【 黄昏の潮風に乗せて 】
◆TtwtmrylOY




37 :No.10 黄昏の潮風に乗せて 1/4 ◇TtwtmrylOY:07/12/03 00:53:46 ID:Mb4WRYJ4
 茫洋たる大海を背にして、貴子はボールを強く握った。橙色の夕日が彼女をかたどり、砂浜に寂寥とした陰を投げかけている。
 かつて貴子と共に砂浜に立ち、他愛無い言葉を交わしながらキャッチボールをしていた少年達の影は見られない。貴子はその近しく
も――つい数ヶ月前の――海を越えて行くかの如く遠く思えてしまう記憶を思い起こすたび、これまでに感じたのことのない激しい憤
りに苛まれるのだった。
 貴子は握りしめたボールを振りかぶり、その勢いのまま一息に壁に投げつけた。
「何よ、何よっ」
 ボールは鈍い衝突音を立てると、投擲した方向から僅かにずれて反射し、貴子の足元へ戻ってくる手前で砂浜にうずもれた。
 微塵も動かないボールはさながら今の彼女を表すかのようだった。あまりの不甲斐なさに、貴子は沸々とこみ上げてくる悔しさをぐ
っと堪える。
 貴子は十分承知しているつもりだった。いつかこうなることだって、薄々分かっていたはずなのに、いざ現実を突きつけられるとど
うしようもなく脆弱なもう一人の自分が居るのだった。
 ユウジとヒロトは幼馴染で、中学生になってからも親しい関係は変わらなかった。学校帰りに、この砂浜でキャッチボールをするの
が日々の日課だった。
 もともと運動神経が良かったせいなのか、貴子はほどなくしてキャッチボールのコツを掴んだ。彼らが投げたボールを取って力一杯
投げ返す。――くだらない規則的な運動だったにもかかわらず、確かな充実感を覚えていた。
 そして、その日常はあっけなく崩れ落ちた。
 ――あれは、いつだったろうか、と貴子は思い返す。
 まだこれほど日も長くなかった初夏の季節、いつも通り手にボールをもてあましながらユウジとヒロトを待っていた。遅れているの
だろうか、そろそろ来てくれても良い頃だと思いつつも、我慢してもう一時間待ってみた。が、誰も来なかった。
 翌日、貴子はユウジとヒロトにその訳を尋ねてみたが、彼らの返答は至って素っ気無かった。
 ――ユウジ、どうしたのよ一体。
 ――別に。忙しいからさ。
 ――ヒロトも何で来なかったの?
 ――俺も忙しくて行けなかったんだよ。ごめんな。
 これらの出来事から類推してみると、受験という二文字が貴子の頭を掠める。
 貴子は理解した。そうだ、彼らも忙しいのだ。私も頑張らなくてはいけない。あと数ヶ月我慢すれば、また顔を合わせて笑いあいな
がらキャッチボールだってできるんだから――
  ◇

38 :No.10 黄昏の潮風に乗せて 2/4 ◇TtwtmrylOY:07/12/03 00:54:15 ID:Mb4WRYJ4
 結局の所、諦めがつかない自分だけが、奥底の見えない沼の深みへずぶずぶと嵌ってゆくのが、貴子には手に取るように分かってい
た。
 最近は、それなりだった成績も芳しくなく、運動だって例に漏れずにいた。
 友とのしがらみに縛られ、過去から伸びる蔓は貴子を巧みに篭絡する。その蔓はあとほんの少しの決意さえあれば断ち切れるのだ。
 決断を迫られ揺れる貴子は、もう一度ボールを壁に向かって力任せに投げつけた。
 ボールはあらぬ方向に飛んで行き、貴子の視界を外れる。――何で、何で思い通りに行かないのよ……
 貴子は俯き、砂浜を意味も無く蹴り飛ばした。砂ははらりと宙を舞い、蹴った跡にはぽっかりとすり鉢状の穴が空いていた。
 その穴をじっと見つめていると、突如ボールが飛び込んできた。
「こんにちは……じゃなくてこんばんはですね、貴子先輩」
 あれ、誰だっけか……、貴子は暫し熟考し、思い出した。あの小さいバスケットボール部の後輩だ。入部当初から周りと比べると小
さく、一際貴子の目を引いた覚えがある。
「ああ、何してるんだ、後輩」
「ほら、もー、少し見ない間にまた後輩って呼ぶ、チハヤです。一、十、百、千の千に早いの早!」
 後輩は可愛らしくむくれると、砂浜を歩きにくそうに、足元を気にする素振りを見せた。
「それで、どうしたの? こんなところに来ても面白くないよ」
 千早は両の手の指を悩ましげに絡ませ、口をもごもごと動かしている。
 聞き取りづらかったものの、何を言わんとしているかは貴子にも理解できた。
「その、えっと、先輩何してるのかなあって思って……」
 貴子は驚愕した。
 見られていたのだろうか、一体どこからどこまで、まさか――
「怒ったような顔して、壁にボールぶつけてるから……」
 つまるところ、全て、初めから最後までこの子猫のように愛くるしい後輩は見ていたのだ。
「ははは、気にすることないよ。大したことじゃないし」
 ――何を言っているんだ私は、貴子は自嘲気味に笑いをこぼす。後輩の前では弱みは見せまいとする自分と、今にも音を立てて破裂
しそうなもう一人の弱い自分がせめぎあっていた。
「でも」
「だからー、大丈夫だって」
 千早に出来る限り微笑みかけてみせる。そんな貴子にも、彼女は真剣な面持ちを変えようとしなかった。
「いいから話してください」
 後輩はどこまでも頑固だった。

