【 ムーンリバー 】
◆AyeEO8H47E




33 :No.09 ムーンリバー 1/4 ◇AyeEO8H47E:07/12/02 18:44:15 ID:H6z91+uk
 枝垂れ柳の葉っぱの向こうで誰かが手を振っている。そんな夢を見てジンガは目を覚ました。
それは見た夢の最後の場面であったようで、はっきり覚えているのはその部分だけだった。
実際にはもっと長い夢であったようだ。
手を振っていた誰かにジンガは恋をしていたのかもしれなかった。ジンガは断片化された夢の記憶をかき集める。
そして現実ではない世界で彼が感じたらしいぬくもりを、ベッドの中でひしと抱きしめた。
ジンガは暗い自分の部屋の中で再び眠りにつこうとはせず、目を開けたままでいた。
どこからか微かに聞こえてくる換気扇か何かがたてているらしい低い駆動音が、辺りの静けさを余計に際立たせている。
今夜は満月であるらしく、窓から射し込む月明かりが教科書やノート、小説、漫画などが乱雑に積まれた勉強机を照らしている。
月光の中で微細な埃がふわふわと舞っていた。
ジンガは先ほどから自身のペニスが硬く勃起しているのを感じていた。
それをそのままに眠りにつくことは叶わないようであったので、ジンガはベッドから起き出して勉強机に座りマスターベーションを始めた。
先ほどの夢の中の女性が脳裏をよぎる。ジンガはいつもより強く射精した。
ジンガはすっかり目が覚めてしまう。
ジンガはジャージの上にダウンジャケットを着込み、部屋のドアを開けて廊下に出た。
出来るだけ足音がしないよう慎重に階段を下りるが、最後の段を下りるときそこに寝そべっていた猫の尻尾を踏んでしまう。
ギニャァァァ!と猫はけたたましく鳴き、リンリンと鈴の音を鳴らしながら廊下の先の暗がりの中へ逃げ去っていった。
その鳴き声を聞いてジンガの母親は目を覚ましてしまったらしい。
障子を開けて廊下に出てきた母親が、玄関のドアのノブに手をかけているジンガを見つける。
「貴之! こんな夜中にどこへ行くの!」
貴之というのはジンガが親に貰った名前である。
「うるさいな。外だよ」
ジンガはまだ何か言おうとする母親を無視して家を出た。
 やはり今夜は満月だった。遥か上空では強い風が吹いているらしく、月に照らされてその端に少しだけ昼の白さを取り戻した雲たちが、
速いスピードで流れていた。小さい頃、ジンガは夜でも雲が見えることを知って驚いた。雲は青い空に張り付いた白い模様で、
夜の空は黒い空に月や星が貼り付けてあるものだと信じていたのだ。
夜の雲を見ると、ジンガはいつも小さいときに感じた新鮮な驚きの感情を思い出し、懐かしい気持ちになる。
ジンガは、昔に比べて自分を取り巻く世界が随分とつまらなくなったように感じていた。何かに驚くことが少なくなった。
新しく入ってくる情報は因数分解の解き方や歴史の年号の語呂合わせ、あるいは学校の誰と誰が付き合い始めたか、それとも別れたか。
だいたいがそんな所だった。小さい頃の彼の周りに溢れていた、世界の在り方が変わってしまうほどの驚きは、
いつの頃からかジンガの元に訪れなくなった。

34 :No.09 ムーンリバー 2/4 ◇AyeEO8H47E:07/12/02 18:44:37 ID:H6z91+uk
 ジンガは公園に辿り着いた。シーソー、ジャングルジム、鉄棒、滑り台、砂場、そしてブランコ。昔彼がよく遊んだ遊具が並んでいる。
公園の光景は、昼間に見るそれとは随分様子が違っている。遊具たちは、夜の静寂を破らぬよう息を殺しているように見える。
あるいは、彼らもまた夜は人間と同じように眠っているのかもしれない。
ジンガは眠っているのかもしれない滑り台に気を使って、そっと階段に足をかけて一番上まで登った。
そして腰を下ろし、そこから辺りを眺めたあとジンガは思う。こんなに低かったっけ、と。
身を乗り出して滑ろうとするが、体がうまく滑っていかない。彼の体は昔と比べて随分と大きくなっていた。
両足で斜面を手繰り寄せるようにして、ジンガはズリズリと下までおりていった。
 ジンガは滑り台の斜面に背中を預け、空を仰いだ。
満月と、悠然と流れ行く雲。視界の端には公園の周囲を囲っている背の高い木々の頭が映っている。
自分は最近よく空を見ているような気がする、とジンガは思う。
ジンガは色んなものに窮屈を感じている自分に気づく。滑り台だけではない。
学校も、家族も、友人ですらも、ジンガをクッキーの型のような狭い穴の中に、無理やり詰め込もうとやっきになっているように
感じられた。
周りから新鮮なものが消えてしまったと感じるようになって以来、ジンガは芸術に興味を示すようになった。
色々な小説を読み、色々な音楽を聴き、色々な映画を見、時には美術館にも足を運ぶようになった。
彼は自分がなくしてしまったかもしれないものを取り戻そうと必死だった。
しかしそんな彼の様子に対して、周りの反応は冷ややかだった。
両親や教師たちは、「そんなものばかり読んで(聴いて)ないで勉強しなさい」と言った。
友人たちは、チャート上位を占める音楽の話をしても全く乗ってこないジンガにうんざりした。
また休み時間に難しそうな小説を読みふける彼のところにやって来て、自分を賢く見せるために見栄をはっているのだろう、と
冷やかした。誰も彼の必死さを理解しなかった。
「みんな、わかってない」
ジンガは声に出して呟いた。声は夜のしじまの中へと吸い込まれていった。
月は天頂を離れ、やや西へと傾いている。今はだいたい深夜の二時頃だろうか、とジンガは推測する。
月の模様がくっきりと見える。ジンガは月に模様があることにも驚いたことがある。月は夜の空に描かれた模様などではなく、
広大な暗黒の空間の中に浮かぶ巨大な球体であることを知った。月の模様は、表面の地形の凹凸によって作り出されたものだった。
月にある山が、海が、川が、うさぎが餅をついているような、女の横顔のような不思議な模様を作り出しているのだった。
ジンガはムーンリバーという古い歌を思い出す。
メロディを思い出そうと、ジンガは小さな声でハミングしてみる。
「ムーンリバー、ふーんふふんふふーん……」

