【 小梅が揺れる 】
◆s8ee1DM8jQ




52 名前:No.11 小梅が揺れる 1/4 ◇s8ee1DM8jQ 投稿日:07/12/23 12:34:58 ID:GVoliDZ5
 文久三年、十一月、十一日。私は十七になった。

 「おりんが十七になる十一月に、婚礼の儀を」
父さんの一言で、私が嫁ぐ日が決まった。相手は滝川晋太郎様。武家のお方。
見合いの席で顔を合わせるまで、どんな方かも知らなかった。まあ、滝川様も私を知らなかったのだろうけれど。
 いざ、顔を合わせてみると、まあなんというお方だろう。私はそう思った。体格が良く、顔は彫りの深い、逞し
い方ではあった。しかし、一向に私と視線を交えることなく、始終顔を赤らめ、おどおどした態度。見合いが終わ
り、私が立ち上がるその時まで、一言も言葉を発しなかったのだ。その後、滝川様を紹介してくださった、父さん
の知り合いの方に「彼は、女性がどうも苦手らしい」、そう聞いたときには、心底呆れたものだ。
 こんなお方の家に嫁いで、上手くやっていけるだろうか。三月程前から母さんに散々文句を言われながらこなし
てきた、家事、洗濯、掃除。すべて一人でもきちんとやれるようになった。それから滝川家のしきたり、武家のし
きたり。しっかりと頭にたたき込んだ。もちろん妻としての行いも。
 しかし、私の心配することはそんなことではない。私と滝川様が、お見合いの席のように一日中、口も聞かず、
眼も合わせずの生活なんて上手くいくのだろうか。いや、上手くはいくのかも知れない。実際にそういう夫婦はた
くさんいるのだと、私は知っている。だけれど…
 私は周りからも、両親からも「じゃじゃ馬娘」、そう呼ばれていた。親の仕事を手伝いもせず、近所の幼子らと
遊びに出かけたり、おつかいに出かければ、着物を汚して帰った。外の空気が好きだった。誰も知らない、私だけ
の秘密の場所。そんなところが町のそこら中にあった。そんな私が、献身的に主人に仕え、留守の家を守る。きっ
と、今までのように、ふらりと川辺へ散歩にも行けなくなるだろう。
 家の中でじっと行う家事。嫌いな訳ではなかったけれど、これから長い間、ずっと、ずっとしなくてはならない
と思うと息がつまりそうだった。せめて滝川様と、ほんの少しでも楽しいお話が出来たら。一日のたった数秒でも、
ふわりと笑える暮らしがあれば。それだけで大きな救いだったのに。私のそんなかすかな希望は、どんよりと暗い
影を落としていた。

 婚礼が一週間後に迫り、私の家は慌ただしかった。何が無い、あれはどこだ、これはどれだ。そんななかでも私
は一人窓辺に腰を下ろし、ぼんやりと外を眺めていた。歩く人の身体は、吹き付ける風を嫌い、背中を丸めている。
もう寒い冬がやってくる。ついこの間まで、秋だと、ああ、秋がやってきた。そう思っていたのに。私の心に比例
して、脳までぼんやりしてきたのだろうか。
冬はあまり好きじゃない。肌を刺す冷たい風と空気で、外へ出て行く気持ちが折れてしまう。…今の私には、冬も
なにもないのだけれど。

53 名前:No.11 小梅が揺れる 2/4 ◇s8ee1DM8jQ 投稿日:07/12/23 12:35:26 ID:GVoliDZ5
 ――私は、す、と立ち上がり、冷たい風に負けないように厚く着物を着込んだ。母さん、父さん、この町のみん
なの眼を忍ぐようにして、家を抜け出し、外へ駆けだす。
今日一日、今日一日は、思い通りにしよう。たくさん走って、たくさんのものを見よう。
これからはきっと我慢する。辛くなったら、今日を思い出そう。私は走りながら、そう決意した。
頬に触れる冷たい空気が心地いい。零しそうになった涙が、乾いていくのを感じた。
 近くの川辺まで走り、ほっ、と息を吐いた。そういえばこんなには走ったのは久しぶりだ。荒い息を整えて、着
物を直す。
 この川辺では、いつかの春、そば屋のお菊さんとお団子を食べた。川はあの時のようにキラキラ光ってはいない
けれど、耳をかすめる水音はそのままだった。あの時は、お団子のタレで汚れた指を、そっと川で洗い流した。今
触ったら、きっと凍えてしまうだろうな。そんなことを考えながら、ざくざくと川の流れとは逆の方向へ足を進め
た。
 お団子くらいは…そりゃあ、食べることは出来るだろう。でもこの川辺で、春のうららかな天気の中、そうする
ことは難しいかもしれない。これからの生活はもはや、私にとって苦痛。ただその一言だけになろうとしていた。
 その時、後ろから声を掛けられる。
「お、おりんさん!」
振り返れば、一見二十代後半の男性。体格が良く、顔は彫りの深い…
「…滝川、様」

