【 柑橘系フレーバー 】
◆PaLVwfLMJI




64 名前:No.17 柑橘系フレーバー 1/5 ◇PaLVwfLMJI[] 投稿日:07/12/09(日) 20:53:19 ID:40uu7WDS
 残業で溜まった疲労が張り付いた体には、開放廊下へと続く急勾配の階段はきつかった。三階の自宅に辿り着く頃には、エレベーター付きのマンションに引っ越したくもなる。
 キーホルダーを鞄から取り出し解錠。そのままノブに手を伸ばした。十二月の夜気に晒されていたノブは、思わず引っ込めそうになるほど冷たい。
「ただいま」
 オレはドアを開き、リビングに向かって声をかけた。ユイの舌足らずな「おかえりー」の声が出迎える。
 廊下をちょこちょこと駆けてきたユイが、玄関先に佇むオレに抱きついた。飛びつくといってもいいような勢いにふらついてしまい、咄嗟に壁に手をつきバランスを保つ。
「あのねー、今日ねー――」
 腕をオレの腰に回したまま、一日の出来事を話すユイの甘ったるい口調に疑問が浮かぶ。何かイヤなことでもあったのだろうかと。
 一ヶ月ほど前。家を飛び出し行く当てのなかったユイに声をかけ、このいびつな同居生活が始まった。最初は一晩泊めるだけのはずが、そのままなし崩し的にユイは立派な居候となった。
半分はオレ自身が望んだことだった。
 平日は仕事に赴き、週末を二人で過ごすというサイクルを続けるうちに気付いたことがある。ユイは甘えることが苦手だ。
 だというのに。視線を下げると、じゃれるようにオレに抱きついている彼女のつむじがあった。やはり、友達もいない新たな環境でストレスが蓄積しているのではないか。
いくら親と喧嘩して家を出たとはいえ、ホームシックにだってなるだろう。なにしろ、彼女がこういった形で両親に反発すること自体初めてなのだ。
 ユイが現在頼れる人物はオレだけだ。ならば存分に甘えさせてあげよう。頭にそっと手を乗せ撫でてやると、ユイは目尻を下げうっとりとした表情を浮かべた。
オレの掌の熱を満喫するように、陶酔するように。
 チェーンを掛けて施錠し、足元に絡みつくユイを引っ張ってリビングに入る。
「いい加減はなれろって」
 苦笑しながら漏らしたオレの言葉に、ユイは口を尖らせ「こうしてると落ち着くのー」と抗議した。むくれたユイの頬を指で突っつくと、風船よろしく空気を漏らして萎んだ。
「総員退避! 各自避難せよ」
 面倒になって馬鹿げた命令を下すと、ユイは満面の笑みで「サー!」と答えオレから離れた。ノリに合わせることが楽しくて仕方ないらしい。
 コートとジャケットをハンガーにかけ、小腹がすいたので夜食を作ろうかとキッチンに向かった。その後をユイが付いてくる。いつの間に取ってきたのか、カラフルなカンを両手で大事そうに持っている。
中には彼女の“お気に入り”が入っているはずだ。
「危ないからどっかいってろって」
 手を振って追い払おうとするがユイはごねた。まるで駄々っ子だ。
「やだ。アタシも手伝う。めいれーしてッ!」
「とりあえずそれ置けよ」と子供に手を焼く親のような気分でカンを指差す。
 ユイは素直にダイニングテーブルにカンを乗せ「めいれー、めいれー」と繰り返してオレをせかす。その口調に絆されたというよりは、このまま騒がれてもかなわんなと諦観にも似た感情があった。
「ユイ伍長命令だ。このじゃがいもの皮を剥いて摩り下ろしてくれたまえ」
 彼女の希望に沿うセリフを吟じ、ピーラー、グレーター、ボールといった調理道具と一緒に洗ったじゃがいもを手渡す。
 ユイが隣で芋を擦っている間、オレは玉ねぎを微塵切りにしていた。


