【 その牛乳は明日のために 】
◆D7Aqr.apsM




35 名前:No.11 その牛乳は明日のために 1/5 ◇D7Aqr.apsM 投稿日:07/12/30 23:13:23 ID:Sc9eEBrb
 母さんはどこかへ出かけているみたいだった。一人きりの午後の家は、静まり返っている。僕は牛乳パックを片手に、
階段を上がる。とりあえず、読みかけの漫画があった。あれを読み切って、それから遊びに行こう。そう思ってドアを開けた。
「あ、いけね」
 ランドセルを玄関に放り出したままになってたっけ。階下を見ながら部屋へ踏み込――めなかった。
 ふよん。
 そんな感触が僕の横顔にあたる。声が降ってきた。身体がぎゅっと締め付けられる。
――まさか。
 おそるおそる目を開けると、ざっくりとした手編みのセーターにつつまれた、ふっくらとした胸が目に入った。おおきい。
あいかわらず。や、それはどうでも良くて。僕は、僕の身体を抱きしめている腕をふりほどいて、飛びずさった。
「おっ、おまえっ! 勝手に僕の部屋に! っていうか、なんで日本に!」
 相変わらずトウモロコシの髭みたいにほわほわと柔らかそうな金髪は、少しのびたかもしれない。色白の頬は
興奮してるのか、きれいなピンク色をしていた。ただでさえでかい緑色の目を涙で潤ませて、そいつは立って
いた。片手に僕が読もうと思っていた漫画をもって。ふざけんな。僕が先に読むんだぞ。
「マリー!」
 二年前、僕の家にしばらくいた背の高いイソウロウは、にっこりと笑うと、改めて僕を、抱きしめた。
「コータおにいちゃん。ただいまー」
 日本語、がんばってるなあ。そんなことを考えながら、僕は必死に身体を反らして、顔にあたりそうになるマリーの胸をよけた。

 マリーがぶつぶつと英語で何かつぶやくのを後目に、僕は机にランドセルと牛乳パックをおいた。たぶん、『再会できた
ことを感謝します』かなんか神様に祈っているのだと思う。マリアは教会のシスターだ。二年前。僕が四年生の頃、日本に
来ていて、その時、しばらくうちにいた。麻疹にかかって、病院につれていったり、いろいろあったのだけれど、
とりあえずこの家では僕が先にいたので兄、マリーは妹分、ってことになっていた。マリーはたぶん、今年二十歳だけど。
「マリー、いいけどさあ。来るときは連絡しろよなー?」
 一通りお祈りが済んだのか、マリーは僕のベッドに上って、漫画を読み始めていた。なんだか二年前と全然変わってない。
あの時も、こうしてマリーは僕の部屋に入り浸って漫画を読んでいた。
「でんわ、したよー? おかあさん」にこにこと笑いながらマリーが応える。母さんまた茶目っ気だしたな。
「そっか。また、教会の仕事? どのくらいいられるの?」
 僕はふつうに日本語で話す。マリーは日本語の聞き取りはかなりの所まできていた。テレビなんかもふつうに見て、
わかるという。しゃべる方が苦手だ、と鏡文字が混ざった手紙に書いてあった。
「うん、きょうかい。少しおしごとー。少し、やすみ。あー……と。さんじゅーにち、くらい?」

