【 綾子 】
◆P2bEA4mHeU




93 名前:No.23 綾子 1/2 ◇P2bEA4mHeU[] 投稿日:07/12/10(月) 00:25:33 ID:XZ+WCuFe
 中野綾子は放課後の掃除が終わると、一つ上の階にある家庭科室へと向かった。運動部の女子は皆この教室で着替える
ように決められているからだ。着替えが終わってからも綾子はイスに座り、他の生徒が出たり入ったりするのを眺めていた。
 綾子が入っている陸上部は、毎日練習の前に顧問の教師を囲んでミーティングをすることになっている。ただしそれは部員
全員が揃ってから部長が職員室へ顧問を呼びに行くので、始まるまでに少し時間が掛かった。綾子はそのミーティングが始
まるまでをグラウンドでだらだらと過ごすのが嫌なので、いつも時間ぎりぎりまで家庭科室にいた。
 しばらくして綾子がグラウンドに出ると、もうほとんどの部員は揃っていた。よし、と綾子は心の中で呟きながら、軽く体をほぐ
すように準備運動を始めた。周りを見渡すと、他の運動部はいつものように練習の準備を始めている。サッカー部は上級生が
何人かでボールを蹴り合い、練習が始まるのを待っているようだ。その向こうの野球部では一年生がふらふらと慣れない足
取りでファールラインを引いている。そしてその隣のテニス部は……地面に刺さったポールには既にネットが張られ、あとは
コートのラインを引くだけだ。
「よし」と綾子は右足のつま先を持ってふくらはぎを伸ばしながら、今度は声に出して小さく言った。これならきっと、陸上部が
テニスコートの近くをランニングする時には、もう練習が始まっているはずだ。
 テニス部には綾子が好きな高橋真人という男子がいるのである。

 ミーティングが終わると、部長の掛け声で全員が二列になり、グラウンドの周りを五周走る。陸上部が練習する場所から反時
計回りに走ると、まずバレーボール部、野球部、サッカー部、そして……テニス部の近くを通ることになる。サッカーゴールを過
ぎた辺りから、綾子は他の部員に気付かれないようにテニスコートの様子を伺う。
 いた! 目当ての真人は、ちょうどコートに入りストロークの練習をしているところだった。綾子は短距離なので、テニス部の
後ろを走り練習中の真人を近くで見れるのは、この最初のランニングの時だけであった。そして五周のランニングが終わるとい
つも綾子はレストランでハンバーグを先に食べてしまった子供のように、満足感と寂しい気持ちを持て余した。

 綾子が真人のことを気になりだしたのは、中学二年になり少し経つ頃だった。一年の時も同じクラスだったが、真人に対する印象
は、勉強も運動もそこそこできて顔も眼鏡を外せばなかなかハンサムである、というだけであった。
 二人は出席番号が近く、二年の一学期は同じ班になった。そして何度が会話をするようになり、次第に彼のひょうきんな性格に
惹かれていったのだった。綾子は真人が何か言うのを聞き逃すまいと、いつも神経を集中させて耳を澄ましていた。時には彼の
変な一言で給食を吹き出しそうになってしまうこともあった。そしてそんな自分を嬉しそうに見る時の真人の笑顔が大好きだった。

94 名前:No.23 綾子 2/2 ◇P2bEA4mHeU[] 投稿日:07/12/10(月) 00:26:15 ID:XZ+WCuFe

 二学期になってからもクラスメイトとして二人は仲が良かった。綾子は一度真人のことをあだ名で呼んでみたいと思ったが、勇気
が出ずに「高橋君」と呼んでいた。真人は真人で恥ずかしがって、綾子のことはあのさー、などと声を掛けるだけで名字を言って
くれることも少なかった。真人はひょうきんで面白いぶん、綾子から見ても少し子供っぽく見えることもあった。そしてそんな真人
の幼さが、ある日二人の気持ちをすれ違わせた。
 真人は中学でも同じ小学校だった友人からは「きのぴー」と呼ばれていた。これは真人があるゲームでそのキャラクターを使う
のが好きだったからという、いかにも小学生らしいあだ名であった。そしてなぜか中学から一緒になった友人たちは少し言い方を変
えて「きのっぴー」と呼んだ。真人はその促音のついた呼ばれ方はあまり好きではなかったが、自分と違う小学校から来た生徒の
ほうが圧倒的に多かったので、次第にそっちが多く使われるようになった。
 綾子はその日の会話がいつもより盛り上がったので、勇気を出して思い切って「きのっぴー」と呼んでみた。すると真人は綾子
までそっちの言い方をするのがおかしくて「なんできのっぴーなんだよ」とそっけなく言ってしまったのだ。綾子は返す言葉もなく
黙ってしまった。真人もそんな綾子の様子を見てから、悪い言い方をしてしまったことに気付いたのだが、とっさに何か言葉を
付け足すことができなかった。
 そして次の日から綾子と真人はあまり話さなくなってしまった。綾子は真人のほうから話しかけてくれれば、と待っていたが、
目が合っても気まずそうに目を逸らし、周り友人と喋りだす真人を見て諦めた。
 林間学校は自由に班を決められるから楽しみにしていたのに――。
 バレンタインになったらチョコをさり気なく渡す自分を何度も頭の中で描いていたのに――。

 こうして綾子の初恋は本人の頭の中からも消えてしまうくらい、儚く終わってしまった。 
 おお、かわいそうな綾子よ。僕はそんな綾子を小学生の時からずっと見てきた。
 君は気付いているのだろうか、小さい頃からいつも自分が男子の注目の的だったことを。
 君と仲良くする真人が、友人たちに嫉妬されていたことを。

 中学三年の二月、綾子は学区内では一番レベルの高いN高校に進学を決めた。真人も第一希望だったW大の付属高校に無事
合格したらしい。もし真人の第一希望が男子校ではなかったら、綾子はその高校を受験したのだろうか。

 今日も僕は綾子の一つとなりの車両に乗って、彼女と同じ高校へ通う。
 高校に入ってからも綾子は男たちからの人気は変わらないようだ。
 この初恋が終わるのを、僕はまだ想像できないでいる。
               完


BACK−恋彼◆IPIieSiFsA  |  indexへ  |  NEXT−彼女は電気的◆QIrxf/4SJM