【 二人のイワン 】
◆NCqjSepyTo




56 名前:No.15 二人のイワン 1/4 ◇NCqjSepyTo[] 投稿日:07/12/09(日) 19:55:18 ID:LWn13oCH
 きらきらと輝きながら舞い降りてくる真夏の雪はとても美しく、まるで幻燈のようであったと思い出されます。
此処に住まうものは皆押し並べてその魅力にとりつかれてしまうのです。
冬には積もった雪を掻き分け掻き分け、夏には融けかけた雪がそれでも地上に残ります。
そう、ここは凍土。永久に閉ざされ、氷の女神に支配された場所なのです。
 同志エレオノーラがひっそりとその地で子供を産んだのは、この凍土にほんの短い夏がやって来る
七月のことでした。彼はイリヤと名付けられ、一年の殆どを雪に覆われたこの凍土帯、ツンドラで
すくすくと育ったのです。
 彼の父親、アレクセイ・フョードロヴィチ・イワノフは祖国の英雄です。彼もまた、この地で生まれ
この地で育った人間でした。
時はイリヤが生まれるつい数週間前のことです。当時、我がソレン(旧ロシア(旧ソ連))の与党の一員で
在りました同志イワノフは、世界からの圧力に耐えかねて共産主義を棄て世界に迎合しようとした
稀代の愚か者、当時の大統領コンドラトを暗殺しまして、そのボディーガードによって銃撃を受け、
逃げ帰ったこの地で力尽きたのでした。
彼の墓は凍土の中ほどに建てられ、冬には雪の中に埋もれ夏には僅かに顔を出します。
彼は非常にこの地を愛していたから、今共に在れて喜んで居るでしょうと、同志エレオノーラは
少し寂しげにそう語ります。
 さてイリヤが学校に上がる年になりますと、母親の同志エレオノーラは多方面に気を回しました。
幼いイリヤが、国父の息子であるという事でいらぬ気を遣ってしまうのではないか、生活しにくくなって
しまうのではないかと考えたのです。
彼があの同志イワノフの息子であると知る人は少なく、その僅かな支持者と協議した結果、
イリヤ・アレクセエヴィチ・イワノフは、ただのイリヤ・イワノフとして学校に通うこととなりました。
父なし子であるのが一目瞭然であるイリヤは、当然のように友達からは虐められました。
からかわれ、小突かれて疲れ切った彼は一人になると凍土に足を運び、ぼおっとしたり
顔も知らぬ父の事を考えたりして過ごすのでした。
「あなたはいつも一人なのね。私が遊んであげましょうか」
 ある日イリヤが一人でいると、優しい声が呼びかけてきました。彼はふっと顔を上げて周りを
見渡しました。しかしそこには誰も居ません。
「君は誰だい?」
「私はツンドラ。あなたと共にあるのよ」

57 名前:No.15 二人のイワン 2/4 ◇NCqjSepyTo[] 投稿日:07/12/09(日) 19:55:38 ID:LWn13oCH
 声が答えたので、彼は良い名前だねと褒めました。有り難うと言ってツンドラは笑いました。
鈴を転がしたようなその涼やかな音色に、イリヤの心はとんとんと沸き立ちます。
「どこからぼくを呼んでいるの?」
 イリヤがそう尋ねると、ツンドラは小さく笑いながら秘密よと応えました。
鳶色の大きな瞳をくるんと回し、小さなイワノフは言いました。
「秘密でいいよ、秘密でいいよ。だからぼくと一緒に居ておくれ」
 空気の中を舞う銀色の粉が、日の光を反射してぴかぴかと笑います。それはまるでツンドラが
とても美しい少女であると言うことを暗示しているのでした。
彼女には触れることも見詰め合うことも適いませんが、ただ共に語り合うだけで幸せでした。
少年イワノフがツンドラに淡い恋心を抱くのも無理は在りません。
「ツンドラ、ぼかあ君のことが好きだよ。好きになっちまった」
「私もあなたを愛しているわ、可愛いイリヤ」
 夏の間だけ、ほんの短い間だけ顔を出す父親の墓の傍でイリヤがツンドラに愛を囁けば、
彼女ツンドラもまた、優しい言葉を吐いて彼の心を蕩かすのでした。
 イリヤが十六になった頃です、大きな世界がまた動き始めました。
ソレンが再び資本主義へと傾きだしたのです。彼の支持者が頻繁に訪れ、早々に立ち上がるようにと
促すことも多くなりました。
「でもぼくには何にも関係ないよ。ぼかあ君と居れればそれだけで幸せなんだ」
 イリヤは屈託の無い笑顔でツンドラに語りかけます。しかしツンドラの心は違いました。
「イリヤ、私の大好きなイリヤ。私もあなたと居るのは幸せよ」
 だけど怖いのと彼女が言うと、イリヤは不思議な顔でどうしてかと尋ねます。
「この国が変わってしまうのが怖いの。私はきっと踏みにじられるわ」
 あなたのお父様も、私を救うために闘ってくださったのとツンドラは言いました。
「あなたは私のために闘ってくれるかしら? 小さなイワノフ」
 確かに愛する女の危機を放っては置けぬと、彼は憤然としました。今まで阿呆のイリヤと
呼ばれていた彼はその瞬間、彼の英雄の生き写しにしか見えなかったと記憶しています。
そんな彼を見た母親、同志エレオノーラもまたそのことに気付いたようでした。
寂しそうに行くのねと呟くと、戸棚の奥にしまってあった一つの首飾りを取り出して言いました。
「これはあなたのお父様の物よ、イリヤ。これさえあればあなたがアレクセイの息子だと誰にでも分かるわ」

