【 醜いありがとう 】
◆VrZsdeGa.U




30 名前:No.10 醜いありがとう1/5 ◇VrZsdeGa.U 投稿日:07/12/30 23:10:58 ID:Sc9eEBrb
「ありがとう」
 なんと清潔な響きであろう。清潔すぎて、私には勿体ない言葉だ。
私が口にするにしても、私の為に誰ぞやがこの言葉を発するにしても、勿体ない。
決して謙遜の心からこんなことを言っているわけではない。間違いなくこれは本心から来るものだ。
たった五文字の言葉である。そのたった五文字が私を苦しめるのである。
狂おしい、あぁ、狂おしい。

 幼少の頃より、人に対し真摯な態度を以って感謝の言葉を言う人間ではなかった。
これはきっと後天的なものではない。先天的なものだ。生来より私の体に染みついてる塊だ。私が感じている苦しみ。
全てはその悪しき塊を、消し去れないまま、今に至っていることが原因なのである。
「おい、現国の吉田が呼んでたぞ」
「あぁ、わかった」
 このような性格の私でも、普通の高校生、と呼べる生活をしている。あぁいや、「出来ている」、と表現するのが適切であろうか。
人間の心の奥深くまで行かずとも、それなりの関係を保てるこの時代は、私にとって温床ともいえる時代かもしれない。
友人関係も、学業も、部活も、さほど苦慮したことはなかった。そんな世間一般に置き換えれば普通のことさえ、私を苦しめるのである。
余計なことを考えている、とお思いになっているだろうか?
「失礼します。吉田先生はいらっしゃいますか」
「おお、来たな、ちょっと待ってろ」
 確かに余計なことである。が、その余計なことがあまりにも大きすぎる。せめてあと一回りでも小さければ……。
「……はい、これが前頼まれてたヤツだ」
「ありがとうございます」
 あぁ、しまった、なんとなおざりな発音だろう。「り」と「が」がしっかりと発音出来ていない。
決して滑舌が悪いわけでもない。発音一つ一つに真摯な姿勢を込めていないからだ。
あらゆる場合において真摯な姿勢が伴わなければ、なにかと中身が薄くなってしまうものである。
しかしこの教師は私のそんな失敗にも気付かず、机の前に振り返って自分の仕事を再開している。
叱ってくれ、私を、戒めてくれ。
今あなたの後ろにいる男は、疑うべくもない罪人だぞ。裁かずしてどうするというのだ。
まさか気づいていないはずがあるまい。見過ごすというのか。臆病者めが――
そんな私の心の奥底から確かに叫ばれている訴えも、教師には聞こえているはずもない。
私は失礼します、と一言残し、乱雑な音を立てながら引き戸を閉め職員室を後にした。

31 名前:No.10 醜いありがとう 2/5 ◇VrZsdeGa.U 投稿日:07/12/30 23:11:13 ID:Sc9eEBrb
 この性分を是正出来る日は来るのであろうか――
何とも空虚な問いかけだ。我ながら萎えてしまいそうになる。もう少し捻りの利いた言い方は出来ないのか。
自分の疑問を自分で嘲笑するという矛盾に富んだ事をしながら、私は授業の合間の小休止を怠惰に過ごしていた。
何もこの性格が是正できなかったことを誰かのせいにするわけではない。親類や教師からはちゃんとした教育を受けてきたと思う。
人様からなにかしら御恩を受けた時には、「ほら、頭を下げて、ありがとうございます」
などと母親から頭を押さえつけられながら感謝を促されたものだ。そこに養育上の間違いなどなかったはずである。
やはり、全ては私のせいなのだ。
なまじ、感謝の言葉が大事であるということをしっかりと認識してしまったがために、蔑ろにしている面があるのかもしれない。
対人関係を取りつなぐための手段に過ぎない、世間を渡り歩くための許可書に過ぎない、人として最低限であるための方法に過ぎない、
心のどこかで、その様に思い込んでいるのかもしれない。
「……? おーい、……?」
 そしてその思いもまた、私を締め付ける。何かを口実にして、仕方ないじゃないか、と達観する事すらも私には出来ない。
逃げ道など、もうとっくに失った。
「ねぇ……ねぇってば!」
「……ん?」
 私を大声で呼ぶ声の方向に首を傾けると、肩に多少掛かる程度の髪を持ち(世間一般ではミディアムヘアー、というらしい)、
目が大きく鼻筋も通っている、顔立ちの整った女性が立っていた。
「あぁ……で、何?」
「何、じゃない! 今日も数学を教えてもらいに来ました」
 この女は隣のクラスに所属している。にも関わらず、何故今私のクラスに来るかといえば、
休み時間になるとこうしてしばしば、私に何かしらの教科の不可解な所を教えてもらいたい、と訪れてくるのである。
普通の男子校生ならば理想的なシチュエーションだと周りは囃し立てるが、私にはどこが理想的なのか全く理解できない。何故?
「そこは余弦定理を使うんじゃなくて、正弦に直して半径を用いて……」
「え? 正弦と半径の公式って……なんだっけ?」
 明確に言えば、この女は馬鹿だ。素養だのなんだのの関係のない所で、私に人を教える権利などないのである。
それだけでも嫌なのに、馬鹿を教えるのは苦労する。何が理想的なのだろう。
間の抜けた予鈴が鳴る。
「あ、もう時間だ。よくわかんないから放課後また来るね、ありがとう!」
 ……なんと綺麗な感謝の言葉であろう。思わず、我に返ってしまった。何が馬鹿を教えるのは苦労する、だ。
こんな綺麗な発音のありがとうが言える人の、どこが馬鹿なのだろう。馬鹿は、私ではないか。