65 名前:No.17 柑橘系フレーバー 2/5 ◇PaLVwfLMJI[] 投稿日:07/12/09(日) 20:53:52 ID:40uu7WDS
「出来たか?」
 そう訊ねながら隣を見やるが、まだじゃがいもは半分になったところだった。急いで零したりするなよ、と釘を刺しピーマンとベーコンを適当な大きさに切る。
「終わったよー。次は?」
「んじゃ、洗い物よろしく」
 ユイが不満げに眉根を寄せたので、慌てて「命令だ」と付け加える。ボールに大匙一杯程度の小麦粉を加え、じゃがいもと混ぜ合わせ生地のタネとする。テフロン加工のフライパンに油を引き、火にかけた。
油が温まったら、タネを落とし、お玉の背を使い伸ばす。クレープと同じ要領だが、クレープほど薄くはならない。じゃがいものせいだろうか。
 お玉とボールをシンクに掘り込み、生地が焼けるのを待つ。香ばしい匂いが漂い焦げ色が着いたら、裏返してケチャップを塗り、玉ねぎ、ピーマン、ベーコンを乗せ、最後にチーズをトッピング。
蓋をして中火で蒸らし焼きにする。オーブンで焼いても良かったが、フライパンでも問題はないだろう。
 チーズの程よく溶けたじゃがいもピザを皿に盛り、包丁で切り目を入れるとユイが「かんせー!」と歓声を上げた。
 椅子に腰かけ手を合わせ「いただきます」と挨拶すると、隣にユイが擦り寄ってきた。
「ん、食べたいのか?」
 首を横に振ったにも関わらず、じゃがいもピザを一切れ手に取るユイ。「何?」と問うと「あーんして」と。
「新婚みたいだな」
 面映ゆさにオレは頬をかいた。対してユイはといえば、ピザを皿に戻し何故か目を輝かせ興奮に頬を染めていた。
「あのねーアタシね、ゆうクンと結婚するんだ!」
 結婚。オレと? そのあまりにも直接的な言葉に心臓が大きく跳ねた。生唾を嚥下する音、呼吸、そして鼓動。そういった自らの体発する音がやたらと耳についた。
 きっとユイは、自分が口にした発言をすぐに忘れてしまうだろう。だが、そんなことは問題ではない。何よりも重要なのは、彼女がその言葉を真剣に言っているということだ。心から言っているということだ。
 だから。
 オレ深呼吸した後、ゆっくりとユイを抱き寄せ――唇を重ねた。
 目を瞑ると、密着した口唇を伝い彼女の脈動が聞こえるような気がした。

 中学生の頃、同じクラスの子が好きだった。溌剌とした、どちらかといえばボーイッシュな彼女は学級委員も務める優等生だった。しかも、彼女の家は豪農にして大地主という近隣市町村に名を馳せる名家で、
父親は町会議員とくる。彼女自身の気の強さと家が持つ地位から、男子からは敬遠とも気遅れともつかぬ妙な距離の置き方をされていた。彼女の魅力に触れようとさえしない男子を馬鹿だと思っていた。
 オレが所属する声楽部は部室等の二階に割り振られていたので、暇があればグランドを見下ろし陸上部の彼女を眺めていた。インターバルトレーニングなのか、あるいはラップを取っているのか、
首からストップウォッチを提げ走っている彼女の華奢な背中。足を踏み出すたびに揺れる濡れ羽色のショートカット。発声練習をしながらも窓の向こうに視線を向け、彼女を見つめていた。
 それは所謂初恋で、オレは憧憬にも似た淡い恋心を持て余していた。同じ班になっても声を掛けることさえ出来なかった。かといって彼女から話しかけられると、しどろもどろになりうわ言めいた不明瞭な言葉で返すか、
的外れなことを饒舌に語るかという体たらく。要するに経験が乏しく、童貞をこじらせていたのだ。


