【 私は氷の中で一輪の花を摘む 】
◆QIrxf/4SJM




83 :No.20 私は氷の中で一輪の花を摘む 1/5 ◇QIrxf/4SJM:07/12/03 01:39:29 ID:Mb4WRYJ4
 真夜中の高層ビル群は人工の光を静かに放ち、女が羽ばたいて散らした鱗粉を燦々とさせている。羽音は無い。女の背中から突き出ている大きな羽は、蝶のそれに似ていた。
 女は無表情だった。揚羽蝶をモチーフにした極彩色のドレスを身に纏い、病的に白い肌に浮かぶ唇は、毒を孕んでいるかのように真っ赤に燃えている。
 大きな窓硝子を覗き込むと、男が一人デスクに向かい、必死にキーボードを叩いていた。
「みぃつけた」女は人差し指を噛んだ。血が流れ、遥か下方へと落ちて消える。
 目を瞑って窓硝子に手を添えた。蜜に沈みゆく蜘蛛のように、女の体が窓硝子をすり抜ける。
 床についた黒いヒールが小さな音を立てると、男は振り向いた。「だ、誰だ!」
「荊の這う城に棲み、黒蝶の羽を持つ私は、」女は口元を歪めた。「薔薇の女王」
 女はゆっくりと歩み寄った。
「群集を貪ってできた残滓は、寄り集まって形を成した」
 女の真っ赤な爪が、男の顎をなぞる。「殺意を孕んだ指先のお味は如何?」
 男は強張って動かない。見開いた眼が充血している。
「楯突く牙が中に二つ」
 女は男の肩に口を寄せた。がりりと肉に歯が食込む。顎に力を込め、首を振って噛み千切った。
「こんなにも鋭利だわ」咀嚼して口元からこぼれた血を拭う。
 男は、肩を押さえて低く喘いだ。痛みは恐怖に掻き消される。「や、やめろ――」
 女は冷たく笑い、握り締めた手を広げた。上を向いた手の平は、繊細な磁器のようだ。
「贅言はいらない。飽食の害虫は、常闇の重力の中に潰れて反吐を垂らしなさい」
 黒い球体、重力斑が手の平から浮き上がってくる。
「森羅万象、返り咲く。――磔刑でも贖えまい」
 女は過呼吸になった男を見下ろして、口元を歪めた。
 重力斑を握りつぶす。
「地獄は辛いものよ」
 空間が赤く歪み、重力が男を押し潰した。

 空気がほんの少し、ざわめいていた。季節の移り変わりよりも静かに、縫い針の先で軽くかき混ぜたような、微かな雑音が混じっているのだ。
 ルーシィ・モントモーメンシィは、ネギのはみ出た買い物袋をぶら下げて、緩やかな上り坂を歩きながら、その不穏な空気を感じ取っていた。頬に触れる空気に、少しだけ違和感がある。
 しかし、いちいち気に留めるほどのものではないと判断した。それよりも、憂鬱なことがある。
 彼女の長い髪の毛が揺れた。十数年間伸ばしっぱなしのそれは、身長が低いせいもあって膝の下まで届いている。キャスケットを被って、首元の赤いリボンタイも一緒に揺れていた。
 その姿はお使いから帰る少女のようにいたいけで、道行く中年の女性たちからは慈愛に満ちた笑みで見守られている。
「フランスパンのはみ出た紙袋を抱えて歩くのなら、いくらかお洒落なんだけれど」とルーシィは言った。すれ違う中年の女たちに作り笑顔でお辞儀していると、ひどく老け込んだような気分になった。