32 名前:No.10 醜いありがとう 3/5 ◇VrZsdeGa.U 投稿日:07/12/30 23:11:30 ID:Sc9eEBrb
 寒空に重い灰色の雲が浮かんでいる。今年もまた雪の降らない冬になったが、寒いことには変わりがない。
世間は温暖化を切実にアナウンスしているが、私にとっては年々冬が来るたび、寒さが増しているように感じて仕方がない。
何がそうさせているのか。それを明言してしまうと、例の悪しき塊はまた大きくなっていってしまうような気がする。
「おい、また来てたな。ったく、お前も幸せ者だな、あんな可愛い子に毎日のように擦り寄られるだなんてさ」
 私を笑みの含んだ顔で見ながら、クラスメイトがからかうように話しかけてくる。
これの何が幸せか。全く、誤解も甚だしい。しかも擦り寄られる、では決して良い方向に捉えられる表現ではない。
しかし、この場合においては強ち間違ってはいないから、ある意味では正しい表現といえようか。
もしや、皮肉のつもりなのだろうか。
「でさ、お前はあの子のこと、どう思ってるんだ?」
 この男の言葉の意図している所はすぐに心得た。要するに、色恋の方向に話を持っていきたいのだろう。
強ち、私のこれまでの人生に関係のなかった話とも言い切れない。自らで語るのも嫌味があるかもしれないが、
それに関しても苦慮はしたことがない。しかし、誰かに狂おしくなるほど好意を抱いたこともない。
などと考えて返答するのを忘れているうちに、この男はさらに調子づいたように言葉を続ける。
「あの子は間違いなく、お前のこと好きだと思ってるぞ」
「仮にそうだとする。だからといって、お前は俺に何をしろというんだ? 俺にあの子と付き合えとでもいうのか?
 冗談はやめてくれ。それではあっちも報われたもんじゃない。恋愛はボランティアかなにかか?」
 以上が私の口からなんの抵抗もなく発せられた言葉である。やってしまった。己の意思だけを示すつもりだったが、
抑えきれず悪しき塊の一片までも出てしまったか。何かに亀裂が入ったような音が心のどこかでしている。
とはいえ、実に申し訳ないことだ。あんなに綺麗な感謝の言葉が言える無垢な女性と、このような悪しき塊を飼っている男。
不釣り合いも甚だしいと思わないか。そもそもお前のような腐った女性が人と交わることすらも甚だしいと仰るか。
「そ、そんなこといったってなぁ……」
 先程までの軽い口調を一変させ、萎れた声で何か言いたげであるが、どうやらそれが巧く表現出来ないでいるようだ。
視線はその焦点を定めきれず困惑している。まずい、こちらでなんとか取り繕わなければ。
「あ、いや、これは一つの意見であってだな……」
 間の悪い所で予鈴が鳴る。
それは小休止の終了を合図するとともに、私の弁解の余地まで奪っていってしまった。
男は救われたように一つ溜息をついて自分の席に向かう。だがその顔から未練がましいものは変わらず伺えた。
教師が教室に入り、日直が授業の開始を合図する。席から立ちながら、ふとまた窓の外を見つめる。
心なしか空に浮かんでいる雲は、先程よりも黒の色合いが増しているような気がした。

