている。
「お腹が空いたのね」
「ナーオ」
 私は白いシーツから身体を滑らせて起き上がり、ピコを拾い上げて階下の冷蔵庫へ向かう。冷たいミルクの備
蓄を切らさないようにしている。湯煎で温めて、猫用のボウルに移しかえる。ピコはそれを舌の先だけで味わう。
 今朝の様子を見る限りでは全然元気そうだ。パッと見ただけでは死を間近に控えているようには見えない。
 私はマーマレードをパンに付けて食べる。時々、パンの切れ端をピコに分け与えるのを忘れずに。
 憂鬱が消えていく。起きたばかりの数分は、きっと私は低血圧か低体温なのだ。冬、自動車のエンジンがかか
りにくいのと一緒なのかも知れない。
 外は晴れ上がっている。陽光を受け止めきれずに、閉めきったカーテン越しに大量の光彩が透けて見える。
 出かけるべきだろう、と思う。ピコを連れて。たまには散歩にでも出かけないと、鬱屈したまま私の人生も終わっ
てしまうに違いない。
 私は身支度を調える。薄手のコートとニットのマフラー。白とピンクを選んだ。そして黒猫のピコ。私はピコを抱
き上げる。
 久し振りに広すぎる家の玄関のドアを開ける。風が吹き込んで私の髪が揺れる。外の光が泡のように視界にわ
き上がってきて、私は少し目を背けた。

 河川敷の上の土手を歩く。冬枯れた並木を横目に見ながら。川面が穏やかに揺れている。
 犬の散歩とすれ違う。小学生の自転車に追い抜かれる。私たちは歩く。
 土手がほどよく傾斜している場所を選んで、私は腰を下ろした。ピコが私の腕から降りて、枯れた芝生の上を
転がる。横方向に二回。うつぶせになって尻尾を立て、トロンとした瞳を私に向ける。私は思わず吹き出す。もう
眠くなってしまったようだ。
 私は雲を見上げる。薄くかすみがかってその輪郭をはっきりと見せない。空の深さは一歩手前でその雲に遮ら
れている。
「オイ、サボり魔」突然男に声をかけられる。「小塚マミだろ」
 無視することにした。私は空を見上げ続ける。微妙に抜けるようなというまでには至らない青空を。
「ここ、座るぜ」

54 名前:No.15 ネコミミ 3/5 ◇D8MoDpzBRE 投稿日:07/12/30 23:32:55 ID:Sc9eEBrb
 隣にそいつが座る。男子中学生くらいの背格好。グレーのジャケットにジーンズというスタイルは完全に私服だ。
私はこの男の顔を覚えている。
「あんただって今、サボってるクセに」
「悪いが今日は日曜日だぜ」
 ハッとする。と同時に、バカにされたんだとも思う。
「帰ってよ。私、あんたのこと嫌いだから」
「チッ、何かお前つまんないな。いいよ帰るよ」
 そいつが立ち上がり、ズボンに付いた枯れた芝を払う。草の欠片が綿ぼこりのようにヒラヒラと風にあおられて、
ピコの鼻をくすぐる。
「プシュン」
「ピコ!」
「驚いた。猫もくしゃみするんだな」
「当たり前でしょ」
 私はピコを優しく抱き上げる。ピコの顔がふるふると震えている。
「この子、もう長くないの」
「どうして分かる?」
「何となく。でも、分かるの」
 不思議そうな顔をされる。自分でもよく分からない物事を人に説明するなんて難しすぎる。
 ピコに残された時間は少ない。私はそのことについて確信があるだけで、提示できるだけの根拠を持ち合わせ
ていない。
「とりあえず学校には来いって。卒業できなくなるぞ」
「無理。この子がいるうちは」
「……そうか。じゃあ、いずれまた来るってことだな。あばよ」
「最低」
 歩き去っていくそいつの後ろ姿を睨みつける。クラスではひょうきん者として人気があったけれど、少し軽口が
過ぎるきらいがあるそいつ。普段からそんなに話が弾むような相手ではない。
 それにしても名前が出てこない。そいつの名前が。三週間の欠席で忘れてしまうなんて変だ。気持ちが悪い。
 まるでそいつが幽霊みたいに思えてしまう。

