【 ユビキタス 】
◆kajX2y.naM




43 名前:No.13 ユビキタス 1/5 ◇kajX2y.naM 投稿日:07/12/30 23:19:53 ID:Sc9eEBrb
 陽射しはもはや暴力だった。鉄製のモノ全てがフライパンのように熱を持っていた。
 雲たちはとうの昔にどこかに引きこもってしまったらしい。見上げたそこには青空しかなく、それも既に嫌悪の対象になるほど、人々にとっては見飽きたものだった。
 ……来年も続きそうだな。
「も」に強勢を置きながら、レンは頭の中で呟く。
 去年も、一昨年も、その前も陽射しは暴力だった。たまに吹く風はサウナの暖房が噴出したそれのよう。その風は必ず、どこからか腐敗した生ゴミの臭いを運んでくる。
 これだけでも十分酷いのだ。だが人々は、背中合わせに浮上したもうひとつの問題と戦う必要があった。
 いつからか日本で、いや世界で、降水量が劇的に減少していたのである。
 各産業が大打撃を受けた。川幅が一気に狭まった。上水道には使用制限が掛かった。
 専門家は理屈めいた根拠を色々と並べ立てたものの、人々はそんなことには耳も貸さず、ただひたすらに「水」を希求した。
 現に今、この街でトップクラスの乗降数を誇るこのS駅前の広場には、ポリタンクを抱えた人々が水を求めて結集している。彼らは「あれ」の到着を待っている。
 人々のざわめきが一段に大きくなるのが、その到着の合図だ。
 この天気で各地のダムは干上がり、わずかな水を人々にもたらすのは「あれ」――給水車だ。このS駅の前の広場も、そんな給水車の到着ポイントにあたっていたのだった。
『まっすぐに列になって下さい! 皆様全員に行き渡る分の水はありますので! 押さないで! まっすぐに!』
 給水車から降りた係員が、待ち合わせポイントとして名高い犬の像に跨ってメガホンで叫ぶ。その声すべてが、人々の歓声、罵声、怒声によってかき消される。
 騒がしさが体感温度をさらに3度は上げる。
 ポリタンクを両手に持った人々が給水車を取り囲むように密集する。怒号が飛ぶ。
 その円の周囲にはもうひとつ円がある。彼らの成果を待つ者、給水車の円に加わる度胸がない者、そして、レンを含むその他もろもろの者が作る円だ。
 その外円の中では、メガホンを持った別の男がプラカードを持って叫ぶ。
『……神は、我々を、御国よりご覧になられていマス。神を愛する者だけが御国に行けるのデス。神ニ感謝! 神を愛しなさイ! 神ニ感謝!』
 近頃流行の新興宗教であった。レンは教団名を忘れていた(そもそも興味など無いのだ)が、この異常気象に便乗して信者を増やしている、というのは知っていた。
 レンはため息をつく。
 ……本当に神がいるんなら、こんなことにはなってないさ。
 人々の円を眺めていた老人が孫から習いたての英語で「ファック」と呟く。ランドセルを背負ったその孫は老人の隣で天に向かって中指を立てる。
 その様子が、ケータイで株価をチェックしていた銀髪に鼻ピアスの女子高生の視界に入る。彼女は近くに落ちていた1個300円のジュースの空き缶を少年に向かって放ったが大きく逸れて落ち、缶はレンの足元に転がった。
 レンはそれを思いっきり蹴飛ばしてみる。カーンという心地良い音が上天に響いた気がするが、周囲の音があまりに大きくて、レンにはその音は聞こえなかった。
 そのときレンの肩に、めいっぱい伸ばした誰かの手が触れる。
「……リリィ、仕事?」
 しかしレンは一切振り向かずに言う。レンよりも30センチほど背の低いその手の主――リリィという名の少女――は、一切顔を上げずに、レンのズボンのポケットを触れた。
 レンが鳶色のケータイを開くとメールが届いている。仕事のターゲットの住所が書かれたメールだ。差出人は、リリィ。
「ここから二丁先のマンションか、了解。リリィ、タクシーじゃなくて歩くけどいいかい?」