33 名前:No.10 醜いありがとう 4/5 ◇VrZsdeGa.U 投稿日:07/12/30 23:11:52 ID:Sc9eEBrb
 授業の全日程も終了し、教室の中は次第に閑散さを増していた。
時計の二つの針はおおよそ四時を表しているが、この時期になると滅多に鮮やかな夕日は見られなくなる。
それでなくても、このような雲の前では、あらゆる自然の絶景もかすんでしまうだろうが。
じっくりと見つめていると、また黒さを増したように見えてくる。
「やっほー、約束通り放課後にやって来ました! ……どしたの、難儀な顔して」
 私の視界にある物とは不釣り合いな陽気な声が聞こえる。誰のせいで難儀な顔をしていると思っているのだ。
無意味な怒りは心の中に留めつつ、返答はしっかりとしておかなければいけない。
「気のせいだろう。それで、どのあたりまで行った?」
「あ、それでね、正弦と半径の公式は分かったから、それに当てはめたら……」
 この女が私のことをどう思っているか。考えたことなど一切ない。勿論私がこの女をどう思っているかも。
私がクラスメイトの会話の中で、無意識に発したあの言葉は、間違いなく私の本音だ。
だが、あの言葉の中にこの女の好意に関する明確な否定の言葉は含まれていない。ただ、あの男の言葉に対する否定をしただけだ。
とはいえ、それが私がこの女に何かしらの好意を抱いているという証拠にはなりえない。無論、好意を抱いてないとの証拠にもなりえない。
「で、ここの長さはこうだってことはわかったんだけど、ここがわからないんだよね……あの、どうしたの?」
 女の言葉で、私は我に返ることができた。無意識のうちに、私の視線は虚空を彷徨っていたらしい。
あんな下らないことを吹き込まれた程度で意識がさまよってしまうとは。
「あぁ、それで、ここの正弦が求められたから、ここの長さもこうやって……」
 顔立ちのいい女性であることは日頃認識している通りだ。多少頭の抜けている所を除けば、特別この女を嫌うべき所もない。
この際クラスメイトの言葉を真に受けてみよう。……申し訳ない。余計に申し訳ないじゃないか。余計なことを、吹き込まないでくれ。
「あ、そうか、そうすればいいんだ。ありがとう! 助かったよ〜」
 また綺麗な感謝の言葉。
「お礼とか言われるほどのことは、してないから……」
 してないから、やめてくれ。私にこれ以上感謝の言葉をくれないでほしい。
「またこましゃくれたこと言って。本当に助かったんだからさ。もっと高校生らしくしなよ」
 こましゃくれた、か。よく言われる言葉だ。しかし、本来の意味から推測すれば、決して私には適当な言葉とは言えない。
私は大人ではない。ただ単に、ひねくれているだけなのだ。
「……もっと、人を信用してもいいと思うよ? ……信用っていうと、また何か違うとか君に言われちゃいそうだけど。
 ……とにかく人に心を開いた方がいいよ」

34 名前:No.10 醜いありがとう 5/5 ◇VrZsdeGa.U 投稿日:07/12/30 23:12:07 ID:Sc9eEBrb
 心を開く。それもよく言われたことの一つ。しかし心を開いたところでどうなる。
「心を開いたら……人には見せられないものが見えてくるよ」
「きっとそれは思いこみだよ。」
 それも言われたことのある台詞。所詮、この女も周りと何も変わりがないのか。
「……私でいいなら、頼ってくれてもいいよ」
 ……その心さえも本気かどうか。一瞬、私は女を一瞥する。しっかりとした眼差しで私に接してくれている。
その眼差しに、私はわずかにたじろぎそうになったが、すぐに顔を反らし、なんとか踏みとどまった。
そして、また視線を虚空に彷徨わせる。
「ふ〜ん……」
良いだろう。あなたの言うように、あなたを信用して見よう。あなたへ心を開いてみよう。あなたに頼ってみよう。
あなたが私を好きかどうか、私があなたを好きかどうか。その全てを明らかにしてやる。
この悪しき塊は、最早私の手には負えなくなっている。あなたは、これを浄化できるか?
安心してくれ、あなたを試すだなんて無粋な真似はしない。私を試すのだ。
私のような人間には許されていない禁忌を、今犯しに行くのだ。その過程の中で、どれだけ塊がどう変化していくか。
楽しみだ。実に楽しみだ。しかし、その過程のなかであなたが傷ついたとしても、私を恨んでくれないでほしい。
今あなたは確かに私に対し心を開いている。ならば私がどうあなたに接しても良いわけだ。心を開くということは、そういうこと。
あなたが望んで与えてくれた土壌に、私が乗っていくだけだ。恨まれるいわれはないだろう?
「気軽にいうね。本当に良いの?」
「……うん」
 今私はあなたにどんな顔をして接しているのだろう。心の中で思っていることが現われてやしないだろうか。心配だ。
いずれにせよ、恐らく第三者から見れば、これ以上ない悪人の顔をしていることだろう。それがあなたに読み取れるだろうか。
「そうか……」
 私は今、私が最も吐いてはならない言葉を吐く。それを決して聞き逃さないでくれ。なるたけ、しっかりと発音して見せるから。
「ありがとう」
 存外、その言葉が口からすんなりと出てきたような気がした。しかし、決して綺麗と呼べるものではなかった。
なんと、醜いありがとう。やはり私にはふさわしい言葉ではない。私は笑った。あなたは変わらない眼差しで私を見つめてくれていた。
雲の色は、更にどす黒くなったようである。





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