 せせらぐ川辺でしばらく二人で立ち止まっていた。どうしてここに滝川様が。…あの時のように顔を赤らめ、下
を向いていた。手に何か、ちいさな布を持っている。
「滝川様、どうしてこちらに?」
黙ったままでは拉致も開かないので、恐る恐る声を掛けた。
いえ、その…そんなことをもごもごと言い、意を決したように顔を上げ、初めて視線が交わった。
「あなたの家へ、寄ったの、だが…その、不在の様子で。諦めて帰る途中、姿が見えた。川辺を歩く」
ところどころ早口で、交わったと思った視線は当てもなく、左へ流されてしまった。相変わらず。そう思った。あ
まりの顔の赤さと、動揺の瞳がなんだか不憫に思えてくるほどだった。
「そうだったのですか。ご面倒をお掛けしてしまったようで…申し訳ありませんでした」
そう言って私が、一歩近寄ると、びくっと身体を強ばらせて、滝川様は固まってしまった。話をするにはなんだか
遠いようにも思えたけれど、そんな滝川様を見て、私は歩みを止めた。
「それで、…なにかご用事があったのでは?」

54 名前:No.11 小梅が揺れる 3/4 ◇s8ee1DM8jQ 投稿日:07/12/23 12:35:54 ID:GVoliDZ5
わざわざ滝川様ご自身が、嫁入り前の妻のところへ立ち寄るとは、一体どんな用事なのだろう。婚礼の日に何か都
合が悪くなったのではないかと、私はひどく心配した。
「滝川様、」
「いえ、何、その…その用事だが」
滝川様はおぼつかない手で、持っていた布をするりと解き、それを手に握るとゆっくり、ゆっくり私に歩み寄った。
「これを、あなたへ」
 綺麗で立派なかんざしだった。濃い朱色に塗られたそれは、先が金色に輝いている。そしてところどころに梅の
花が咲き、先端には、小梅をかたどったものがぶら下がっていた。
「こ、これ、とても綺麗。可愛らしいですね」
私はなんだか訳がわからず、かんざしの感想を言ってしまった。これを私に?どうして滝川様が?困惑する脳に、
鮮やかな朱色は強烈だった。思わず口にした感想を聞いて、滝川様は今まで強ばっていた顔を少し緩め、先ほどよ
り、ゆっくりめに話した。
「気に入るかどうか、分からなかったが、…そう言ってもらえて、良かった」
ころん、と私の手へ運ばれたかんざしを見つめながら続ける。
「どうしてこれを私に?」
いままでにない程近づいた滝川様を、これ以上こわばらせることの無いように、ゆっくり優しく聞いた。
「…これと言った理由は、そ、その、別にないのだが、…昨日、立ち寄った店の隣で、かんざしを売っていてな。
それが、…あなたに似合うだろうと、…」
私の脳はまだ困惑していた。出会ったときと変わらぬ、滝川様の顔の赤さにつられるように、私の頬が熱くなるの
を感じる。男性に、こんなことをされたのは初めてのことだった。
「それに、…見合いの席での俺の失礼を、詫びたかった」
泳いでいた滝川様の眼が、私の眼ときっちりと合う。そんなことのために。いや、私自身、ついさっきまで「そん
なこと」でうんうんと考え込み、落ち込んではいたのだけれど。滝川様の立場になって考えれば「そんなこと」な
のだ。婚礼は決まっている。しかも一週間後だ。私は断ろうとはしていなかったし、そんなこと出来やしないのに。
滝川様の眼はまた泳ぎだしたけれど、その瞳の奥の力が、私の眼に焼き付いたようだった。
「ありがとうございます」
私は心の奥から、搾り出すように告げた。

55 名前:No.11 小梅が揺れる 4/4 ◇s8ee1DM8jQ 投稿日:07/12/23 12:36:20 ID:GVoliDZ5
 「つけてみます」
私はおもむろに挿してあったかんざしを抜き、滝川様から受け取ったかんざしを代わりに挿そうとした。
気付けばこの朱色の梅かんざしは、見た所、とても高価なものだ。私は少しでも早く、それで髪を飾ってみたかっ
た。
「あ、あら?…ええと」
焦る気持ちが邪魔をするのか、どうにも上手く挿さらない。鏡がないと無理か、そう思っていた時。
「…失礼。」
す、と滝川様が私の前に立ち、左手を頭に添え、かんざしを私の後ろへ持っていった。
私よりずいぶん背が高いせいで、滝川様の顔は見えないけれど、きっとまた顔を真っ赤にしているのだろうと思っ
た。今の私のように。
 時が止まったかのような時間の中、私は自分に飾られる素敵なかんざしを想像して、あれ、と思った。
 ちょうど挿し終えた滝川様に、ちいさな声でつぶやく。
「でもこれ、少し、季節外れですね」
滝川様は驚いて、眼を見開いた。しかし頬を赤く染め、少し笑った私の顔を見て、同じように笑う。
「済まない、そうだった」

 ふいに吹いた風に、かんざしの小梅が揺れた。
私のかすかな希望。それは今、滝川様の口元に。




おわり



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