35 :No.09 ムーンリバー 3/4 ◇AyeEO8H47E:07/12/02 18:47:55 ID:H6z91+uk
彼の歌声は先ほどと同じく、静寂の中に染み込んでいった。
自分の声が夜の公園に響き渡っていく感じがとても心地がよく、ジンガはもっと歌ってみたくなった。
ワンコーラスをハミングで歌いきる。だんだんと気分が昂ぶってくる。凄くいい歌だ、とジンガは思った。
ジンガは歌詞を覚えていないのがもどかしくなってきた。さらに感情を込めて歌うためには、歌詞が必要だった。
必死に頭を巡らせて歌詞を思い出そうとするが、やはり「ムーンリバー」と歌う部分しか思い出せない。ジンガは英語が苦手なのだ。
ジンガは目を瞑った。そして耳を澄ませる。
しばらくの間、彼はそうやってじっとしていた。
ジンガはこれまでにないほどに集中していた。
弱い風に木々が微かにざわめく音や、腰掛けた滑り台のわずかな軋み、小さな虫たちの押し殺した息遣いまでもが聞こえてくるような
気がした。その中で、遠くの方から近づいてくる微かな音があるのにジンガは気づく。
その音は一定のリズムを刻んで少しずつ、少しずつ大きくなってくる。
リン、リン、リン。リン、リン、リン。
それは丁度、ムーンリバーのリズムと同じだった。
ジンガの中で、何かが弾ける。
彼は目を閉じたまま歌いだした。

 ムーンリバー 眠れない
 僕は滑り台の上
 枝垂れ柳の 葉っぱの向こう
 君が僕を呼ぶような気がして

 ジンガはここまで歌うと、膝の上にドスッと衝撃を感じて目を開けた。
そこにはさっきジンガが尻尾を踏んづけてしまった、猫が乗っていた。ジンガは不思議そうに猫を見つめる。
「お前、どうやって外に出てきたんだ?」
ジンガの家では夜になると玄関のドアはもちろん、窓の鍵も勝手口の鍵も全て閉める。ジンガが家を出るとき、もちろん猫は
彼と一緒に外に出たりはしなかった。一体どこから家を抜け出してきたのだろうか?
猫はそんな彼の疑問をよそに、眠そうに「ニャア」と鳴いた。そして後ろ足で顔を掻く。鈴はリンリンと揺れた。
猫を撫でながら、ジンガは自分が歌った歌のことを考えた。陳腐な歌詞だな、と。
彼は一人でプッ、と吹き出す。しかし、その陳腐な歌を歌っているときに感じた感情は、今まで経験したことのないものだった。
自分で何かを創り出す。芸術をその身に受けるばかりであったジンガにとって、その行為は革命的なことのように思えた。

36 :No.09 ムーンリバー 4/4 ◇AyeEO8H47E:07/12/02 18:48:21 ID:H6z91+uk
久しぶりに、ジンガの世界がその姿を変化させようとしていた。
ジンガは大きなくしゃみをした。その後身震いをして、
「陳腐な歌詞の続きは、家に帰ってから考えよう」、と呟き、ジンガは猫を抱き上げ公園を後にした。

 帰り道、ジンガは腕の中の猫に話しかける。
「今夜のお礼に、お前には名前をつけてあげないとな」
なんと猫にはまだ名前がなかった。そしてジンガは創作意欲を持て余していた。
うーん……、とひとしきり唸った後、ジンガは叫んだ。
「ティファニー!」
猫は、猫にしては仰々しい名前を貰って、「ニャー」と返事をした。



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