【 貴族な子供のしつけ方 】
◆rmqyubQICI




78 :No.19 貴族な子供のしつけ方 1/5 ◇rmqyubQICI:07/12/03 01:36:29 ID:Mb4WRYJ4
 初夏。やわらかな風が頬を撫で、けだるい陽の光が眠気を誘う。そんな午後のこと。
 ローマ郊外にあるクラウディウス・ネロ家の別邸は、午睡を誘うような静けさに包まれ
ていた。百万都市ローマの喧騒もここまでは届かず、ただ虫や鳥のざわめきがかすかに聞
こえる。草花にとまる蝶の動きも、その日はどこか、のんびりとして見えた。
 そんなまどろみの庭の片隅で、ひっそりと佇む男がひとり。年は三十を越えないくらい
だろう。青く染め抜いた、ギリシア風の長衣を着ている。男は邸宅の縁、白い石段に腰掛
けて、広い庭をつれづれと眺めていた。
 昼食を済ませた彼がふらりとここに来てから、もう一時間ほど経っただろうか。男の手
にあるのは銅製のペンとインク壷、そして一巻きのパピルス紙のみ。庭の様子を描くため
に持ち出してきたのだろうが、高価なパピルスを使うことに躊躇したらしく、その紙は未
だ真っ白だ。
 男はひとつ溜め息をついて、広げていたパピルス紙を巻き直し、自分の隣に置いた。そ
して大きく伸びをする。思う存分体を伸ばしたあと、男は近くの柱に寄りかかって、心地
よさそうに目を閉じた。
 そのまま時は穏やかに流れて、男がゆるゆるとした陽気に飲まれ始めた頃。
「先生ぇー!」
 うつらうつらとしている彼に向かって、ローマ風の短衣を着た少年が、元気よく走って
くる。年は十歳を過ぎたくらいだろうか。縦に長い革袋をひとつ、そして水のたっぷり入っ
た飲み口付きの皮袋をひとつ、右の肩から提げている。
「おや、小さなガイウス。どうしました?」
 あくびをかみ殺しつつ、男は少年に応えた。微笑む男とは対照的に、少年はすこし不機
嫌そうな顔をする。
「先生、その『小さなガイウス』っていうの、やっぱり嫌だ」
 そう言って頬を膨らませる少年に、男はくすりと笑って、諭すようにこう返した。
「だって仕方がないでしょう? あなたのお父上も、それにクラウディウス・ネロ家の当

79 :No.19 貴族な子供のしつけ方 2/5 ◇rmqyubQICI:07/12/03 01:36:50 ID:Mb4WRYJ4
主であるお爺様も、みなさん揃って個人名がガイウスなのですから」
 そもそもローマの男子名といえば数えるほどしかないのだから、なにかあだ名でもつけ
なければやっていられない。ガイウスと呼ばれた少年もそんなことくらい承知しているの
だが、やはり納得いかないようで、ますます頬を膨らませた。
 まぁ、十歳といえばそういう年頃だ。微笑ましく思いつつ、男は少年に尋ね返す。
「あなたこそ、私のことはアッピアノスと呼んでくれていいのですよ? 授業のとき以外
は、ですが」
 すると少年は難しそうな顔をして、
「でも、やっぱり教える側と教えられる側だから」
「そうですか」
 くすくすと笑いながら、男、アッピアノスは頷く。その嬉しそうな表情を見て、少年は
首を傾げた。
「先生、どうしたの?」
「いいえ、なんでもありませんよ。それより今日はまだ出かけないのですか?」
「ううん、今出るとこ。ほらっ」
 答えつつ、少年は提げていた革袋を開いて、中に入っているものを少し引き出して見せ
た。父からもらった古い剣の刃を落として作った、手製の模擬剣だ。
「なるほどね」
 アッピアノスはそう言って、また、くすくすと笑った。そして少年も、また、不思議そ
うに首を傾げる。
「いえ、ね。成長が楽しみだなぁと思いまして」
 アッピアノスが言うと、少年は腕を組んで、考え込む仕種をした。しかし所詮十歳の子
供のこと。十秒もすればどうでもよくなったらしく、ふぅと大きく息を吐き、腕を解いて
一言。
「まぁいいか」

