【 虜 】
◆VMdQS8tgwI




27 :No.08 虜 (1/5) ◇VMdQS8tgwI:07/12/16 22:58:44 ID:w6ZS4p/J
 夜の街、時計は一時を回っていた。誰もいない閑散とした通り、車の往来も殆ど無い。男はそんな街の中を歩いていた。
 その男──赤羽修一には特に目的がある訳では無かった。強いて言うなれば、それは彼の趣味だった。不気味なほどの
静けさ、自らを包み込んでくると錯覚してしまう程の暗さ、いずれも赤羽にとっては心地よく感じられた。
 ──ああ、落ち着く。
 声には出さない。この美しい静寂を自ら台無しにしてしまう事は躊躇われたのだ。
 全身に黒い衣服を纏った赤羽は、自分が夜闇と一つになっている様な感覚で満たされていった。日中に溜め込んだ憂鬱
などは黒い世界に溶け出していってしまった。
 次第に歩を進める赤羽の目には一つの影が映った。杖を突いているところを見ると老人だろうか。
 後数歩、というところまで近づいて、漸くその影が老婆──それも酷く薄汚い老婆──だと言う事が判った。
 歩みを変え、横断歩道を渡っていった老婆とすれ違うと、今度は後ろから車の音。まさかと思って振り向いてみれば、
老婆は今まさに轢かれようとしていた。
 咄嗟に体が動いた。
 ロックしたタイヤの摩擦音で静寂は切り裂かれ、漆黒はライトで掻き消された。赤羽の世界は悉く破壊された。


「婆さん、いくら横断歩道だからって車が出てきてるのに出て行ったら危ないだろう」
 赤羽は不機嫌そうに言った。不機嫌なのは老婆の行動の所為と言うよりは、折角の気分を壊されてしまった所によるも
のが大きいのだが。
「済まないね、あたしゃ耳が遠くてね」
 あんたの声だってなんとか聞こえるくらいだよ──と老婆は悪びれずに続けた。
「だからって、あれだけ眩しければ気付くだろう」
「あたしゃ目も悪いんだよ」
 確かに、悪いのはあの運転手である。人を轢き掛けておいて、安否も確かめもせず逃げていった。老婆は仮にも横断歩
道を渡ろうとしていたのである──つまりは被害者なのだ。そんな事は赤羽にも分かっていた。
 だが、流石にこの様な態度を取られて心穏やかでいられる程、赤羽も人間が出来ている訳ではなかった。
「ああそうかい。んじゃ勝手にやってくれ」
 赤羽は苛ついた声でそう言った。それを聞いた老婆はからからと笑った。
「まあそう怒りなさんな。折角の良い男が台無しだよ」
 ──よく言うぜ。俺が良い男なものかよ。

