117 名前:選考外No.1 気球のはなし 1/5 ◇KARRBU6hjo[] 投稿日:07/12/10(月) 02:36:32 ID:IWDXotqi
遥か高い空の上から、彼女が手を振っている。
私と山城は必死に野原を駆けながら、精一杯彼女に手を振り返す。
彼女は何時ものようにふわふわと笑っている。
私たちはそれどころではない。
駆ける足にも限界が来て、私と山城はほとんど同時に転倒する。
むっとする青い草の香り。見慣れた田舎の雑草の絨毯が眼前に広がる。
慌てて顔を上げると、彼女は既にかなり遠くまで行ってしまっていた。
最早肉眼では顔も見ることが出来ない。テレビゲームで減らした視力を呪う。
「……おい」
山城が呟く。
「アイツ、大丈夫だよな」
彼女は手を振っている。だから、多分大丈夫だ。
私は叫んだ。つられて山城も叫んだ。二人とも、何を叫んだかは憶えていない。
だが、それは恐らく、青臭い青春時代だからこそ言える言葉だった。
叫びは遥か彼方の山に反響する。届かない訳はないと思った。
故に、若さを暴発させた私たちの告白を、三好加奈子は確かに聞いた筈である。
久々に訪れた鳥野町は実に閑散としていた。
以前もかなり田舎には違いなかったが、今のこの町は輪をかけて寂しい。
かつてはそれなりに盛況していた商店街もほとんどがシャッターを下ろし、大きく『気球の町』と書かれた看板は酷く錆び付いている。
冬だからというのもあるだろう。だが、それにも増して何もかもが色褪せている。
幼い頃のあの鮮やかな記憶と重ね合わせ、自然に溜息が漏れた。
「まぁ、気持ちは分かるけどよ。あんまりそういう顔しないでくれ」
隣を歩く山城が苦笑する。
「……悪い」
山城は高校を卒業してからこの町で林業を営んでいるらしい。
過疎化が進むこの鳥野町には山城のような若者は貴重な人材らしく、少ない通行人の全員に声を掛けられていた。
118 名前:選考外No.1 気球のはなし 2/5 ◇KARRBU6hjo[] 投稿日:07/12/10(月) 02:37:34 ID:IWDXotqi
中学一年のひと夏の間、私は家庭の事情でこの町にある山城の祖母の家に滞在していた事がある。
当時、私と山城は自他共に認める親友同士であり、互いの両親にも交流があった。
その縁があって山城家に預けられた私は、彼らの帰省にオマケとして付いて行ったのだ。
山城も何度かこの町に来た事はあったようだが、長期滞在は初めてだったらしい。
果たして都会っ子の我々は何処までも広い原っぱや山々に驚愕し、連日日が暮れるまで遊び呆けていた。
そうした長い長い夏の日の中で、私たちは彼女と出会う事になる。
小高い丘の上で、小型の熱気球のエンジンを熱心に整備していた女の子。
物珍しさに私たちが駆け寄ると、彼女は「大人には内緒だよ」と言って、人差し指を口に当ててふわふわと笑った。
それが私の初恋。
親友はその日を境に唾棄すべき恋敵となり、私たちは彼女を懸けて田舎の山々を疾走していた。
山城の祖父母への挨拶もそこそこに、私たちはあの小高い丘の上に向かっていた。
「気球に乗らないか」と電話口で言い出したのは山城であった。
何故急に山城がそんな事を思い立ったのか私は聞いていない。こんな季節に気球に乗ってもひたすら寒いだけである。
だがどういう訳か、気が付いた時には私も山城の提案を了解していた。
恐らく自分でも分からないところで、何か思うところがあったのだろう。
そうして私は電車とバスを乗り継ぎ、この寂れた『気球の町』にやって来たのである。
丘の上には既に気球が用意されていた。昔見たものと違い、かなり大型のものである。
傍らには気球の持ち主と思われる男性がおり、私たちの姿を見ると朗らかに笑いながらこちらへと向かってきた。
少しの間男性は山城と談笑し、懐から取り出した無線機の一つを山城に手渡して去っていった。
山城はにやりと笑い、その無線機を私に向かって示してみせる。
「二人だけで行くのか?」
そう私が問うと、山城は少し蔑んだ顔をする。
「そうじゃないと意味がないだろう」
確かにその通りだと思い、私は今の無意味な問いを恥じた。
119 名前:選考外No.1 気球のはなし 3/5 ◇KARRBU6hjo[] 投稿日:07/12/10(月) 02:38:10 ID:IWDXotqi
だんだんと遠くなって行く地面を眺めながら、私たちは加奈子の話をした。
三好加奈子は鳥野町の地元の女の子で、私たちより三つ年上の高校一年生であった。
どんな性格だったかと言えば、俗に言う天然、いや不思議少女だったのだろう。
何時もふわふわとした笑みを浮かべ、彼女は何かある毎に自由気ままに私たちを振り回していた。
「懐かしいよな。こうやって気球に乗ってると思い出すよ」
山城の言葉に、当時は乗った事はなかったけどな、と私は付け加える。
彼女は捨てられた気球の残骸を拾い集め、そこから一つの気球を作ろうとしていた。
勿論私たちもそれに協力した。より彼女の役に立つ為に、私たちは町中を駆け回っていた。