44 名前:No.13 ユビキタス 2/5 ◇kajX2y.naM 投稿日:07/12/30 23:20:11 ID:Sc9eEBrb
 リリィは麦藁帽子の下でこくりと頷く。遠くから救急車のサイレンが聞こえる。リリィは人形のように細い足を一歩、また一歩と前に出して、レンを先導するように歩き出す。
 レンは肩をすくめて、それから、歩き出しがてらに一言リリィに声を掛ける。
「似合ってるよ、そのワンピ」
 ピンクのワンピースの下で、前を歩くリリィの肩がびくんと跳ねる。

 そのマンションからは明らかに生気が感じられなかった。
 駅から少し離れたところにあるため、周囲にも商業用でなく居住用の建物が多く立ち並んでいる。が、その中でもこのマンションは、周囲から浮いてしまうほどに郡を抜いて落ちぶれている。
 人口だけ無駄に多いこの街で、両隣に新しいビルに挟まれたこのマンションは、いつ崩壊してもおかしくないようにさえ思えた。
 まるで廃墟だな、とレンは思う。
 給水の喧騒を遠くに聞きながら、レンとリリィは階段へと続く正面玄関の前に立っていた。本当にここ? というレンの問いに、リリィは頷きだけ返してワインレッドのケータイのボタンを叩く。
《部屋番号は406。エレベーターは故障》
 レンのケータイがリリィからのメールを受け取り、それを見たレンは「4階か」と呟く。
 それからリリィを見て「おんぶ、する?」と訊くが、リリィは黙って首を振って階段を登り始めた。
 リリィのパンプスが立てる音が、こぉん、こぉんと階段の中で響く。
 レンは各階で一旦階段を離れ、廊下を一通り歩いて住人の有無を確かめた。2階、3階ともに全ての部屋の表札は取り除かれていた。あるいは壊れていた。
 いくつかの部屋では廊下に面した窓が割れ、ガラスが廊下に飛び散っていた。
 4階に着いてからも、人のいる気配は一切しない。
 1つ目から5つ目の部屋はこれまで見てきたものと同様だった。レンは試しに401の部屋のドアを開けてみたものの、そこにはがらんとした2DKの洋室と、むっとする熱気が広がるばかりだった。
 そして406からも、人の気配は一切してこなかった。
 ただしひとつだけ違う点がある。この部屋には表札が掛かっていたのだ。
「榊原」と紙の上に筆ペンで書かれたその文字は、しかし長い年月の経過を感じさせるほど擦れて薄くなっていた。
 リリィがケータイのボタンを叩き、レンのケータイが振動する。
《ターゲットは榊原トシ子。79歳。6年前に死んだ夫はかつて小さな運送業者の社長。一人息子はその後を継がず、大手商社で管理職として働いている。彼以外身寄りは無く一人暮らし》
 ……ってことは財産はあるわけね。レンが小さく訊きリリィは頷く。だが、それでも、とレンは思う。
 金があるのにこんなところに住んでいるのは一体何故なんだろうか。

 レンやリリィの仕事は――彼ら自身は陳腐と知りつつも「何でも屋」と呼んでいる。
 社会が機能しなくなりつつあるこのご時世、金さえ渡せば何でもするという業者が、社会の“裏舞台”でそこそこの成功を収めていた。レンとリリィもまた、小さな「何でも屋」を営んでいるのだった。
 依頼は基本的には幅広い。レンとリリィは危険な依頼は扱わないが、それでも探偵やら貴重な物資の確保やら、大抵は大仕事になる。
 ところが今回、レンとリリィが受け取った仕事は、何とも味気のないものだった。

45 名前:No.13 ユビキタス 3/5 ◇kajX2y.naM 投稿日:07/12/30 23:20:28 ID:Sc9eEBrb
「一人暮らしのバアさんの生死を確かめてくれ。生きていたら死なないように取り計らってもらいたい。だが死んでいたら適当な処理を頼む。金はバアさんの口座から好きに使って構わない」
 依頼主は、忙しくて母の様子の見に行く暇がないという一人息子であった。