28 :No.08 虜 (2/5) ◇VMdQS8tgwI:07/12/16 22:58:59 ID:w6ZS4p/J
 赤羽は鼻で笑ってしまった。自分は目が悪いと断言していた老婆が自分の容姿について言及してきたのだ。ただでさえ
暗くて、顔は薄らとしか見えないほどなのに。
 実際のところ、自分が良い男とは程遠い事は赤羽自身が自覚していた。仮に性格面を褒めたものであったとしてもだ。
顔は怖いと言われるのが常だったし、性格の方は、今は事故に遭いかけた衝撃で何故か饒舌になってはいたが、普段は、
話しかけられなければ一度も口を開かない程の根暗だった。加えて、全身を黒で固めているものだから、他人、特に女か
らは避けられる存在だった。差し詰め、嫌われ者の鴉と言ったところか。
 そんな事も知らない、会ったばかりの老婆から良い男と言われても、赤羽は嬉しいどころか馬鹿にされているようにし
か感じられなかった。
「まあまあ、こう見えても一応は感謝してるんだよ」
 だから──と老婆は続けた。
「お礼にこれをやろうかね」
 そう言うと老婆はどうやら液体の入っているらしい瓶を取り出した。
「なんだ、毒か?」
 赤羽は冗談めかして言った。
「失礼だね、命の恩人を殺そうとする程ひねくれちゃいないよ」
 老婆も冗談と理解していたらしく笑いながら言った。
「こいつは惚れ薬さ。可愛いあの娘もイチコロだよ」
 ──魔法使いかあんたは。
 そう思って老婆の顔を覗き込むと、確かにかぎっ鼻といい、小汚い服装といい、確かにそう見えないことも無かった。
 生まれてこの方、彼女だの恋人だのとは縁の無い赤羽にとっては願っても無い話ではあった。惚れ薬が本物ならばだが。
「飲ませる相手がいないんだ。いや、そんなもの飲んでくれる関係ならそもそも必要も無いか」
 騙して飲ませるのも嫌だしな──と赤羽は付け加えた。
「いや、飲むのはあんただよ。か弱い老人を命懸け助けたあんたにこそ相応しいだろう?」
 赤羽にはそこまで言われて断る理由も無かったし、今時、惚れ薬なんて言葉を使うユーモアも気に入った。ありがとよ
──と言うと、老婆から手渡された瓶の中身を一気に飲み干した。それは少し生臭い味がした。
 空の瓶を受け取った老婆は、それじゃ楽しんでおいで──と言い、少し嫌らしい笑みを浮かべながら去っていった。

 明くる日、赤羽はすっかり元の日常に戻っていた。昨日の出来事などまるで夢のようであった。もっとも、あのタイヤ
と地面の擦れる嫌な音や、思い返せば不気味な老婆が脳裏から離れない事を考えるとその感慨も吹き飛んでいったのだが。
 大学の外れ、ベンチに座って本を読む。滅多に人も通らないこの場所が赤羽のお気に入りだった。

29 :No.08 虜 (3/5) ◇VMdQS8tgwI:07/12/16 22:59:09 ID:w6ZS4p/J
「あの、隣いいですか?」
 突然の申し出、顔を上げてちらっと相手を確かめると、それはいつも並んだベンチの一番遠くに赤羽を避けるように座
っていた女だった。今日に限ってどういう心境の変化だろうか。隣にも向こうにも空いたベンチはあると言うのに。
 だが、赤羽にはその申し出を無下にする理由も無かったので、どうぞ──とだけ言うと、少しだけ端に詰めた。
 しばらく、二人は黙って本を読んでいたが、女はパタッと少し大きい音をたてて本を閉じると言った。
「いつもここに居ますよね。あの、お名前聞いていいですか?」
 赤羽はすこし戸惑った後、赤羽修一──とだけ言った。
「私、春香──橘春香って言います」
 その女──春香は美人だった。遠目に見ているだけでは分からなかったが、均整の取れた柔和な顔立ち、豊満な胸、さ
らさらと風になびく長い黒髪、彼女の清楚なイメージに合った白い服、どれも赤羽の心を惹き付けるのに十分だった。
 そんな春香に、赤羽は柄にもなく気の効いた話でも振りたくなったが、講義の終了を知らせる鐘が理性を取り戻させた。
「俺、次の講義あるからそろそろ行かないと。──春香さん、それじゃ」
 そう言って赤羽がベンチから立ち上がると、春香も一緒に立ち上がった。
「一緒に行きませんか。次の授業、一緒の応用マクロ経済学ですよね?」
 ──何故。
 何故彼女は知っているのだろうか。確かに俺の格好は目立つが、同じ授業を受けている事まで覚えているのだ。もしか
して以前から俺のことを──そこまで考えて、赤羽は──馬鹿馬鹿しい──と自分の考えを否定した。
 だが、今度の申し出は赤羽にとって無下にする理由も無いどころか、願っても無いくらいのものだったので、快く了承
してもう少し長く春香と一緒にいることにした。

