【 ありがとうだなんて言わないで下さい 】
◆vkc4xj2v7k




24 名前:No.8 ありがとうだなんて言わないで下さい 1/4 ◇vkc4xj2v7k 投稿日:07/12/30 11:23:02 ID:n/tY8v/n
宇津井が持つ唯一の情報源はラジオだった。彼はニュースが流れる時間になるとじっとラジオに耳を傾ける。
宇津井容疑者、宇津井容疑者、宇津井容疑者。宇津井は容疑者という呼称がつくことにもはや違和感は覚えて
いなかった。しかし、それでも名前の容疑者という言葉を聞くたびに、僕はやっていないんだと心の底で叫ん
でいた。なぜこんなことになった? なぜ僕の指紋が現金輸送車の中から出てくる? アナウンサーが読み上
げる情報はただ宇津井が犯人だという根拠を述べているだけだった。
 宇津井は疲れ果てていた。いっそのこと自ら出頭し、そこで無実を証明してやろうかと考えた。しかし、起訴されれば有罪確率は99%という統計を講義で彼は聞いていた。警察がここまで宇津井を容疑者と固めてマスコ
ミに情報を流している状況。宇津井は理解している。もし、宇津井がやっていないという証拠がでても起訴さ
れ執行猶予なしの実刑が下ることを。宇津井は逃げるしかなかった。
 宇津井は人通りの少ない道を選んで九州へ足を向けていた。講義で教授が面白半分に話した内容を彼は覚えて
いる。講義の中の余談で確定的な情報ではなかったが、どこか東南アジアの方へ渡る密航ルートが九州にある
のだという。そこには多額のお金やコネクションが必要らしい。宇津井はいくら金を積めばいいかわからなか
った。しかし、藁をも掴む思いで、拙い情報、一握の希望に賭けるしかなかった。
 昼は国道を避けてひたすら南を目指していた。日が落ちる前に歩き疲れることは多々あった、しかし、それで
も彼は歩みを止めるわけにはいかなかった。あと何日で到着するかもわからなかったが、暗い希望を掴むため
彼は歩き続けた。
 8日目の夜、宇津井はラジオをつけてニュースを聞く。別の殺人事件があり、とうとう宇津井の名前がラジオ
のニュースから流れなくなった。宇津井はそれだけで嬉しかった。ようやく世間から忘れ去られる存在になり
うるのだという可能性を見た。解放された感じがしたのだ。安堵の息をもらす。宇津井は逃亡してから初めて
笑顔になった。高揚した気持ちのまま宇津井は人目のつかないような寝床を探した。今日、彼は心地よく眠れ
るような気がしていた。彼は気のままに歩き続け、街灯のない公園を見つけた。宇津井は寝床をここにしよう
と決めた。
 宇津井はベンチを見つけて腰かけ、大きく一度伸びをした。今日は何キロ歩いたんだろう、あとどれほど歩け
ばいいのだろう、捕まらずに行きつくことができるだろうか。宇津井は安堵の中、不安とともに先のことを考
えていると睡魔が襲ってきた。久しぶりに快適な眠りにつける。
 宇津井が目を瞑り、横たわろうとした。
 一人の男が、倒れかけの宇津井の肩に手をかける。
 強く掴まれた肩から、宇津井の全身に衝撃が走る。背中が一気に硬直し眠気ははじける。彼は直感した。僕は
もうここで終わったと。

25 名前:No0.8 ありがとうだなんて言わないで下さい 2/4 ◇vkc4xj2v7k 投稿日:07/12/30 23:00:37 ID:Sc9eEBrb
「宇津井さんですね?」
 宇津井は肩の手を振り払い、ベンチから雪崩ように地面に転げた。体に全く力が入らない、完全に脱力してい
た。なんとか手の主の方に翻ると、足と手の力を総動員し、尻モチをついたまま後ずさりした。
「僕じゃない、僕じゃないんだって、本当だって。人も殺してないし、金だってとってない」
 宇津井は力いっぱい叫んだつもりだったが、口から何か漏れた程度のか細い声だった。
「ええ、わかっています。あなたはやっていません。我々はあなたを助けに来ました」
 宇津井は必死に自身の無実を訴え続ける。
「やってないんです。信じてください! 本当なんです」
「信じますよ、宇津井さん。安心してください。落ち着いてください」
 宇津井は息を飲んだ。目の前にいるスーツの男が宇津井を犯人ではないと、宇津井を信じてくれている。宇津
井は涙を流して男に抱きついた。
「いやいや、宇津井さん、私にそういう趣味はないんですけどね」
 宇津井はハッとして我にかえると、すみません、すみませんと何度も連呼しながら。スーツの男から離れた。
 男は宇津井が冷静になったのを確認すると、ベンチへ宇津井を促した。並んでベンチに座ると丁寧に男は名刺
を手渡した。冤罪容疑者支援NPO 浅岡 牧人 と書いていた。宇津井は名刺一枚で全てを把握した。
「冤罪容疑者支援NPO? 文字通りの存在なんですか?」
「厳密には起訴された後の支援も行っておりますが、簡略的にそう解釈してもらって構わないです」
「僕は助けてもらえるんですか? 無実を証明してもらえるんでしょうか?」
「全面的にバックアップします。ただ、あなたの場合は非常に分が悪い状況です。状況証拠全てがあなたを犯人
に導いている。捕まれば起訴は間違いない。あなたの場合、警察どころかメディアも完全に犯人の方向へ持って
行っているので、世論を動かすのは難しいのですよ……」
 宇津井はスーツの男の言葉を遮った。
「保護してもらえないんですか? どこかに潜伏させてくれるとか」
「我々があなたを保護するということは非常にまずいんですよ。保護施設が警察に見つかり、あなたが捕まれば、
犯人隠避につながる。まぁ、簡潔に言うとそもそも保護施設なんて存在しない」
 宇津井は奈落の底に突き落とされたようだった。期待を裏切られ、怒りから両手に大きく力をこめた。
「じゃぁ、あなたは私に何をしてくれるっていうんですか! 何もできないじゃないですか。早い話が僕に逃げ
続けろっていうことなんでしょう」
 男は大きな声に少し驚き、反射的に腰を浮き上がらせた。