 406号室の錆びたドアをノックしても返事はない。呼び鈴にも返事はない。
 レンの呼び掛けにも答えはなく、レンがドアノブに手を掛けたのは半ば予定調和のようなものであった。
 果たして、鍵は開いていた。
 だが途端レンは慌てて鼻を袖で覆った。ドアの隙間から漏れ出てきたのは強烈な異臭。
 外で風が運んでくる臭いを何十倍に濃縮したようなそれに、思わずリリィもげほんと咳き込む。
 思わずドアを一旦閉めて、レンはリリィの方を振り向いて言う。
「……リリィはここで待ってていい。もしかしたら、ちょっとアレなものとご対面するかもしれないから」
 けれど、リリィは首を横に振る。ワインレッドのケータイをポケットから取り出してボタンを叩き始める。レンには、届くメールの内容がわかる。
 だからそれを見て、レンはやれやれと肩をすくめてみせた。
「泣くなよ」
《だいじょうぶ》

 ところが現実はレンの危惧を真逆に裏切る。
 散らかったゴミの数々、台所にうず高く積まれた洗っていない食器、鍋や冷蔵庫に残る腐敗しきった食品。
 それら負の象徴に囲まれてなお、寝室のベッドの片隅で、老婆は薄汚れた服と髪に包まれて、若干の脱水症状を起こしながらも確かに生きていた。
 傍に立つレンを、しかし老婆は見ようともしない。空気の入れ替えのために部屋の窓を開けていたリリィが隣に立っても同様だ。
「榊原さんで、いらっしゃいますか?」
 レンが大きめの声で訊くが、老婆からの返事はない。だが意識がないわけではない。レンが良く見ると、老婆は一心に手の中に握り締めた何かを見つめている。
 そして口では、何かをもごもごと呟いている。
「リリィ、この人が持ってるものって何だかわかる?」
《小さいけど、たぶん、人の像。新興宗教が売ってるものだと思う》
「ってことはさ、呟いてる言葉って……」
《神に感謝》
 開け放たれた窓から蒸し暑い風に乗って、同じことを叫ぶメガホンの声が聞こえてきた。

「あのお婆さんがあのマンションから出ない理由ってさ」
 ドアを開けっぱなしの寝室に老婆を残し、レンとリリィは汚れきった居間を片付けていた。

46 名前:No.13 ユビキタス 4/5 ◇kajX2y.naM 投稿日:07/12/30 23:20:41 ID:Sc9eEBrb
「歳のせいで行動力がないのか、それともあの宗教から、この場所からは動くなってお告げでも受けてるのかな」
《最低でもどちらかで、たぶん両方。でも、お婆さんは言わないと思う》
 良く見ると部屋のあちこちに札や小さな像が置いてあり、蝋燭の燃えかすも残っていた。この調子だと相当額をあの宗教に費やしたに違いない。
 あの像はひとついくらなんだろう、とレンはカビの生えた食器類をゴミ袋に入れながら思った。水がない以上は、洗おうにも食器が洗えない。
 後ろではリリィが、金色に輝くその像をじっと眺めている。
「……手伝ってくれよ」
 ワインレッドのケータイのボタンが高速で叩かれる。
《動くと暑いし手がカビくさくなるから嫌》
「言うと思った……。俺はこのゴミ袋捨ててくるから、その間に依頼主へ連絡を頼む。榊原さんは生存。ただし新興宗教の熱心な信者。同時に健康状態にも不安があり、病院か老人施設へ移すのを推奨、って」
 そしてレンは目の前のゴミ袋たちを眺めながら、ゴミ捨て場を何往復すれば捨てきれるんだろう、と思った。