58 名前:No.15 二人のイワン 3/4 ◇NCqjSepyTo[] 投稿日:07/12/09(日) 19:55:57 ID:LWn13oCH
 一月も経たないうちに、イリヤはモスカウに出向きました。モスカウとは、ツンドラから
白熊ハイヤーで半時ほど行った所にあるソレンの首都であります。
そこで彼は我こそが国父アレクセイ・イワノフの息子であると名乗りを上げました。
彼の首飾りが証拠となり、モスカウ共産党の面々は彼を名誉党員として迎え入れると、
資本主義へと傾き始めたソレンの政治家達との闘争において攻勢を強めて行ったのです。
 イリヤは十八になりました。小学校や中学校で彼を虐めてきた人間も、今ではその足元にひれ伏します。
しかし彼は驕る事無く二年前の情熱を持ち続け、ただただ真剣に戦いを続けていました。
そんな彼とモスカウ共産党の元に、とんでもないチャンスが巡ってきたのは何の因果か
英雄アレクセイが銃弾に倒れたのと同じ、七月のことでした。今尚語り継がれるリエータ闘争のことであります。
 ああ真夏の雪はなんとも美しく、彼の放った一発の銃弾は見事元首の胸を撃ち抜きました。
一丁のワサビニコフが煙を吐き出し彼の足元に転がります。イリヤもまた、腹を撃たれて倒れたのでした。
 腹を撃ち抜かれ意識を失ったイリヤは、同志達によって凍土の中にある彼の家まで運ばれました。
彼の生家の前で立っていた同志エレオノーラは、傷付いた息子の姿を見て一瞬言葉につまり
悲しそうな顔をしました。しかしその表情は直ぐに消え、凛とした女闘士の顔に戻りますと
鋭い声でイリヤを地面に寝かせるようにと指示しました。
面食らった同志達が口々に戸惑いの言葉を投げかけるのも当然のことでしょう。
「国母様、同志イワノフは今死の淵に居ます。暖かい言葉を掛けてあげてください」
「同志エレオノーラ」
 彼らの言葉を遮って、国母は地面を指差します。そのほっそりと延びる指の先を見て、
同志達はいっせいに息を呑みました。
そこには薄い雪の中から小さな石が顔を覗かせているのです。
「あの人の、アレクセイ・フョードロヴィチ・イワノフの墓です」
 同志エレオノーラの声は真夏の冷気の中にただ凛々と響きます。皆何も言えなくなってしまい、
傷付いたイリヤの体をそっと雪の残る地面の上に横たえました。
その時です。今の今まですっかり意識を失っていたイリヤがかっと目を見開き叫んだのです。
「ああ、ツンドラ! ぼくの愛するツンドラ! ぼくは帰ってきたよ、君の元へ!」
 その腹からとろとろと血が流れ出し、大地に積もった雪を赤く染めていきます。
時を同じくして彼を迎えるかのようにはらはらと舞いだした雪はその血を染めつ染まりつ、
それはまるで幻燈のようでありました。

59 名前:No.15 二人のイワン 4/4 ◇NCqjSepyTo[] 投稿日:07/12/09(日) 19:56:19 ID:LWn13oCH
「ああ、何と憎たらしいツンドラ。私の愛する人を二人とも奪ってしまった」
 同志エレオノーラがぽつりと呟きました。その意味を知る者も計り兼ねる者も、
もう何も言えません。舞い落ちる雪がまるで嘲笑うかのように彼女の言葉を吸い取っていきます。
同志達は皆、その光景をただぢっと、穴の開くほど目を見開いて見つめていました。
イリヤが大地に飲み込まれていく様を、ただぢっと、見つめていました。

 もしあなたにソレンを訪れる機会がありましたなら、是非ツンドラに足を運んでみてください。
そこには小さな石の墓が一つ、建っているのです。祖国の英雄が二人、眠っているのです。
その苔むした小さな墓石には、小さな文字で碑文が刻んであるのです。
「凍土を愛し、凍土に愛された二人のイワン、ここに眠る」と。





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