 赤羽は非常に当惑していた。春香が自分の部屋に居るのだ。いや勿論、帰ったら居た、とかいきなり入ってきたとかそ
ういう訳ではない。確かに彼自身が連れてきた──いや、連れてきてしまったのだ。
 本日最後の授業だった応用マクロ経済学を受けた後、二人はそのまま帰路に着いたのだが、同じ方向、同じ方向、と繰
り返す春香は、結局、赤羽の家まで来てしまった。流石に今日会ったばかりの女性を家には入れられない──と断ったの
だが、赤羽さんは別に変な事しないから大丈夫だよね?──と言われてしまっては、すると答えるわけにもいかず、首を
縦に振ってしまったのだった。
 正直なところ、赤羽は嬉しかった。だが、赤羽の頭からは昨日に飲んだ惚れ薬の事が離れなかった。都合が良すぎたの
だ。春香という可憐な女を、何か自分とは全く関係無い力で惹きつけてしまっているかも知れないと言う不安、罪悪感。
それらが赤羽を当惑させていた。素直に幸せを享受する事を躊躇わせた。
 だが、そんな赤羽の心配を他所に春子言った。

30 :No.08 虜 (4/5) ◇VMdQS8tgwI:07/12/16 22:59:21 ID:w6ZS4p/J
「あの、今日泊まってもいいですか。お話に夢中になってたら帰りの電車が無くなっちゃいました」
 赤羽は自分の耳を疑った。気付けば時計は一時を回っていた。赤羽は春子を気遣ってやる余裕が無かった事を悔やんだ。
「ああ、それなら車で送るよ」
 赤羽がそう言うと春子は俯いてしまった。そして思い切った風に語り始めた。
 ずっと前から赤羽の事が好きだった事。ずっと赤羽を見ていた事。少しでも近くに居たいから近くのベンチに居た事。
 それらは赤羽の迷いを断ち切らせるのに十分だった──いや、十分過ぎた。気付けば春香を彼女が腰掛けていたベッド
の上に押し倒していた。春香はされるがままに横になると、ゆっくり目を閉じた。
 ズキンと赤羽の胸に背徳的なモノが込み上げてきた。春香の柔らかそうな唇、豊満な胸の膨らみ、彼女の全てが自分の
モノにしたい。彼女がそれを望んでいる。そんな想いが赤羽の頭の中を支配していった。
 少し強引に彼女の衣服を引き剥がす。それでも春香は身じろぎ一つしない。むしろ薄らと開いた瞳は──もっと──と
語りかけてくるように感じられた。それは赤羽の手つきをより荒々しいものさせた。
 一糸纏わぬ姿になった春香の姿に赤羽は息を呑んだ。天使の様な彼女の姿、それがこれから自分の手で穢されていく。
その事実が赤羽の背徳感を更に掻き立てる。彼は自らも衣服を脱ぎ捨てると、天使を強く抱きしめた。
 あっ──春香が小さな声あげた。それでも赤羽は力を緩めなかった。柔らかく滑らかな肌、触れ合う胸の弾力、全身か
ら感じられる彼女の温もり、全てを強く抱きしめた。そして彼女の唇を奪う。赤羽は強く求め、それまでされるがままだ
った春香もそれに全力で応じた。
 そして赤羽は己の欲望を春香に打ちつけ始めた。何度も、何度も。だが彼の欲望はその度に大きくなっていった。そし
て、春香の甘い喘ぎがそれを狂気に変えていく。春香を俺の虜にしたい──赤羽の頭にはもうそれしか無かった。

