【 空想 】
◆M0e2269Ahs




107 :No.29 空想 1/4 ◇M0e2269Ahs:07/11/25 23:36:21 ID:X9t4Q6j+
 強い風に煽られて、吸っている傍から灰が飛ばされていく。その後を追うようにして、白い煙も飛んでいく。
いったい、どこまで行くのだろう。後を追おうにも、灰は、煙は、闇に吸い込まれていって、すぐに見えなくなってしまった。
 ラッキーストライクを吸い込んだ。むせた。
 ひとしきりむせった後、何故だか、おかしくなった。ああ、僕はどうして。どうして煙草を吸っているのだろう。
 地面に落としたつもりのラッキーストライクは宙を舞って、やがてまた、闇に消えていった。まだ、火がついていたのに。
もしも、誰かの頭の上に落ちて、その人がやけどでもしてしまったら、僕は犯罪者だろうか。
 風にはためくコートを押さえつけるようにして、ポケットに手を突っ込んだ。かじかんだ手に、ほんの少しだけ温もりを感じた。
 いいや。僕はすでに犯罪者だ。
 関係者以外立入禁止と書かれた看板を無視し、ドアノブのカバーを壊して、屋上に侵入した。
これだけで、どれほどの罪になるのか。僕は知らない。いずれにせよ、罪は罪なのだろうとは思う。でも、それももう、どうでもよかった。
 ポケットの中から煙草の箱を取り出した。箱を開けると、ライターと煙草が顔を出した。最後の一本だった。
 最後の一本。もう、最後の一本か。
 ここに来てから、どれほどの時間が経ったのだろう。ライターが入らないくらいには、あったはずの煙草を、僕はここで吸ったのだ。
それほどの時間が経っていた。見れば、足元に捨てたはずの煙草は、黒い消し跡だけを残して、どこかに消えていた。
 僕はまた、おかしくなって笑った。ああ、きっと。きっと僕もまた、同じようになる。
 自分の笑い声を聞いて、僕はさらにおかしくなって笑った。何がおかしい。わからない。でも、おかしい。僕は笑った。
 ふと、声が聞こえたような気がした。僕は、反射的に息を殺して、耳を澄ました。
 聞こえてくるのは、吹き付ける冷たい風が、僕のコートをバタバタと鳴らす音だけだった。
 気のせいだったろうか。いくら待っても人の声に聞こえるような音は何一つしなかった。最後の一本を口にくわえた。
「例えば君が傷ついて、挫けそうになった時は、必ず僕が傍にいて、支えてあげるよその肩を」
 ビルの屋上で唐突に発せられた歌声に、僕は身を隠すようにして屈みこんだ。
「……と、言うわけで、支えに来ましたよ」
 男にしては高い、女にしては低い声で、誰かが言った。ああ、誰かに見つかってしまうとは思わなかった。どうすればいいのかわからずに、
僕はそのまま地面にへたり込んだ。が、すぐにその誰かに腕を引っ張られ、その場に立たされてしまった。
 目に入ったのは、タキシード姿の男だった。その男は、僕のコートの汚れを手で払い、それを終えると、にこりと微笑んだ。僕は、その間
ずっと言葉を失くして、ただ、作り物のように整った男の顔を見つめていた。
「私が誰なのか、という問いに対する答えは要りませんよね? 今のあなたにとっては」
 男の声が耳を通り抜けても、僕はまだ男の顔を見つめていた。男は、少し驚いたように首を傾げて、また微笑んだ。
「私が中学生の頃の話です。お聞きになりますか?」
 中学生? 現実離れをしている男の口から発せられた、現実的な言葉に意表をつかれて、僕はまた男に返答できなかった。