36 名前:No.11 その牛乳は明日のために 2/5 ◇D7Aqr.apsM 投稿日:07/12/30 23:13:36 ID:Sc9eEBrb
 んぎゅ、とのびをして、ベッドに横たわった。少し丈が短いのか、セーターとジーンズの隙間から白い腹が見える。あわてて
目をそらし、牛乳に手を伸ばす。にや、と笑いながらマリーが僕の顔を見た。
「Milk、好き?」
 マリーは僕がもっていた紙パックを指さす。ぎゅうにゅう、は言いにくいらしくて、そのまんま英語の発音だった。
「せ、のばす? マリー、せ、おおきいけど、いもうと。だいじょうぶ。なのねー?」
 かふっ。牛乳が変な方に入って、むせった。ちくしょう、なのねー、じゃねえ。こいつら電話でどんな話したんだ。
「カルシウムとか身体にいいんだよ。……他にジュースもないし」
 しばらく首をひねったマリーは、部屋から出ていった。たぶん鞄に辞書を取りにいったのだろう。僕は一つ大きなため息を
ついた。次第に笑いがこみ上げてくる。元気みたいだ。よかった。時折手紙をやりとりはしていたものの、やっぱりこうして
会うのとは違う。
「あー、calcium。ふうん。……うそー? ほんと、がーるふれんど、せ、たかいだからじゃない?」
「てめえ、何いってんだよ! そんなんいねえ!」
 マリーはにやり、と笑って漫画本の表紙裏のあたりから、一枚の写真を取りだした。手品師がやるように、ぴ、と
指で挟んで顔の前にかざしてみせる。
「おなじ ぐらいじゃない? ちょっと たかい?」
 社会科見学の時、班で撮ったスナップ写真。小里は確かに背が高めだけど、同じぐらい……ってそうじゃねえ! 
「かみ、ながいー。かわいー。ねー?」 ……っていうか、てめえ、それ、どこからとった。
「人の机、あさったな!」
 マリーは笑いながらベッドから飛び降りた。目が爛々と輝いている。僕が写真に手をのばそうとすると、するりと身を
かわして部屋から逃げ出した。後を追う。おい、二十歳。こどもっぽいぞ。っていうか、日本まで何しにきた。
 居間、台所、風呂場とおいかけ、玄関でおいついた。逃げるマリーをなんとか捕まえる。取っ組み合いになった。
笑い転げるマリーにのしかかって、写真を取り上げようとしたところで、玄関のドアが開く。
「ただい……ま?」 母さんの声に我に返る。くそっ、なんだっていうんだ。
 
 おいかけっこで盛大に散らかされた居間に、マリーと僕は正座させられた。
「耕太、あんたの『妹』なんでしょう? 第一、男が女の子と取っ組み合いなんて恥を知りなさい! いろいろ十年くらい
早い! マリーちゃんも。机の中を見るのはやっぱり良くないわね。耕太に断ってからならいいけど」
 ちろっと舌を出して首をすくめるマリーと目が合った。
「二人で片づけ! 次やったら二人ともグーでパンチ! わかった?」
 マリーと僕はしびれる足をかばって立ち上がった。マリーが少し罰が悪そうな顔をしながら、写真を僕に差し出す。

37 名前:No.11 その牛乳は明日のために 3/5 ◇D7Aqr.apsM 投稿日:07/12/30 23:13:49 ID:Sc9eEBrb
「みんなーたのしそう。いいしゃしん」
「学校の行事だからな、そんな楽しくねー」
 片づけが終わり、ついでにいいつけられた風呂掃除が終わる頃、母さんの声が響いた。夕飯だ。

「マリーさん来てるんだって? まあ、通学路で抱擁は小学生には刺激が強いわな」
 クラス委員の牧野は給食を食べ終え、ふちなしの眼鏡を外し、小さな布でを磨いていた。その背後で、机をくっつけた
女子がこそこそと僕の方を伺っているのが見える。ただ、忘れ物を届けてもらっただけ。それだけなら良かったけれど、
走って追いかけてきたマリーは、じゃあな、と言って行こうとする僕を、家でするようにハグした。金髪の外国人って
だけでも目を引くのに、それが同じ学校の生徒と――その、ハグするなんてのは、ショックが強すぎた。らしい。
「あとで遊びに来てくれ。マリーも楽しみにしてる。あんまり教会にも行ってないし、なんか夜遅くまでニュース
ばっかり見てるから、退屈みたいだ」 ため息を吐く。三本目の牛乳が今一つおいしく感じられない。
「ニュース?」
「うん。衛星放送の、ずーっとニュースやってるやつ」
 アルファベット三文字の局名を牧野が言う。たぶんそれだ。マリーはずっとその放送を見ていた。画面の中には、
映画みたいな光景が繰り広げられていた。廃墟になったビル。走り回る戦車。泣き叫ぶ人々。爆発音。音声を
英語だけにして、マリーはじっとその画面の前に座り込む。早く寝ろよ。と声をかけるとにっこりと笑うけれど、
画面に向き直るとまたその表情が硬くなるのを僕は知っていた。教会の人間だから、争いが嫌いだから、
というだけじゃない。そんな風に思う。なぜかはわからないけれど。
 