 夕暮れ、私は冷蔵庫に向かう。冷えたミルクをとりだして、いつものように湯煎でそれを温める。実際に温度計

55 名前:No.15 ネコミミ 4/5 ◇D8MoDpzBRE 投稿日:07/12/30 23:33:09 ID:Sc9eEBrb
で測るわけではないけれど、四十五度くらいが適温のような気がする。人肌より少し暖かい程度。猫舌というくら
いだから、あまり熱くしても駄目なのだろう。
 ミルクを猫用のボウルに移してピコに差し出す。ふんわりと湯気が上がる。
「ほら、ピコ。お腹空いたでしょ」
 ピコは応えない。ボウルに背を向けて知らん顔を決め込んでいる。夜が近づくといつもそうだ。
 後ろ足が震えている。いかにもだるそうなあくびを繰り返す。私はピコのために、いつだって部屋の暖房を切ら
さない。
 私は諦めてピコを寝室へ連れて行く。まだ寝るには早い。
 ベッドの上にピコを載せると、そのままくたーっと身体を伸ばしてしまう。鼻をフスフス動かしている。もう寝てしま
うのだろうか。
 私もピコの隣に並んで寝そべる。ピコはとても小さい。それでも呼吸しているし心臓は拍動している。息づかい
が聞こえる。
――ありがとう。
 ピコが言う。
 確かに今、ピコがそう話した。
 声質は声変わりする前の少年風と言っても少し違う感じだった。小動物風の声と言った方が近いのだが、本来
小動物は喋らない。
 嬉しかった。私は今ピコの声を聞いて、ピコの気持ちを知った。
 ピコを抱きしめた。苦しくならないように、そっと。羽毛を抱く時みたいに、柔らかい輪郭をただ触れるような手つ
きで。
 ピコは寝息を立てている。
 私はいつまでもピコを見つめている。頭上を夜が通り過ぎて、深い闇の帳がゆっくりと下ろされる。
 ピコの色が闇に溶けていく。私たちは境界を失って渾然一体となる。
 私は夢に落ちる。
 藤色の空に。
 流れの止まった川に。

 朝を迎える。薄明の淡く青い光に肌を照らされて、私はうっすらと目を開ける。
「ピコ?」
 私はピコを探す。すぐに見つかる。毛布の下に。

56 名前:No.15 ネコミミ 5/5 ◇D8MoDpzBRE 投稿日:07/12/30 23:33:24 ID:Sc9eEBrb
 動かない。
 目覚めたばかりの頭では事態を正確に把握できない。もやを掴んでいるかのようだ。
 冷たくなったピコの身体は、想像できないほどに固かった。毛皮をかぶせた彫像のように。
 綺麗だと思った。そう思った瞬間、悲しみが湧いてきた。
 ピコは死んでしまった。私はまた孤独になった。一ヶ月前も孤独だったはずなのに、今の私にはこの孤独が耐
え難い。
 私はピコを抱き上げて階段を下りる。玄関に置いてあるサンダルを爪先に引っかける。足元は氷のように冷た
い。昨日、居間に置きっぱなしにしてきたミルクも、すでに冷めてしまっていることだろう。
 ドアを開ける。まだ夜は明けきっていない。凍てついた向かい風を受けて身がすくむ。
 家の庭に出る。とても広い庭。隅の方で土を掘る。
 埋葬。
 私はピコと切り離される。お互いの身体が隔てられる。冷たい土の蓋によって。墓標は用意していなかった。
 ピコは確かに私の心に痕跡を残した。ピコが生きた時間を私は共有した。そして私はピコの声を聞いた。
 思い出す。昨夜ピコが私に話しかけてくれたことを。私は最後の最後でピコと通じ合えたのだ。猫は一生のうち
一度だけ人語を話すという。それが本当なのかは分からない。
 ふと、私は不安を覚えた。本当にピコは人語を話したのだろうか? 私の耳が猫の言葉を解すようになったの
ではないか? どちらが本当なのか分からなくなる。途端に私自身の存在すらあやふやに思えてくる。
 次第に夜が明けてくる。私は寒さにずっと震えている。ピコが後ろ足を震わせていたように、私の震えも止まら
ない。
 今日は月曜日だ。私は曜日を取り戻すきっかけを昨日与えられた。日曜日の次は月曜日だ。逆らいようもない。
 しかし、居間の私には中学校へ戻ることがとてつもなく恐ろしく感じられる。なぜだろう。少なくとも、そんな風に
感じるのは初めてのことだ。
 不安を振り払うために、暖房の効いた室内に駆け込む。何かから逃げるように。エンジンがかかりきらないうち
の私はいつも何かに怯えているのだ。
 暖かいミルクを飲むために冷蔵庫へと走る。ミルクを湯煎にかけて、人肌よりも少し暖かくする。それを舌の先
で味わいながら飲み下す。



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