116 :No.31 勇気の日 1/5 ◇InwGZIAUcs:07/11/25 23:54:05 ID:X9t4Q6j+
魔物とは死んだ人間、もしくは動物のなれ果てである。
その見解はどうやら正しいらしい。と、少年は胸中で呟いた。
約十メートル先にいる魔物は、ぎこちなく四肢を動かしながらゆっくりとこちらに近づいている。
(目いっぱい引き付けてから……放つ)
構えるは身長に近い大きさを誇る自前の長弓。
ぼやけた視界を自ら閉ざして、魔物の気配に身を委ねる……が、
周りに茂る木々のざわめきに集中することが中々できない。
もう一度目を開いた。
ただれた肉と異臭を放つ魔物はもう目と鼻の先まで来ている。
「うっ……」
体が震え、言うことを聞かない……頭の中は真っ白になり、胃の奥から恐怖が滲んで広がっていく。
目から零れた涙が落ちるのを待たずに、少年は踵を返し逃げ出していた。
町外れの森に、かん高い悲鳴が木霊した……。
ランスと言う少年は目が悪かった。
魔物に傷つけられた瞳は遠景どころか手元さえあまり鮮明に見ることはできない。
しかし、目が見えなくなってから、見えないものをよく感じるようになったという。
ランスが初めに違和感を抱いたのは、魔物の気配から感じる生きていた頃のぬくもり。
人間の気配を魔物から感じてしまうことだった。
彼は大きく苦悩した。
次に、ふと気づけば隣に小さな龍がいた。
何をするでもなくいつも傍らにいて、何かを言いたそうにモジモジしている。
龍は他の人には見えず、自分だけ見ることができる。
そんな龍を彼は友達と呼び続けていた。
「きっと一人になった僕に、神様が友達を与えてくれたんだ」
ランスに家族はいなかった。
魔物に襲われ彼以外全て殺されてしまったのだ。
目を怪我したのはその時である。
それでも彼は、逞しく生きていた。
117 :No.31 勇気の日 2/5 ◇InwGZIAUcs:07/11/25 23:54:30 ID:X9t4Q6j+
森で動物を狩り、食料を賄い、町に出て毛皮と生活用品を交換し生活をしていた。
そんな、少年であった。
目が見えなくては弓の手入れもままなら無いが、これを欠かすことはできない。
何よりこういった単純な作業は、彼の気持ちを大いに落ち着かせた。
「……いたっ」
手元で削っていた鏃を置き、痛んだ肩に手を添える。
ランスはあちらこちらを枝先に切られ、傷つけられていた。
道を選ばずに森を走ればあっというまに切り傷が増えていく……当然そのことをランスも知っている。
しかしそうせざるを得なかったのは魔物から逃げる一手を打ったからに他ならない。
ランスは逃げ帰ってきたのだ。
「どうしよもなかったんだ」
(そんなことはなかった)
口から出た言葉と胸中の言葉は正反対であった。
魔物が怖い。それは元々魔物は人だから。人を傷つけるのは怖い。だから自分は魔物を殺すことができない。
ランスは自分の不甲斐なさを、そういった人情によるものだと片付ける。
「君もそう思うだろ?」
「……きゅるきゅる」
否定するように小さく鳴いて、首を捻ったのは小さな龍だった。
蛇のように細長い胴を持った伝説の動物。
「僕は……間違ってる?」
「きゅるきゅる」
悲しそうに目を細めた龍は、大きく頷いてみせる。
しかしランスには、何が間違っているのか理解ができなかった。
数日後。
森で小さな女の子が魔物に殺されたと風の便りを聞いた時、
ランスの心臓は握りつぶされたかのような鼓動を刻んだ。
118 :No.31 勇気の日 3/5 ◇InwGZIAUcs:07/11/25 23:54:50 ID:X9t4Q6j+
記憶の片隅においやった何かが蘇るが、それにもう一度蓋をする。
龍は悲しそうに目を細めていた。
さらに数日後……雨脚の強まった夜のこと。