66 名前:No.17 柑橘系フレーバー 3/5 ◇PaLVwfLMJI[] 投稿日:07/12/09(日) 20:54:31 ID:40uu7WDS
 その日彼女と話した内容は、どこかズレたものだったのだろう。
 声楽部の練習を終えたオレは荷物を纏め、部室のある第三棟を後にした。昇降口で靴を履き替え、グランドへ足を向けた。彼女に会うためではない。正門から出るよりも、グラウンドを横断するほうが近道だからだ。
 冬の足音迫る十月末。日没の時間も早まり、下校する頃には辺りは宵闇に包まれ薄暗くなっていた。空気が乾燥しているのか、喉にいがらっぽい違和を覚えた。学生服のポケットから抜いた手に握られていたのは、
袋入りキャンディー。紫の袋はグレープ味だ。
 グレープかよ、と胸中で毒づき袋を開け口に放り込み、再び手をポケットに。舌先でキャンディーを転がし歩いていると、すすり泣くような声が聞こえた。立ち止まり首を捻ってみたが、
夜目の利かないオレには人影を確認するのがせいぜいだった。
 すすり泣きがする方へと歩み寄り、見つけたのは。彼女だった。オレが好意を寄せていた名士の娘だ。
 グラウンドの隅にうずくまる彼女の頬を涙が伝っていた。両の手には制服が。オレは困惑した。その姿は彼女のイメージとはかけ離れていたから。職員室に入ったら、教師が生徒の陰口を叩いていた時のような気まずさがある。
「あ、あのさ」
 戸惑いがちにかけたオレの声は上ずっていた。彼女は初めて人がいることに気がついたのか、こちらを向いた彼女の表情は驚愕の色が濃かった。すすり泣きは既に止んでいた。
 頭が真っ白になり二の句が継げなかった。気まずい沈黙。冬のにおいを微かに含んだ風が頬に痛かった。手持無沙汰にポケットからキャンディーを取り出す。オレンジ味。グー、パー、グー、パー。
手を握る動作を数度繰り返し、オレンジ色をした袋が隠れては現れる様を眺めていると自然と言葉が溢れた。
「知ってる? 柑橘系の香りには精神を安定させたり、リフレッシュさせる効果があるんだってさ」暴走しているという意識はあるものの、オレの口は勝手に動き続きを言っていた。「あと、糖分を摂ると
セロトニンが分泌されて落ち着くんだとか」
 どこで仕入れたのかも曖昧な知識を披露し、彼女の眼の前に拳を突き出した。握った指を開くと、そこにはポケットから取り出したオレンジキャンディーが。
「あのさ……何があったかなんて知らないけど、とりあえずコレでも舐めて落ちつけよ」
 彼女はオレの手からキャンディーを取り「ありがとう」と微笑んだ。それはどこか儚げな笑顔だった。遠くに霞む景色のようでいて、すぐ側にいるという存在感がある不思議な笑みだった。
 キャンディーを口に入れ、彼女は訥々と語った。
 部活を終えた彼女は部室に戻り、着替えようとロッカーから制服を取り出した。紺のブレザーとスカート。それらは石灰を被り真っ白になっていたという。窓から手を出し叩いてみても制服は完全に綺麗にはならなかった。
白い粉が繊維の隙間に潜り込んでいたのだ。制服を纏めて手荷物と、彼女は運動着のまま帰ろうとしたが、グランドに出るとふいに悔しさが込み上げ、気がつけば泣いていたということらしい。
スパイクが隠されたり、鞄の中身が部室内にばら撒かれていたり、といった小さないたずらがここ一週間で数回あったとも。中学駅伝のメンバーに選ばれなかった者が行った嫌がらせではないか。それが彼女の見解だった。
家のことで、コネでも使ったんだろなんて厭味を言われるのは慣れてるけど、こんなのってないよね……と涙声で呟いていた。
 オレは何も言えず、ただただ彼女の話に耳を傾けているばかりだった。
「なんか、ごめんね。長谷川君には関係ないのにさ」
 涙を拭い立ち上がった彼女が「これ、ありがとう」と言いキャンディーの袋を振って去っていくのを、オレは立ち尽くしたまま見送った。
 それから彼女との距離が縮まったなどということは微塵もなく、相変わらずオレには告白する度胸も、話しかける勇気もなかった。振られることを恐れていたわけではない。一歩踏み出すことが出来なかっただけだ。
ことなかれ主義ここに極まり、と周囲の状況が変化するにまかせ、雰囲気に流されていただけだった。


67 名前:No.17 柑橘系フレーバー 4/5 ◇PaLVwfLMJI[] 投稿日:07/12/09(日) 20:55:06 ID:40uu7WDS
 整髪料なのかあるいはデオドラントなのか、彼女が柑橘系の芳香を漂わせるようになり、男子が陰で“柑橘”というあだ名で彼女を呼ぶようになっても、オレはその響きに胸を焦がしていただけで何も行動に移せなかった。
柑橘という単語を聞くたびに、オレンジキャンディーのことが脳裏をかすめ心の奥が疼いた。
 高校に進学し彼女と別れることになったが、オレはずっと彼女のことを引きずっていた。男は過去に生きるなどというが、大学になり付き合った女性にも彼女の面影を求め、一年と持たず破局した。
 オレはずっと初恋を追っているのだ。