108 :No.29 空想 2/4 ◇M0e2269Ahs:07/11/25 23:36:39 ID:X9t4Q6j+
 男は、小さく首を振って、それでもまた笑ってみせた。
「私が在籍していたクラスに……そうですね、ここではAさんとしておきましょうか。Aさんという女の子がいました。
とても可愛らしい女の子で、男子の間でも人気があったのですが、少し変わった女の子でしてね。例えば、そう。Aさんは自分のことを
お姫様だと思っていたようで、彼女はよく、それはもうお姫様のような言葉遣いで会話をされていました。普通ならば、それだけでAさんという
女の子は、敬遠されていた、もしくは苛められていたかもしれません。ですが、そんなことはありませんでした。何故なら、Aさんは本物の
お姫様のように美しく、お淑やかなお方だったからです。まさに、お姫様を振舞うにふさわしいお方だった、というわけです」
 男は、そこで話を切ると、ぱちんと指を鳴らした。すると、何もなかったはずの屋上に、テーブルと椅子が現れた。テーブルの上には、
湯気を立てているティーカップが置かれていた。あっけに取られている僕に微笑みかけながら、男は椅子を引いた。
「どうぞ、お掛けになってください」
 足が動かなかった。それが、警戒心からきているのか、寒さからきているのかはわからなかった。男は不気味なまでに笑顔を崩さず、
僕をじっと見つめていた。油が切れたロボットのように、ぎこちなくも足を動かした。椅子の前に立つと、半ば強制的に、僕は腰を下ろした。
 テーブルを回り込んで僕の向かいに座った男は、テーブルの上で湯気を立てているカップをこちらに差し出し、いつのまにか現れていた
角砂糖が入っている瓶も差し出した。
「コーヒーはブラックでしか飲まないのに、ココアには大量に砂糖を入れる、でしたよね?」
 そう、それは、僕の小さなこだわりだった。苦くないコーヒーはコーヒーじゃない。甘くないココアはココアじゃないのだ。しかし、それは
誰にも話したことはないことだったから、当然、見ず知らずのこの男が、それを知っているはずがなかった。
 いったい、この男は何者なのか。そう思いながらも瓶を受け取り、蓋を外して角砂糖を四つ、ココアに入れた。ソーサーに添えられていた
小さなスプーンでココアを混ぜた。その間、男はじっと、こちらの様子を窺っていて、何とも言えない気まずさが漂った。
「あの」
「はい。何でしょうか」
 男は、相変わらず笑みを崩さずにそう言った。
「……あなたは、飲まないんですか?」
 何を言っているのかわからないといったふうに、男は少し首を傾げた。が、やはりまた、にこりと笑った。
「どうぞ、お気になさらずに。あなたがあまりにも青ざめた顔をしていたものですから。どうぞ遠慮なく、飲んで下さい。そうですね。では、
話の続きに入りますから、聞きながらでも、温まってください」
 震える顎で何度も頷いた。スプーンをソーサーに置いて、カップを両手で包み込むようにして持った。かじかんだ手がじわりした。
「そんなAさんと、ですね。幸運にも席を隣り合わせることができたのです。当然、嬉しかったですよ。それは、もう。あからさまにそんな
素振りは取っていませんでしたが、彼女に想いを寄せていた男子の数は少なくなかったはずです。でなければ、その翌日から私の上履が
ゴミ箱の中から見付かったり、教科書に下品な落書きをされたりするわけがありません。ですよね?」
 何がおかしいのか、男は首を大げさに横に振って、笑顔を振りまいた。ココアを一口飲んだ。鼻がおかしくなりそうなほど、甘ったるかった。