84 :No.20 私は氷の中で一輪の花を摘む 2/5 ◇QIrxf/4SJM:07/12/03 01:39:46 ID:Mb4WRYJ4
 澄んだ夕日の輝きが、おそろしく長いネギの影を地面に映している。それにも負けず彼女の体はスレンダーに伸びていた。
「ルーシィ・メランコリィに改名しようかしら」と彼女は言ったが、すぐに首を振った。大事な友人の名前を拝借しているのだ。
 石渡という表札の家の前で立ち止まった。表札の下に、プライヴェート・ディテクティヴ・ルーシィと書かれた看板がぶら下げてある。
「今日は店じまい」ルーシィは看板を裏返した。溜め息を吐いて、ドアを開ける。「ただいま」
 玄関先に、見慣れた男がいた。アシンメトリーの短い茶髪に、頼り甲斐のなさそうな顔をしている。
「ルミさん、遅かったですね」
 ルーシィは頬を膨らませた。「石渡くん、ルーシィと呼びなさいって何度言ったらわかるのかしら。私、こう見えても英国淑女なのよ」
「はいはい、わかってますって」石渡は頭を掻いた。「それよりも、お仕事の依頼が来ていますけど」
「今日は気分じゃないの。迷い猫の捜索も、逢引現場の盗撮も、何もする気にならないわ」
「そんな、せっかく来てくださったんですから、話ぐらい聞いてあげましょうよ」
「いいの。今日は店じまい! それよりも、早く夕飯にしてね」
 ルーシィの差し出した買い物袋を受け取り、石渡はだらしなく笑った。
「もう、仕方が無いですね。ほんとに」
「その淑女、気まぐれにつき」とルーシィは言って、ウィンクした。

 すき焼きの具をつっつきながら、石渡は言った。「『まさか、あんなに可愛らしい女の子だったなんて信じられない、また出直しますよ』って依頼主さんが言ってましたよ」
「それ、褒め言葉になってないってわかってる?」ルーシィは頬を膨らませた。
「年齢不相応に若いってことじゃないですか。そんなに急ぎの依頼じゃなかったみたいでよかったです」
 ルーシィは牛肉にとき卵を絡めて口に運んだ。「私の機嫌を悪くするようなことは、今後一切言わないでね。誰のおかげで、高級車に乗れると思ってるの?」
「勝手にウチに転がり込んできて、探偵業を始めたのはルミさんじゃ――」
 ルーシィの鋭い目線が、石渡の心臓を貫く。
 石渡は短い悲鳴を上げて、キープしていた牛肉をルーシィの小皿に入れた。「これで、どうかお静まりください」
「まあ、いいわ」ルーシィはしっかり咀嚼して、大げさに飲み込んだ。にししと笑って、えくぼが浮かぶ。
 石渡がテレビに顔を向けた。連日の殺人事件についてのニュースが流れている。
「三人目か。酷いことするよなあ。被害者は全員どこかの会社のお偉いさんで、ぺしゃんこに潰されて死んでいたんですって」
「へえ」ルーシィはまるで興味がなさそうに相槌を打った。世の中は殺人で満ち溢れている。
「この事件、とても興味深いんですよ。三人とも、一見しただけでは、本人だとはわからないくらいに潰されていた。本当に、ソースせんべいみたいにぺしゃんこだったらしいです」
「それ、本当?」ルーシィは食べかけの牛肉を小皿に戻した。「気味が悪いね」
「本当です。深夜、それも二十五階という高層でそんな殺人が起きるなんておかしいですよね。セキュリティもしっかりしていますし、ほとんど密室なんですよ。いやあ、自殺でも事故でもありえないから殺人だと皆は思ってるんでしょうけど」
 石渡は目をきらきらと輝かせた。ルーシィが直感で動くタイプの探偵であるのならば、石渡は推理に貪欲な助手である。

