【 たるほ. 】
◆hemq0QmgO2




125 :No.22 たるほ 1/3 ◇hemq0QmgO2:07/11/27 09:44:00 ID:vO2WuSwR
 毎月二十八日の夜にはお酒を飲むことに決めてるの、アル中だった父の月命日だから。
そう言って春野は笑い、外気に晒されて急速にぬるくなった燗を喉の奥にすべらせた。
 ぼくにとっては、おそらくは彼女にとっても、どうでもいい話だ。ただ問題は話の内容ではない。
彼女がどんな言葉を求めているのか、どんな言葉を並べれば彼女の布団にもぐり込めるか、それに尽きる。
現代文の記述問題を解くのと同じだ。コンテクストを考慮し、要点をまとめ、
あとはエスプリまがいの刺激物をちりばめて、きわめて軽薄なテクストを提供してやればいい。
 ちなみにこの場合、コンテクストとはわれわれ二人を取り巻く状況全てである。
もちろん把握しきれない事象もあるので、特に重要だと思われるものだけを以下にまとめてみる。

『十一月二十八日、平年並みに寒い夜、さびれた屋台の丸椅子に座って飲むアルコール飲料、その量、
春野の社会的・外見的特徴とそこから推測される男性経験及び嗜好
(二十歳、学園系大学の文学部生、喫煙者、身長は高い、目鼻立ちはそこそこに整っている、
輪郭の角度は平均的、やや貧乳、黒のコートに細いジーンズのさばさば系、髪は黒に近い茶のセミロング、
化粧はどちらかと言えば薄め、稲垣足穂と坂口安吾と吉行淳之介とイタロ・カルヴィーノが好き、
太宰はそれほど好きではない、作家の趣味から考えるとおそらくは非処女だがそれほど軽いタイプではない、
経験は二〜三人程度だろう、好きなタイプはある程度知的で文化的なアル中?
少なからずエディプス・コンプレックスの傾向があるようだ)、そして春野とぼくとの関係(大学の友達)』

 以上のコンテクストを踏まえると、ぼくが彼女に提供する快楽のテクストはこのようなものになる。
いや、ならざるをえない。もはや語るのはぼくではなく、ディスクールなのだから。
「そうかい、それはかなしいね、親父さんに乾杯、薄荷水で。ところで……今夜は冷えるね。
ええと、ううむ、チョコレット、君はかわいいね。そういえばぼくもアル中なんだ。ぼくと寝てくれ」
「は、はい? 下田くん大丈夫? 酔っ払ってるの?」
「酔っ払ってなど、いません。いたって本気だ。本気で全力のパロールだよ、チョコレット」
「はは、やっぱり酔ってる。顔真っ赤だよ」


126 :No.22 たるほ 2/3 ◇hemq0QmgO2:07/11/27 09:44:22 ID:vO2WuSwR
 たしかに、ぼくは酔っている。昔から酒に弱いのだ。アル中だなんて、もちろん嘘である。
春野は強い。強い女の子だ。強くて甘い、チョコレットだ。お月さまより強い。愛してるよ……。

 全身が重い。特に頭が、鉄球のように重い。ぼくはどこにいるのだ。がたがた揺られて、気分が悪い。
「あ、下田くん、寝てていいよ。今、タクシーで私のアパートに向かってるから」
 マイスイートチョコレットの声がする。「とりあえずアパートでやりまくろう」、だって?
「ああ、やりまくろう。猿か、それよりもっと原始的に、文学的に。お月さまに見せつけてやろう」
「ふふ、ホントにお酒弱いんだね。運転手さん、ごめんなさい」
「いえいえ、大丈夫です。もし吐きそうになったら車止めますから、言ってくださいね」
 チョコレットはくすくす笑う。なんて甘い匂いだ。かまわず、タクシーは夜を撫で斬る。
街道を行く車の、あるいは街の灯りが流れては消える。頭痛と、快楽の予感だけを残して。

「本当に、申し訳ありませんです」
「いいよいいよ、コーヒー飲む?」
「はい、いただきます」
 春野の部屋に文字通り転がり込んだぼくは数杯の水を飲み、直後に胃の中身を便器に盛大にぶちまけて
少しばかり奇妙な官能に浸ると、さらにがぶがぶと水を飲んで、ようやくチョコレット現象に区切りをつけた。
 しかしまったく、酒は恐ろしい。徳利で二本ほどしか飲んでいないのに、あれほどしたたかに
文学的虚構を遊べてしまうとは。文学者たちがこぞってアル中になりたがるわけだ。
「入ったよ、ブラックでいい?」
 ありがとう、と言ってマグカップを受け取った。紺の肌にミルク色の三日月が描かれている。
「しっかしまあ、下田くんはヘンタイだねえ。普段からあんなことばっか考えてるの?
薄荷水とか、チョコレットとか、お月さまとか。私は正直、ちょっとびびりましたよ」
 テーブルの向かいで春野はけたけた笑う。合わせて、右手に握ったカップの中のコーヒーが揺れる。
「あれは、足穂の……」
「ははっ、わかってるわかってる。ただあんまり面白いからさあ、
『寝てくれ』とか『愛してるよ』とか『やりまくろう』とか、ホントびっくりしたよ」
 口に出した記憶がない言葉まで、全てだだ漏れである。まったく、びっくりだよなあ。
ぼくも笑う。もはや恥ずかしいとすら思えない。底が抜けてしまったようだ。ただ笑うしかない。


127 :No.22 たるほ 3/3 ◇hemq0QmgO2:07/11/27 09:44:45 ID:vO2WuSwR
「ところで」
 二人でしこたま笑った後、ガラスの灰皿の中の煙草をいじくりながら春野が言った。
「どこまで本気だったの?」
 ひんやりとした風がカーテンを揺らして、春野の髪をさらりと撫でつけた。ほんの少しだけ、戦慄する。
「どこまでって、全部本気だよ」
 言い終えるや否や、ぼくは自分でも信じられないほどすばやく身を乗り出してキスをした。
三日月のマグカップが倒れて、コーヒーの残りがカーペットへこぼれ落ちる。かまいもしない。
猿よりも何よりも原始的に、文学的になり、テーブルごとひっくり返してでたらめにだきしめた。

「しりとりしない?」枕元で春野がささやく。
「いいよ」
「じゃあ私からね、しりとり」
「リチャード」
「どんぐり」
「リチャーズ」
「ずんぐりむっくり」
「リチャードソン、あ」
「ふふ、私の勝ち」
「じゃあ、もう一回」
 ぼくはまたのしかかる。春野が笑う。「マイ、スイート、チョコレット」、粘っこく、
甘ったるい声でささやく。転がったマグカップのお月さまが遠慮がちに、ぼんやりと光っている。(了)



BACK−雑木林のおともだち◆4FsjozWCuk  |  INDEXへ  |  NEXT−うんこ◆fXqZWh/VCo