「……あの時加奈子に協力していなければ、どうなっていたんだろうな」
「仮定は無意味だよ、山城」
「なあ、お前さ」
真面目な顔で私の目を見つめながら、山城は言った。
「加奈子の事、今も好きか?」
私は黙り込む。もうかなり昔の事だ。
加奈子が居なくなった時点で、私がこの町を離れた時点で、私の初恋は終わったものと思っていた。
それは現時点でも変わらない。三好加奈子への私の想いは、とうに幕を閉じている。
しかし。
「でもさ――俺は、まだ好きなんだ」
彼女を忘れた私を尻目に、山城は何年間も蓄積された、一途な想いを口にした。
「よく夢を見るんだ。加奈子が気球に乗って空の上を飛んでいる。加奈子は外を眺めながら、何時ものように笑ってる」
山城は気球の外を睨み付けるように見回しながら言う。
あの日、完成した気球に乗って空へ旅立った加奈子は、二度と私たちのもとへ戻らなかった。
ふわふわと気球に揺られながら、彼女は空の彼方へと溶けるように消えてしまったのだ。
「ずっと探し続けてきた。でも見付からなかった。……これが最後の賭けなんだ。これで辿り着けなかったら、俺にはもう成す術がない」
だからどうか協力してくれと、山城は泣きそうな顔をして、ずるずると気球の中にへたり込んだ。
120 名前:選考外No.1 気球のはなし 4/5 ◇KARRBU6hjo[] 投稿日:07/12/10(月) 02:38:37 ID:IWDXotqi
私たちの間に沈黙が下りた。
気球は空の上を漂い続ける。だんだんと息苦しくなってくる。
私は山城に視線を投げかけたが、彼は再び立ち上がって気球の外を凝視している。
雲の中に入ったのか、気が付くと辺りに霧が出始めていた。
寒い。このままでは死んでしまいそうだ。
意識が遠くなる。あれほど騒がしかったエンジンの音が聞こえない。
エンジンを見上げると、炎の様子が先ほどまでとはがらりと変わっている事に着が付いた。
幽鬼のような白い炎。
ぐらり、と山城の身体が揺らいで、そのまま気球の中に倒れこんだ。
慌てて駆け寄ろうとすると、身体が思うように動かない。
雲の中に大きな影が映る。
見覚えのある小型の熱気球。
あれは。
「――加奈子」
彼女は気球から身を乗り出して在らぬ方向を眺めながら、何時ものようにふわふわと笑っていた。
私の頭に様々な疑問が過ぎる。
まさか、あれから彼女はずっとこうやって空の上を漂っていたというのか。
この凍えるような寒さの中で、彼女はどうして平気でいられるのか。
彼女の姿があれから何一つ変わっていないのはどういう事なのか。
どうして彼女はこんな近くに居る私たちに気が付かないのか。
だが、それらを考えるよりまず先に、私はやる事がある。
昏倒している山城の下へ、私は震える身体をずるずると這わせて行く。
「起きろよ、山城」
念願の三好加奈子が直ぐそこに居る。
ぐったりとした山城の頬を何度も引っ叩き、私は叫ぶ。
「俺たちは、まだ告白の答えを聞いていないだろう!」
この場にいる全ての者たちに聞こえるように。
121 名前:選考外No.1 気球のはなし 5/5 ◇KARRBU6hjo[] 投稿日:07/12/10(月) 02:39:11 ID:IWDXotqi
ぼ、と頭上のエンジンが音を立てた。
山城が呻きながら目を覚ます。
加奈子が驚いたように私たちの方を見る。
まるで魔法か何かが解けたようだった。ここは先ほどまでの怪しい世界ではない。
気球を覆っていた霧も消え始め、視界がはっきりとしてくる。
「山城、立って外を見ろ。急げ!」
私は山城に短くそう言って、渾身の力を込めて立ち上がった。
加奈子は狼狽した様子で、きょろきょろと周囲を見回している。
その身体は透け始めていた。霧の中に還るように、気球ごと彼女は消えようとしている。
「加奈子!」
山城が立ち上がる。加奈子は私たちに向かって、何かを言うようにぱくぱくと口を動かした。
構う事はない。私たちは何も悪くない。だから言ってやれ。
山城は叫ぶ。それはかつてと一字一句違わない、青臭い青春の告白の言葉。
びくんと彼女の肩が震える。そして逡巡するように目を逸らし、
おずおずと。こちらに向かって、その消えかかった手を伸ばした。
気が付くと、私たちは町の低い位置を飛行していた。
「あれでよかったのか?」
私が問いかけると、山城は呆然としたまま頷いた。未だに放心状態から抜け気っていないらしい。
兎にも角にもこのままでは危険なので、私は山城を揺さぶって気球の操作方法を聞き出す。
山城は一通り私に気球の下ろし方を説明すると、へらへらと笑いながら再び気を失ってしまった。
何だかよく分からないが、これで全て丸く収まったのだろう。
私は溜息を吐き、あの丘へ戻る為にエンジンの火を調節した。
旅行客のような格好をした、何処かで見覚えのある女性が一人、小高い丘の上に立っている。
彼女は私たちが乗った気球を見上げると、ふわふわと微笑みながら手を振った。
終。