80 :No.19 貴族な子供のしつけ方 3/5 ◇rmqyubQICI:07/12/03 01:37:21 ID:Mb4WRYJ4
 そして、苦笑するしかないアッピアノスの内心を知ってか知らずか、こう続ける。
「それより先生、授業のことなんだけどさ」
 アッピアノスは、ほう、と感心したように呟いて、
「珍しいですね、あなたが授業の話なんて。どうしました?」
「うん。えーと、算術の授業のことなんだけどさ」
 そこまで言って、少年はいったん言葉を切る。そしてしばらく視線をあちらこちらに遣っ
たあと、意を決したようにこう続けた。
「あんな難しい計算やってなんか意味あるのかなぁ、と……」
 控えめな声でそう告げた少年に、アッピアノスは優しく問い返す。
「どうしてそう思うんです?」
「だって、もう戦いに必要な計算はだいたいできるし」
 少年は両腕を組み、うんうんと頷きながら話を続ける。その表情はどうも自信なさげだ。
「先生はギリシアの人だからよく分かんないかもしれないけど、やっぱりクラウディウス
の男の舞台は戦場なんだよ。戦いが起これば真っ先に駆けつけて、最前線で指揮をとる。
『クラウディウス』はそうやってローマを支えてきたんだ。だから難しい算術なんて……」
「小さなガイウス」
 話を遮って、アッピアノスが少年の名を呼ぶ。それは優しげな声だったが、まだ幼い少
年を止めるには十分だったようで、ガイウスは直ちに閉口した。
「あなたは少し勘違いしていますね」
 アッピアノスはそう語りかけながら、腕を上げて前方を指す。その指が示す先には、幅
の広い、石造りの街道が。
「国を支えるというのは、あれのことを言うのですよ」
「あれって……アッピア街道のこと?」
 アッピアノスが指差す先、ローマから南東に延びるアッピア街道を見て、少年が問い返
す。

81 :No.19 貴族な子供のしつけ方 4/5 ◇rmqyubQICI:07/12/03 01:37:35 ID:Mb4WRYJ4
「ええ。街道の女王、アッピア街道です」
 アッピアノスは満足そうに頷いて、こう続けた。
「街道というのは、ただ土地と土地をつなぐものではありません。人と人、街と街、そし
て文化と文化をつなぐものなのです。分かりますか?」
「……なんとなく」
 どう見ても分かっていない様子の少年に、アッピアノスはくすくすと笑いながら説明を
付け足す。
「こう言えば分かりやすいでしょうか。
 街道は人を運ぶでしょう? そして人は荷物や、その土地の文化を運びますよね」
「あ、それなら分かる」
「それはよかった。では、このことも分かるでしょう。
 この『ローマ』という国家が成立するためには、街道の存在が不可欠だったのですよ」
 また分からないという顔をする少年に、アッピアノスはヒントを出してやった。
「たとえば一括りにローマ人と言っても、その中には色んな民族がいるでしょう? イタ
リアだけでもエトルリア、サビーニ、サムニウム……。それに私のようなギリシア人もい
ますし、北イタリアにはガリア人もいます」
 それから一拍おいて、こう言い放つ。
「さて、どうしてこんなにたくさんの民族が、ローマという一つの国にまとまっていられ
るのでしょうね」
「あ、なるほど!」
 ようやく理解できて、少年は両手の平を打ち合わせた。
「元々は色んな国があったのを、一つにまとめたのが街道、ってことだよね?」
「ちょっと言い過ぎている部分はありますけどね。それを差し引いても、素晴らしい構想
だと思います」
 まぁとにかく、と、アッピアノスは続ける。

82 :No.19 貴族な子供のしつけ方 5/5 ◇rmqyubQICI:07/12/03 01:37:58 ID:Mb4WRYJ4
「国を支えるというのは、そういうことなのですよ。戦で勝つのも必要ですが、それだけ
ではいけません。もっと広い視野を持たなければね」
 それを聞いた少年は小さく唸りながら、また胸の前で腕を組んだ。
「でも、やっぱり俺は戦場で活躍したいなぁ……」
 難しげなその声に、アッピアノスは困ったような笑みを浮かべる。そしてすこし考えた
あと、彼は最後の一押しを仕掛けた。
「小さなガイウス、ひとつ良いことを教えてあげましょう。
 あのアッピア街道は、初めてローマの外に造られた街道なのです。そしてその敷設を命
じた偉大な方の名前は、アッピウス・クラウディウス。あなたのご先祖様ですよ」
 まったく、うらやましいものです。そうアッピアノスが言い終えるのも待たず、少年の
目が輝き出した。なんとも分かりやすい反応に噴き出すのを我慢しつつ、アッピアノスは
こう続ける。
「ところで、あんなにも見事な街道を建設したアッピウス様は、きっと算術もちゃんとな
さっていたのでしょうね」
 アッピアノスの言に少年は力強く頷いて、
「先生、俺、算術も頑張るよ! じゃあ行ってくる!」
 そう言いながら大きく手を振り、駆け去って行く。
「はいはい、いってらっしゃい」
 少年に手を振り返しながら、アッピアノスは満足げに微笑んだ。しばらく経って少年の
姿が見えなくなった頃、彼はぼそりと独り言ちる。
「まぁ、まだまだ子供ってことですよね」
 ざわざわという風の音だけが、彼の呟きに答えた。


  了



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