109 :No.29 空想 3/4 ◇M0e2269Ahs:07/11/25 23:36:55 ID:X9t4Q6j+
「しかし、せっかくAさんの隣になることができたというのに、私は積極的に彼女と会話しようとはしませんでした。おそらく、恥ずかしかった
のでしょう。女の子と会話するという、たったそれだけのことが。ですから、私とAさんは特に仲を深めることはありませんでした。今、思えば
もう少し。少しだけでいいから、彼女と会話してみたかったとも思います。まあ、そのおかげで、私の上履はあるべき所に収まるようになった
ので、あれでよかったと言えばよかったのかもしれませんが」
 残念なことに落書きは消えませんでしたが、と付け加えて、男はくすくすと笑った。僕はココアを飲んだ。
「そうして、私とAさんの関係が何も進展しないまま、席替えの日を迎えることになりました。何にも進展はなかったとは言え、彼女の隣にいる
だけで嬉しかったものですから、その日迎えた席替えというのは、まるで恋人との永遠の別れのようにも感じられました。失って初めて気づく、
とは言いますが、まさにそのような感じで、私は密かにAさんとの別れを惜しみました。その時、でした。Aさんが私に話かけてくれたのです。
きっと、それは初めてのことだったと思います。Aさんは言いました。『私は、人を動物に喩えることが好きなの』と。私は、なんと高尚な趣味
なのだろうと思いました。とても女の子らしく、そして可愛らしい、何よりAさんらしく素晴らしい趣味だと、即座に思ったのです。Aさんは
言いました。『貴方を動物に喩えると、アライグマなのです』と。判断に困りました。ですから、言ったのです。『それは、喜んでもいいので
しょうか』。Aさんは『もちろんですわ。私の中では、アライグマは、位の高い動物なのです』と言ってくれました。嬉しかったです。それは、
もう。有頂天になりました。ですから、残念なことに、何故私がアライグマで、何故Aさんの中ではアライグマは位が高いとされているのか。
それを聞くのを忘れてしまったのです。それは、今こうして振り返ってみてもとても残念に思います。何故なら、その答えは、その時にしか
聞けないものだったからです。Aさんが今どこで生きているのかもわかりませんし、私のことを覚えているかもわからない。ましてや、私を
アライグマだと言ったことなど、きっと忘れているに違いない。もう一度Aさんに会えたとしても、きっと彼女は、私のことを別の動物に喩える
でしょう。それは、すごく残念なことです。どうですか、あなたもそう思いませんか?」
 男が話している間に、僕はすっかりとココアを飲み干していた。舌に残った甘ったるい味が僕をむかむかさせて、僕は答えた。
「別に」
 男は、眉毛を八の字にして、小さくため息を吐いた。しかし、すぐに笑顔を取り戻した。
「では、もう一つ、お話させてください」
 まだ続くのか、と思った瞬間、男はティーカップにコーヒーを注いだ。確かに、コーヒーが飲みたかった。
「私が高校生の頃の話です。中学生の頃から、そういう節はあったのですが、この頃から私は一層人付き合いを苦手とするようになりましてね。
教室内で騒ぎ立てる男女や、我が物顔で知識をひけらかす教師などにうんざりしていたのです。学校生活の殆ど全てが、私にとっては退屈なもの
でした。そんな時に、そんな退屈な生活を打開する一つの方法を考え出したのです。それは、ガイコツを見ること、でした。当然ながら、全ての
人間の中には、骨があります。それを想像してやるのです。どうですか? 面白いと思いませんか? 髪を染めて格好つけてる男子も、化粧を
塗りたくっている女子も、得意面で唾を飛ばす教師も、みんなすべて中身はガイコツです。これほど馬鹿らしいことはないですよ。どんな人間も
ガイコツまで着飾ることはできませんからね。これが面白い。本当に滑稽です。そんなガイコツたちに対して気落ちしている自分が、馬鹿らしく
思えるほどに、ね。どうですか? あなたもそう思いませんか?」
「別に」

110 :No.29 空想 4/4 ◇M0e2269Ahs:07/11/25 23:37:28 ID:X9t4Q6j+
 最後の一本のラッキーストライクを、むせ返りながらも吸い終えた。
 投げ捨てる前に、ラッキーストライクは一足早く、宙を舞った。
 もう、ここで時間を潰すことはできない。アライグマもガイコツも、僕にはもう、何の意味もないものだった。
 吹きすさぶ風は一向にやまなくて、僕の髪をくしゃくしゃにして。それも、もう、どうでもよかった。
 僕の希望が消え失せたって、この地球は回り続ける。僕が信じなくても、それは間違いないことなのだろう。
 ただ、ココアは飲みたいかもしれない。でも、いらない。そうしたらきっと、コーヒーも飲みたくなる。そうしたら、きっと。
 暗い路地に飛び込むと、空と地が逆になった。初めて見た景色は、もう少し長く見ていたい景色でもあった。
 でも、それも、もう、どうでもいい。
 あ、靴を脱ぐのを忘れたな。
 でも、それも、もう、どうでもいいか。
                                                  おわり



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