85 :No.20 私は氷の中で一輪の花を摘む 3/5 ◇QIrxf/4SJM:07/12/03 01:40:12 ID:Mb4WRYJ4
「僕は、他の場所で殺した後、持ち運ぶために潰したんじゃないかと睨んでるんですけどね、」
「ねえ、死んだ人はどこに行くか知ってる?」
「よく言ってるじゃないですか。天国でしょう?」
「そう、きっと天国。そこはね、なんでも願いが叶って、好きなことをしてずっと暮らし続けるの。ぺしゃんこに潰されてしまった人は、天国でどんな格好をしているんだろう。潰されたままなのかな」
 部屋の空気にも違和感があった。雰囲気は普段と変わらないが、触れる空気がいつにもまして肌を突いているような感じがする。ついばまれるという感覚にも似ていた。
「ねえ、なんだか今日、空気がねばっこくない?」
「ねばっこい? またまた変なことを言わないでくださいよ」
「あっそ」ルーシィは牛肉を口に運んだ。石渡には感じ取れないのである。
 彼女自身、自分が常人とは違うことを認識していた。力を持ち、行使することができる。物理的な法則など、彼女の前では何の意味もなさないのだ。
 ルーシィは急に箸を置いて立ち上がった。
「なんかヘンな感じ。ここ三日間ずっとこうなの。先にお風呂入るわね。ごちそうさま」
 行こうとするルーシィを石渡が呼び止める。「お風呂、まだ沸かしてないですよ」
 ルーシィは振り向いて、曖昧に頬を緩めた。「じゃあ、シャワーでいいかな」

 ルーシィはベッドに入って、部屋の明かりを消した。
 目を瞑るが、寝られそうになかった。明らかに、空気の違和感が強くなっている。
 心の中を空にすればするほど、肌をついばまれるような感覚が鋭くなる。
 ズキン、と額が痛む。突き刺さった矢を引き抜かれたような痛みに近い。
「今日で四回目だわ」ルーシィは体を起こした。
 引っ張られている。呼ばれている。そう彼女は考えた。「体が共鳴している」
 寝室を抜け出してリビングに戻ると、石渡がテレビを見ながらマフラーを編んでいた。
「石渡くん、車を出して」
「どうしたっていうんですか? 急に」
「いいから早く車を出して!」
「わ、わかりました!」
 ルーシィは石渡の出した車に乗り込み、目を瞑った。神経を研ぎ澄まし、違和感の大きくなる方角を感じ取る。
「それで、どこへ行けば」運転席の石渡がシートベルトをする。
「あっちに向かって」ルーシィは西方を指差した。
「わかりました」
 ルーシィは遠くの空を見た。黒さが違う。普段の夜空が透き通る黒曜石の色であるのならば、今は顔料で塗りたくった不自然な黒色だ。星は塗りつぶされてしまっている。

86 :No.20 私は氷の中で一輪の花を摘む 4/5 ◇QIrxf/4SJM:07/12/03 01:40:35 ID:Mb4WRYJ4
 車が進むにつれて、体の動悸が激しくなった。
「石渡くん。天国って信じる?」
「ルミさんはそこから帰ってきたんでしょ」
「そうよ。もしかしたら、私と同じ人間に出会えるかもしれない」
「仲良くなれるといいですね」
「きっと、そう上手くはいかないわ」ルーシィは言った。「ここでいい。降ろして」
「ルミさん」
「辛気臭い顔をしないでよ」
 石渡はだらしなく微笑んだ。「そうですよね。僕はここで待ってますから!」
「うん。すぐ戻る」と言って、ルーシィは駆け出した。