 休日出勤を厭い、会社に残り溜まった仕事を片付けていたせいで終電になっていた。車内には残業疲れのサラリーマンやOLが数人いる程度。これから一時間電車に揺られ帰宅か、
と椅子に体を預けたオレの視線は一人の女性に留まった。オレと同年輩と思しき、スレンダーな女性が膝を抱いて座っていた。床にはヒールが転がっている。
 じっと見つめていると、目があった。泣き腫らしたのか、赤く充血した目で彼女はオレを見ている。彼女の瞳にはオレが、オレの瞳には彼女か映っていた。
 話しかける気分になったのは、誰かに似ている気がしたからだろうか。
「……あの、どうかされたんですか?」
 凡庸で間の抜けたフレーズが口をついて出た。
「いえ」と答える彼女の声はしわがれていた。
 バッグをまさぐり、彼女が何かを取り出す。それはオレンジのキャンディーだった。
 まじまじと見据えるオレを奇異に感じたらしく彼女はキャンディーについて喋り始めた。
「中学の頃、泣いてたアタシにオレンジの飴を突き出して、糖を摂ると落ち着くとか、柑橘系のニオイにはリラックス効果があるとか説明した男の子がいたんですよ」
 開封しキャンディーを口に含む彼女は――
「もしかして、百瀬唯さんですか?」
「やっと気付いたね。アタシは長谷川君が入ってきてすぐに分かったよ」
 オレには、彼女の笑顔にはどこか憂いが含まれているように感じられた。
 ふと、思った。彼女が何故ここにと。実家に戻らずに都市で就職したオレとは違い、彼女はずっとあの名家に留まっていたはずだ。そう風の便りで聞いた。だが、その彼女と何同じ電車にオレは乗り合わせた。
いったい何故こんな時間に、しかも実家から離れる電車に乗っているのだろうか。
「ところで、どっか行くんですか?」距離の取り方が掴めず敬語になっていた。
「……うん、家飛び出してきたんだ。馬鹿だよね。行く当てなんてないのに」
 あの頃のオレならば返答に困っていただろうが、多少は経験を積み女性に免疫だってできたのだ。
「何かあったのか? オレでよかったら話してくれないか。話せば楽になることもあるだろうし」と訊ねることもやぶさかではない。

68 名前:No.17 柑橘系フレーバー 5/5 ◇PaLVwfLMJI[] 投稿日:07/12/09(日) 20:55:43 ID:40uu7WDS
 彼女の語ったところによると、許婚から逃げ出したらしい。政略結婚なのかなんなのかは分らないが、結婚したくなかった彼女は親に反目し、目的地もなく電車に飛び乗った。
そして、偶然オレに遭遇したという成り行きのようだ。
「これ終電だし行く当てないならウチ泊れよ」言わなくてもよいのに「いや、変な意味じゃなくてさ」と付け加えてしまうオレは、やはり馬鹿なのだろうか。
 その夜、オレたちはアルコール片手に昔話に花を咲かせた。中学時代を取り戻すように、あの頃言えなかった思いを伝えるように、一晩中喋り続けた。

 柔らかい唇の感触。混ざりあう唾液。
 重ねた唇を離すと、仄かにオレンジが香った。彼女の“お気に入り”カシスオレンジの香だ。それは初恋の味に似ていた。
「いきなり、どうしたの?」と不思議そうにユイが首を傾げた。
 この思いのたけを伝えなければならないという感情がふつふつと湧き上がる。酔った彼女は、翌日になれば自分の台詞やオレの言葉、それら全てを忘れてしまうのだとしても。
オレは自分の正直な気持ちを口にしなくてはならない。彼女のためにも、自分自身のためにも。
「大好きだよ」とオレが言うと「そんなの知ってる」とユイが返した。
「そうじゃなくてさ。オレはユイのことが好きなんだ。中学の時好きだった百瀬唯でも初恋の少女でもなく、今のユイが好きなんだ」
「アタシもだよ。昔のゆうクンも、今のゆうクン、これからのゆクンも。ずっと、ずーっと大好き」
 結婚か。ユイの両親には、友人の家で厄介になっていると彼女自身が電話を入れた。だが、このまま同棲を続けていられる訳もない。これから先どうするにしても、一度ユイの家に行ってみなくては。
 そんな決意を込めオレはその言葉を口にした。
「愛してる」

    <了>


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