 レンが部屋の玄関とゴミ捨て場を3往復して帰ってくると、リリィがキッチンに座り込んでメールを叩いていた。
 同時にレンの鳶色のケータイが震え始める。
《依頼主曰く、報酬は望むだけ。榊原さんの今後については好きにしてくれ、とのこと。ただし一切依頼主の手を煩わせない方法で、とも》
「……親が親なら息子も息子か。で、どうする? 俺たちが表立って病院や老人施設へ行くわけにもいかないしな……」
《119番でいい》
 いきなりそれはちょっと薄情すぎだ、とレンが笑う。
「一応榊原さんに訊いてみよう。答えてくれるとは思えないけどな……」
 レンが寝室に入り、リリィは少し躊躇したあとで、そっとレンの後に続く。
 老婆の様子は、あれから何も変わっていなかった。
「榊原さん、榊原さん?」
「……感謝します……神様に感謝します……」
 枕元で話しかけていたレンが、こりゃ駄目だ、と呟く。リリィはベッドには近づかず、寝室のドアのところからレンの様子を見ている。
「リリィ、もう帰るか?」
 レンは老婆から視線を逸らし、リリィの方を向いて何気なく訊いた。リリィは頷いて、それからワインレッドのケータイをポケットから取り出した。
 ……が、そのときだった。
「貴様……わしは見ていたぞッ!」
 レンが慌てて声の方へ振り向いた。この場で声を発する人間は他にただ一人――老婆しかいないのだ。
 するとあんなに弱々しく見えた老婆が、レンが振り向いた時には既に上体を起こし――そして、リリィへと飛び掛っていた。
「貴様返さんかッ!」

47 名前:No.13 ユビキタス 5/5 ◇kajX2y.naM 投稿日:07/12/30 23:20:54 ID:Sc9eEBrb
「ッ!」
 リリィはかろうじて老婆の手を逃れる。が、老婆は逃げるリリィの後をなおも追う。
 走り出す老婆を捕まえようとレンは慌てて手を伸ばすが、その手は老婆を掴むに至らない。
 寝室から飛び出したレンの目には、玄関で老婆に片腕を掴まれたリリィの姿が映った。
「手を離せッ!」
 レンは叫ぶと同時に老婆を引き離しにかかる。老婆は抵抗するもレンの力には叶わずにリリィから引き離される。が、なおも「返さんか!」とリリィに向かって叫び続けた。
 レンは老婆を押えながらリリィに向かって叫ぶ。
「リリィ、一体何をした!」
 リリィは呆然とレンを見つめていた。だがやがて、はっと思い出したようにポケットから1個の像を取り出した。
 部屋に飾られていた中のひとつだ、とレンは咄嗟に悟る。
 それをリリィは、まるで投げ捨てるように老婆に向かって放った。像が宙を舞う。老婆は最後の力を振り絞ってレンを振り切る。
 そしてそれを空中で掴みとると、そのまま老婆は、床に倒れこむままに気を失ってしまった。
 その場にどっと静寂が訪れ、リリィがすとんと、玄関にへたりこむ。

「……なんとなく欲しかったから部屋にあったやつを1個ポケットに仕舞った!?」
 老婆をベッドに寝かせたレンとリリィは、119番に電話をしてからあの部屋を後にしていた。
 道を歩きながら、リリィは俯いたままケータイのボタンを叩く。麦藁帽子の鍔でその画面は見えないが、届くメールはもうわかっている。
《ごめんなさい、もうしないから》
 やがて駅前広場に戻ってきた。給水車はまだ停まっていた。水を求める人々の中でひと悶着あったらしく、パトカーも数台傍に停まっている。
 水を待つ列は、もうあとわずかだった。
「……そのうち給水車だって神になれるかもな」
 レンが呟き、それを聞いたリリィが珍しく笑う。レンは麦藁帽子の上からリリィの頭を撫で、リリィの肩が同時にびくんと跳ねる。
「それにしても」
 レンが言う。
「泣かなかったじゃん、言葉どおりに」
 それを聞いたリリィは一気に歩調を速める。それからケータイのボタンが高速で叩かれレンの鳶色のケータイが震える。
 レンには、メールの内容が見なくてもわかる。リリィの小さな背中は読むなと言っているように思える。それでも結局、レンは見ずにはいられなかった。
《助けてくれてありがと》
 メガホンがどこかで「神に感謝」と叫ぶのが聞こえる。それを聞いたリリィは落ちていた空き缶を思い切り蹴飛ばす。
 青空に響くその甲高い音を、レンはその耳ではっきりと聞いた。



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