 真夜中であるのに、眼前に広がる高層ビル群にはぽつぽつと明かりが灯っている。人の気配はなかった。
 呼ばれている。
 自然と足が動いた。向かうべき方向は、考えなくても理解している。
「ああ」体が震えている。武者震いだ。「誰が、私を呼んでいるの?」
 ルーシィの声が、辺りに響き渡る。気がつけば周囲は真っ暗で、彼女は黒い霧の中に立っていた。
「みぃつけた」
 錆付いた鈴のような声が、ルーシィの耳に入る。
「誰?」
 ヒール独特の足音が、徐々に近づいてくる。
 やがて、極彩色のドレスに身を包んだ女が、ルーシィの前に立った。
「荊の閨に体を預け、毒蛾の色彩を持つ私は、」女は口元をゆがめた。「薔薇の女王」
「あなたが私を呼んだ」ルーシィは言った。「あなたも『向こう側』を見た人間なんでしょう?」
「私は復讐を終えた。嗚呼、後は遂に見つけた貴女を殺すだけ。ゲェトを開く為の、最後に儀式」
 女は指を噛んで、滲み出た血を舐めた。手を広げると、重力斑が浮かび上がる。
「ゲェトの錠は抉じ開けた。後は、潰えた貴女の命を捧ぐ」
「ゲート? 向こう側に侵入するつもり?」ルーシィが叫ぶ。「薔薇の女王!」
 女は、目を見開いてルーシィの事を凝視している。白目がちなその眼は異様だった。
 ルーシィは確信した。何を言っても、戦いは避けられない。向こう側、親友の居る世界を乱す人間を許すわけにはいかない。
 女の重力斑が飛ぶ。

87 :No.20 私は氷の中で一輪の花を摘む 5/5 ◇QIrxf/4SJM:07/12/03 01:41:09 ID:Mb4WRYJ4
 ルーシィが避けて、重力斑が地面に衝突すると、その辺りが赤く歪み、甲高い音を立てた。暗闇に戻ると、地面が大きくへこんでいる。
「歪める力?」
 それが答えであるかのように、女が口元を吊り上げる。
 ルーシィは大きく息を吸い込んだ。体の奥底にしまっている、大きな力を呼び起こすのだ。
「私は、止める力――」と言って、ルーシィは目の前に持ってきた手をきつく握り締めた。
 時が、空気が凍結する。熱運動を止められた物質は、辺りの物質を巻き込んで凍り付いていく。氷の刃が、ルーシィの体を守るようにして空中に停止している。
「薔薇の女王――」女は言った。「それは、死すべき人間に対して告げる名前」
 女が重力斑を無数に展開し、ルーシィ目掛けて放った。
「そうね、死ぬのはあなたなのだから、私も名乗る必要がある」
 ルーシィは、飛んでくる重力斑に氷塊をぶつけて相殺した。
「欠落した発育とは、即ち永遠の美。年老いぬ私は、」ルーシィは口元を歪める。「氷の魔女」
「贅言はいらない」と女は言った。腕を振ると、歪んだ重力の柱が、次々と現れる。
 その間を縫うように飛び跳ねて、氷の刃を飛ばしているルーシィ目掛けて、女はナイフを投げた。
「そんなのが、あたるとでも!」一歩引いて、ナイフをかわす。
 だが、ナイフは重力の柱に触れて、方向を変えた。
 これはかわせない。ルーシィの胸元にナイフが突き刺さった。そのまま、後ろに倒れる。
 うめき声が響いた。
 コツコツと、ヒールの音が近づいてくる。女がルーシィを見下ろした。
「ゲェトは開かれる。嗚呼、願いが叶う」女の重力斑が、ルーシィに向かってゆっくりと落ちていく。
「馬鹿め」とルーシィは言った。
 体を転がして重力斑を避けると、女の首に飛びついたのである。
 女の体が徐々に凍りついていく。
「何故」と女が言った。
「私はなんでも止められる。ナイフは肌に張り付いただけ」ルーシィは言った。「さようなら」
 完全に凍りついた薔薇の女王は、倒れると同時に崩壊した。

「ただいま、石渡くん」と言って、ルーシィは車に乗り込んだ。少し、体が冷える。
「おかえりなさい。お友達はどうでした?」
「行きたい所に行ったわ。死んだら、みんな天国へ行くから。私、意味の無いことをしたのかしら。逆のことをしたのかしら」
「屋台を探して、ラーメンでも食べましょ」と石渡が言った。



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