 夜。目を覚ますと、部屋は真っ暗だった。なんだか寝苦しい。毛布を蹴って、僕はベッドから降りた。電話が鳴っている。
時計を見上げると、午前二時を少し回ったところ。僕は居間に降りて、受話器を取った。
「教会の矢上です。深夜に申し訳ありません。緊急の用件なのですが、マリーをお願いできませんか?」
 何度か会った事のある人だ。僕は電話を保留にして、僕の部屋の隣にある、マリーの部屋へ向かった。
 ノックをして名前を呼ぶ。返事がない。寝ていて当然の時間だけれど、その時間の電話だから、たぶん起こした方が
いいだろう。
「マリー?」
 そっとドアを開ける。
「起きてたなら返事しろよな。教会から――」
 暗闇の中、ベッドの上に、マリーは膝を抱えて座っていた。目が見開かれている。右手がパジャマの襟元を
ぎゅっとつかんでいた。僕は電話を差し出した。ほっそりとした手が、それを受け取る。指先が僕の手に触れた。冷たい。

38 名前:No.11 その牛乳は明日のために 4/5 ◇D7Aqr.apsM 投稿日:07/12/30 23:14:02 ID:Sc9eEBrb
 受話器を耳に当てると、マリーは英語で話始めた。深刻そうな顔。部屋を後にしようとしたけれど、マリーが僕を
引き留めた。僕をベッドに座らせると、後ろから僕の肩に額を乗せた。小さな声で、マリーは英語で話す。
 会話が終わった。マリーは僕に背中から抱きついてきた。ごとん、と音がして受話器が床に落ちる。通話は終わっていた。
「マリー? どうした?」
 ふざけてるわけじゃない。何か、とてもイヤな事が起こっている。そんな雰囲気を感じることしか僕にはできなかった。
「マリー、おとうと――gone」
「なに? 母さんか父さん呼ぶ? 英語の方がいいか?」
 ただごとじゃない気配に、僕はマリーに向き直った。何を言ってるのかわからない。
「あー……しん、だ? マリー、おとうと。しんだ。せんそう」
 せんそう――戦争? なんで? どこで? 僕の頭の中で言葉だけがぐるぐると巡った。マリーには本当に弟がいる。
一つだけ年下だったとおもう。それは知っていた。でも、戦争?
 ふらり、とマリーは立ち上がった。僕に手を差し出す。迷いもなく僕はその手を握り返した。部屋を出る。階段を下りて、 
居間へ入ると、マリーはボリュームを絞ってテレビをつけた。衛星放送。ニュース。戦車の前で何か喋っている
アナウンサーが見えた。
「まりー、おとうと、ここ。戦争。 gotta hit. ……あー、首?」
 マリーは、人差し指と親指を鉄砲のようにのばして撃つ。首にあたった、という仕草をしてみせた。
「うそ」
「うん、ほんとー。きのう」
 目に涙が一杯にたまっているのが見えた。マリーがひざまづき、腕を開く。照れくさい、とか言っている場合じゃ
なかった。僕は立ったまま、マリーの頭を胸に抱きしめた。背中に回されたマリーの手がふるえているのがわかる。
少しして、マリーは静かに泣き始めた。
 僕は何も言えず、マリーの髪をそっとなでた。それだけしかできない。頭の中が冷え切っていた。どうしたらいい
のだろう。なにを言えばいいのだろう。なにができるのだろう。そんなことはさっぱりわからなかった。麻疹にかかった
マリーを一人で医者へつれていってから二年たった。けれど、僕はまだ何もできない子供のままだ。なんで。どうして――。
 マリーは泣きながらぼそぼそと英語で何かをつぶやいていた。祈りの文句。僕はその言葉を聞くとはなしに
きいていた。四年の時からこれまで、少しずつ英会話を習ったりしていた。けれど、祈りの言葉のほとんどは
聞き取ることができなかった。ただ、一言を除いて。
「――――Thank God.」
 僕はその言葉に、どきりとした。神様。感謝。――何だって? どうして。僕は夢中でマリーの肩を掴む。
「マリー。なんで、そんなこと言うんだよ」