26 名前:No0.8 ありがとうだなんて言わないで下さい 3/4 ◇vkc4xj2v7k 投稿日:07/12/30 23:00:57 ID:Sc9eEBrb
「宇津井さん、実にあなたはクレバーです。賢い。まさにその通りなのです。しかし、声が大きいです。人が来
てしまいますよ」
 宇津井は自分の口を抑え、自分の失態の恥ずかしさ、気まずさから浅岡を視界から外した。この人は宇津井を
唯一信頼してくれる人間なのだと思い返し冷静さを取り戻そうと努力した。
 浅岡は持っていたトランクから札束と地図を取り出した。
「これでとりあえず海外に逃げて下さい、1000万円とインドネシアへ渡航船がある場所の地図です。900万くら
いあれば優遇してもらえます。残り100万は九州へ行くまでの資金にしてください。まだ大阪ですからね。遠
いですよ」
 浅岡の男は続ける。
「実は真犯人のめぼしはついているんです。ただ、こちらとしても証拠が足りない。警察に訴えても、宇津井さ
んを犯人だという方針を大きく打ち出してしまった以上、メンツが持ちませんからね。その間、逃げていてもら
えればあなたは助かります」
「でも、さっき、僕を助けたら犯人隠避になるって……」
「いえいえ、そうは言っていません。助けます。そのための団体です。助けた事実が見つかればという話です。
あなたを海外に逃がすのは国内で保護するよりもリスクが低いためです」
 宇津井は怒鳴ったこと、自分の浅はかさに涙した。そして、見ず知らずの人間を助けてくれるという神のよう
な人間が存在していることに感激し涙した。
「浅岡さん、僕を信じてくれてありがとう」
「あなたはやっていないってことは周知の事実です。私たちは国家権力の横暴が許せない、これ以上冤罪者を増
やしてはいけないんです。何より真犯人が許せない! 我々の信念からやっていることです」
 宇津井は更に大粒の涙を流し、浅岡の手を強く握った。
「宇津井さん、僕、もう行きます。次の冤罪者を助けにいかなくていけない。注意事項があります。渡航費用の
相場は500万から600万です。快適な船旅がしたいのなら、余計に300万程、乗組員たちに渡して下さい。です
から最低でも600万は残しておく必要があります」
 浅岡は力強く語ったあとに立ち上がった。そして、宇津井の腕を引っ張りあげて彼を立ち上がらせた。
「宇津井さん、頑張って下さい!我々は応援しています」
 浅岡は涙を流したまま、ありがとうと言った。
「感謝の気持ちは不要ですよ。あ、それと、向こうでの生活費は現地スタッフから受け取れますので、金銭面は
のことは心配しないでください」


27 名前:No0.8 ありがとうだなんて言わないで下さい 4/4 ◇vkc4xj2v7k 投稿日:07/12/30 23:01:14 ID:Sc9eEBrb
浅岡は満面の笑みを浮かべていた。仕事を一つやり終えたような充実感が顔に表れている。宇津井は彼を見送
った後、興奮の余韻はあったものの明日以降にそなえ眠ることにした。浅岡に足を向けて寝られないなと、浅岡
が去った方向とは別に足を向けて寝た。
 浅岡は宇津井がいた公園を後にしたあと、足早に公衆電話を探した。浅岡は思った、公衆電話の数があまりに
も少なすぎる。彼らの所属する組織にとって非常に不便な社会になったと。浅岡は電話BOXに入り、赤いボタ
ンを押し、1・1・0と番号を打った。
「あ…け、警察ですか?あの、現金輸送車襲撃の宇津井って奴に似た男が、公園のベンチで寝てるんです……、
えぇ、えぇ、そうです、駅前の、はい」
 浅岡は受話器を置いた。
「ありがとうだって……こちらこそだよ」


 ニュース、新聞、各種メディアは宇津井の逮捕の一件を伝える
「先日未明、現金輸送者襲撃・強盗殺人事件の宇津井容疑者が公園のベンチで寝ているところを逮捕されました。
現金輸送の際に控えられていた番号と宇津井容疑者の持っていた現金の番号が一致していることから、彼が犯行
に及んだことがより強まった模様です。なお、宇津井容疑者は犯行を否認しています」
 浅岡はニュースを見たあとに携帯電話を取り出した。
「お疲れ様です。しかし、あの男、実に滑稽ですね。人間、追い込まれるとどこまで冷静さを欠くのでしょうか。
見ず知らずの男を信じますかね。ところで、奪ったお金ですけど、どうやって資金洗浄しますか?」
 浅岡は笑っていた。



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