 それからも、春香は毎夜のように求めてきた。赤羽もそれを受け入れ、また彼女を求めた。
 しかし、いつしか春香は姿を消した。愛想を尽かしたのだろうか。飽きたのだろうか。そんなところだろう。だが、不
思議と赤羽は悲しくなかった。確かに、春香を深く愛していた。しかし、自分の目の前から姿を消して連絡も無いのには
きっと彼女なりの事情があるからだと信じた。ならば無理に追ってはならない。その思いの方が強かったから。
 そんな赤羽の元に別の女が近づいてくるのにそう時間はかからなかった。彼女も春香と同じく憑かれたように求め、赤
羽もまた、彼女の為に狂った。そして彼女もいつしか姿を消した。
 そして、また新しい女が現れ、求め、消えた。そしてまた次の女、次の女、と赤羽の傍にはいつも女が居た。
 気の強い女もいれば、囁くようなか細い声しか出せぬ女もいた。年端も行かぬ少女もいたし、歳が自分より母に近いよ
うな熟れた女性もいた。中には変わった性癖を持った女もいた。彼女達は、赤羽の前に姿を現し、しばらくの間愛し合っ
た後に消えていく。その点では皆一様ではあったが、当然、彼女達は別の人間であり、容姿も、名前も、声も違っていた。

31 :No.08 虜 (5/5) ◇VMdQS8tgwI:07/12/16 22:59:35 ID:w6ZS4p/J
 彼女達は従順だった。赤羽に対しても、己の欲望に対しても。赤羽が彼女達の自分への気持ちを確かめる為に、変質者
じみた行為に及んでも、彼女たちは嫌な顔一つせずに受け入れた。そして狂ったように悦んだ。
 そんな彼女達に赤羽は満たされていった。赤羽にとって憂鬱だった世界は大きくその姿を変えたようだった。

 隣で寝ている女──あの春香の寝顔を見て赤羽は考え込んでいた。
 春香は再び赤羽の前に現れた。突然居なくなった理由は聞かなかった。何となく理解出来たから。
 昨日の事だ。また一人の女が赤羽の前から姿を消した。それ自体はいつもの事だったので、まるで気にしていなかった。
問題はその後、自分が春香の事を思い出し、そして恋しくなった事。そして今日彼女が現れた事である。
 そして赤羽は気付いた。あの時、消えた春香が自分に抱いていたと思っていた感情が、自分の感情であった事に。
 奇妙な──在り得てはならない事が起きていると赤羽が気付いたのはそれと同時だった。
 赤羽は老婆から貰った惚れ薬の効用を、とうの昔に信じていた。だが、それは飽くまでも現実の範囲内でだった。それ
こそ男性ホルモンを変質させたりして、特有のフェロモンを発する体にしている──と言った程度のものだと考えていた。
そして、その効果は有限で、徐々に相手には耐性が付いていく、と。それならば消えていく女にも説明が付いていたのだ。
しかし、この状況は何だ。望めば現れ、飽きれば消える。魔法などと言った物を信じたくは無かったが、魔法使いみたい
だと思っていた老婆は、本当に魔法使いだったのだろうか。惚れ薬には魔法がかかっていたとしか思えなかったのだ。
 ──いや、もう一つだけ可能性がある。
「だとしたら、俺は──」
 急に不安に駆られて、赤羽は春香の体に手を伸ばすと、柔らかな肌の感触と温もりを確かめた。彼女の寝息がかかる程
に顔を近づけて、安らかな寝顔がそこにある事を確かめた。次第に心が落ち着いていく。
 そうして、無防備な春香を眺めていると、赤羽の胸に、今度は悪戯な感情が湧き上がってきた。彼は棚から手錠を四つ
程取り出すと、それを春香の両手両足に嵌めて想いを形にすることにした。
 赤羽の中にはもう先程の思案は綺麗に無くなっていた。彼は最早、快楽の虜だったのだから──


 夜の部屋、彼女は今日も彼の寝顔を見る。
 そして、彼女は彼の服を丁寧に脱がすと彼に尽くし始めた。彼の顔が少し満足気な表情を浮かべる。いい夢でも見てい
るのだろうか。それとも自分が彼を悦ばせているのだろうか。彼女の表情が嬉しげなものに変わる。
 次第に劣情を抑えきれなくなった彼女は、いつものように彼の体で彼女自身を慰め始めた。
 自分の為に二度と目を醒まさなくなってしまった男。老婆はそんな男の虜になっていた。
 どうやら現実は、目醒めぬ赤羽が作り出した妄想より、遥かに奇妙な様相を呈している様だった。     −了−



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