ランスは湿っぽいベッドに横たわり、寝付けずにいた。
「嫌な夜だね」
傍らでまどろんでいる龍に語りかける。
「きゅる〜」
毛布をかぶり直してもう一度目を閉じたとき、ランスはいつもと違う気配に立ち上がった。
それにならって、龍も警戒するようにランスの腕にサッと絡みつく。
「い……た……い……よ……?」
それは雨に叩かれた窓の音ではない。
誰かが呟きながら……窓を叩いている音だった。
「誰!」
窓を叩く音はどんどん強くなり、終には破られてしまう。
ランスは慌てて弓矢を手にし、窓から侵入してくるソレに感覚を研ぎ澄ました。
感じる気配は人間……だったもの。
ようするに魔物……しかしそれは小さな魔物であった。
(慌てることは無い。小さな魔物だ。僕をどうこうできる筈無い)
目いっぱい弦を広げ、矢先を小さな魔物に向ける。
(仕方ないんだ。家に入ってこられたらどうしようもない……殺すしかないんだ)
「た……す……け……て……」
「――っ!」
その声には聞き覚えがあった。
つい先日森で魔物に襲われ死んでしまった子。
ランスが見殺しにしてしまった子。
無かったことにしてしまった子。
「う、あああぁぁぁぁ!」
肺から息を搾り出すように叫ぶランスの目には、その日の光景が浮かんでいた。
119 :No.31 勇気の日 4/5 ◇InwGZIAUcs:07/11/25 23:55:09 ID:X9t4Q6j+
助けを求める少女。
弓を持った自分。
恐怖に竦み逃げ出し、体が傷つくのも気にせず走り続けた。
恐怖は家族を殺された日に植えつけられた……その事を否定し続け、
魔物は元々人間だからと言い訳を積み重ねたこと。
全てが混ざり合って、ランスの視界は今涙で歪んでいた。
いつの間にか弓は弧を描くのを止め、矢は地面に落ちていた。
「僕は……僕は悪くない!」
そう、彼は悪くない。彼を咎める人は誰もいない……が、それでも一人だけ、いや、一匹だけいた。
「きゅるきゅる!」
腕にまとわりついた龍が涙を流しながら、ランスの指に噛み付いていた。
「君は……」
自分に嘘をつくのをやめて、前を見ろ!
そうランスには聞こえた。
前を見る。
視界は涙でなくてもぼやけていたが、一つ分かったことがあった。
「泣いているの?」
少女だった小さな魔物は、泣いていた。
「た……す……け……」
ランスは何となく彼女の為に泣きたくなった。
すると知らず恐怖から放たれ、体が軽くなるのをランスは感じた。
「ごめん……今度こそ助けてあげるね?」
落ちた矢を拾い上げ、力強く弦を引っ張る。
気配を察するまでも無い距離に彼女はいた。
襲うでもなく、ただその身から開放されるのを待つように。
「さようなら」
矢は放たれた。
魔物の眉間を射抜いた矢は後ろの壁に突き刺さる。
その瞬間、小さな龍が光りだした。
巨大な龍となって天井をつき抜け天に昇っていく。
120 :No.31 勇気の日 5/5 ◇InwGZIAUcs:07/11/25 23:55:32 ID:X9t4Q6j+
そして確かにランスの耳には龍の言葉が届いていた。
――ランスに足りなかったのは勇気だよ。自分と向き合う勇気だ。……もう、大丈夫だね。
次いで女の子の声も聞こえる。
――ありがとう……お兄ちゃん……。
それはランスの見た幻かもしれない。
自分の心を納得させる幻聴かもしれない。
そもそも龍の存在は、ランスの心が生み出していた幻覚だったのかもしれない。
それでもランスにとっては十分だった。
本当の意味で一人になった……ようやく本当の自分が始まる。そう、思えたから。
それからいくらか時間が過ぎた頃。
あの日と同じように森に迷い込んだ少女が魔物に襲われていた。
彼女を助けるのにもう迷いは無い。
ランスは力いっぱい弦を引っ張った。
終わり