39 :No.10 黄昏の潮風に乗せて 3/4 ◇TtwtmrylOY:07/12/03 00:54:55 ID:Mb4WRYJ4
「そうだね、話そうか。そんなに私のこと心配してくれるなんて嬉しいよ」
 後輩は見る間に、幼い線の頬を朱に染め、あたふたと落ち着かなくなるばかりだった。
  ◇
「何から話そうかな」
 貴子はボールを手の平で弾ませると、その度乾いた音が断続的に響く。
「あのね、私達ってもう受験なんだよね。皆忙しくなる訳よ」
 小さい後輩はただ黙って、こくこくと小さな顔を縦に振っている。貴子は続けた。
「暢気に遊んでられなくなるのよね、かくいう私も受験生の身なんだけど……、何も全然上手くいかなくてね」
「ふうん、そうなんですかー」
 そう言うと千早は海のある方向へと向き直った。大海を見つめる彼女の澄んだ瞳は硝子細工を彷彿とさせ、一滴の墨を落とし込んだ
かのような深い黒を湛えている。
 千早の端正な小顔は潮風に吹かれ、彼女は目を細めると呟いた。
「私はまだそういうの分からないですけど、悩んだときとか、迷ったとき、ここに来るんです」
 言い終えると、かばんの中から何やら取り出して見せる。
 彼女のかばんから出てきたのは、先端に穴の空いた黄緑色の筒と、小さな箱型のビニールの容器だった。
 千早はビニールの容器の蓋をぎこちなく外すと、筒をビニールの容器の中に入れ、ゆっくりと手首を使ってかき混ぜた。
 そして筒を取り出し、ビニールの容器の中に入れたのとは反対側を優しく口に咥えた。
 千早は穏やかに目を瞑り、ふうと息を吹き込む。
 筒の先端から放たれたのは、大小様々の泡だった。
「シャボン……玉」
「そうです、シャボン玉です! 綺麗ですよね、とっても癒されます」
 気を良くしたのか、千早は楽しげに次々と泡を生み出す。
 夕日に当たり、大海へと懸命に飛び立つシャボン玉は仄かに七色に色づいた。それらはさして遠くに行くこともなく、上空で儚く弾
けてしまう。
「先輩なら、先輩なら上手くいきます。
 このシャボン玉達は、海なんか越えないで消えてなくなっちゃいますけど――先輩は違います。
 先輩は頭も良くて、背も高くてかっこよくて……、私なんかとは大違いです。きっと、先輩なら目の前の大きな海でも楽々越えちゃ
うって信じてます。
 ……先輩は私の憧れなんです」
 一気にまくし立てると、後輩は恥ずかしげに、もう一度筒に息を吹き込んで見せた。

40 :No.10 黄昏の潮風に乗せて 4/4 ◇TtwtmrylOY:07/12/03 00:58:30 ID:Mb4WRYJ4
 再び大海に向かって、ふわふわとシャボン玉達は漕ぎ出してゆく。
「ありがとう」
「いえいえ、こんなことしか言えなくてすみません。……やっぱりダメですね私」
「そんなことないよ、だってほら――」
 突如、ごうと潮の香を帯びた風が吹きすさんだ。あまりにも頼りないシャボン玉達は、一陣の風に乗って夕空の向こう側へと消え入
った。
「一緒に頑張ろうか、後輩」
 貴子はしゅんと項垂れる後輩の頭をゆっくりと撫でた。千早のさらさらの髪が、貴子の手に心地よい感触を伝えてくる。
 撫でられた彼女は、目を子猫のように閉じ、その目から一筋の涙を伝わせた。
 それを皮切りに、千早の目からは堰を切ったように涙がぽろぽろと止め処なく溢れてくる。
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ」
「だって、先輩が、先輩がいつもの先輩に戻ってくれて嬉しくて……」
 貴子は、目元をハンカチで拭う後輩をぎゅっと抱きとめた。この小さな体で毎日自分のことを心配していてくれたのだ。そう思うと
たまらなく愛おしくなり、より強くその矮躯を包んだ。
「せ、先輩痛いです……」
 千早はそう言いつつも貴子を見上げてくる顔に翳りは無く、雲ひとつない青空を映したかのようでもある。
 ついに貴子はふっきれた。今までの自分はまっすぐ進むことを良しとせず、いつの間にか斜に構えて、ひねくれるのが当たり前にな
っていた。だが、今は違う。この可愛らしい後輩は甲斐甲斐しく涙まで流してくれた。
 一旦懐かしいあの日常たちとはお別れだ、でもそれは一時の別れ。数ヵ月後には三人で、そしてこの後輩に笑って顔を合わせられる
ように。
 貴子は海を見据える。夕日は水平線の向こう側に沈みかかっている。夕日は誰も待たずに、早々と輝く身を潜めてしまうのだ。
 (すぐにでも追いついてみせる……)
 この決意が、高く高く、海までもを越えて、まだ見ぬ遥か彼方に届きますように――そう貴子は強く願った。
 そうして、手に握ったボールを潮風に乗せて、力強く投げ放った。



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