39 名前:No.11 その牛乳は明日のために 5/5 ◇D7Aqr.apsM 投稿日:07/12/30 23:14:14 ID:Sc9eEBrb
 僕の声は震えていたかもしれない。マリーが涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「マリーは、なんで――。くそっ、神様にあんなに祈ったり、教会を頑張ったりしてるのに、その神様は弟を助けられないくせに!
なんでそんな神様にありがとうなんていうんだよ! そんなのない。酷いじゃないか。そんな、神様が――神様が死ねばいいんだ!」
 そんなことを言ってどうなるものでもない。それはわかっていた。正直に、まじめに。人のために。そうすればいつかいいことが
ある。世の中はそんな風にできている。そう思っていた。けれど、そんな風に生きていても、こんなに酷いことが起こる。
「おにいちゃん。かみさまは――わるくないよ? おとうと いないは さみしー くやしい。けど、おとうと くるしむない だった。
すこし、すこしけどー よかった」
「そんなことしか神様ってできないのかよ」
 マリーが僕の顔を見上げる。僕は慌てて上を向いた。何故かしらないけれど、信じられないくらい涙が出た。天井の
電気がぐにゃぐにゃとゆがむ。マリーが立ち上がった。立てばあいかわらずマリーの方が背が高い。マリーは僕の頭を
そっと抱え込むようにした。マリーと僕は、目を覚ました母さんが様子を見に来るまで、二人でぼろぼろと泣き続けていた。

 二日後。マリーは飛行機の切符を手配して、帰っていった。あの夜からバタバタと色々な所に連絡をとったりしていたから、
僕はあまり話す時間がなかった。飛行機が飛んだのは水曜だったから、僕は見送りにも行けなかった。朝、学校に
行く前に、少しだけ話をしたけれど、マリーはどこかさみしげで、話すのが辛そうだった。その日、僕は自分の席から空ばかり
みていて先生に怒られた。
 遊びの誘いを断って、僕は家に帰った。自分の部屋。机の上にランドセルを放り出した。マリーが先に読んでいて、僕が
読よめなかった漫画が目に入った。本棚から抜き出す。なんとなく、そんな気がしていた。中程にカードがあった。
――おにいちゃん。 かみさま ぐーでぱんち まってください。まりー もうすこし はなします。でも、うれしかった。ありがとう。
またくるね。いもうと まりー。
 僕にはわからないことだらけだった。背は高いけど、マリーは泣き虫だ。本当にすぐ泣く。あの緑色のおっきな目に涙を
一杯にためて。「マリーが泣きませんように」マリーがしていたように、胸の前で手を組み、呟いてみる。これで少しでも
マリーの涙が減るのなら、グーパンチじゃなくて、少しだけ神様に感謝してやってもいい。
 カードを漫画に挟んで、本棚へ戻すと部屋を出た。台所で、冷蔵庫から牛乳を取り出す。紙パックの口を開いて、
大きめのグラスになみなみとそそいだ。僕はまだ子供で、何もできない。力が全然たりない。英語もわからない。
きっと、祈ったって神様は助けてなんてくれない。だから。いつかマリーが泣かなくてすむように。笑顔にしてあげられるように。
 僕は牛乳を飲む。


<その牛乳は明日のために 了>



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