【 背中 】
◆5GkjU9JaiQ




50 :No.13 背中 1/3 ◆5GkjU9JaiQ :07/11/25 14:03:53 ID:hqIeW6wq
 走る、走る、走る。
肺が熱い。足が重い。呼吸に掠れたうめきが混じる。
それでも、走る。――走る。
俺って、こんな格好悪かったっけな。曇り空が、やけに鬱陶しい。風が冷たい。そりゃ冬だもんな。
くそ、汗が目に入りやがった。ぎゃあぎゃあ周りがうるせえ。黙って見てろ。
あれ、そういや、俺、走る時、こんな、考え事、してたっけ――
無意識の内に、あの背中を探していた。
視界の左に、青いユニフォームが見えた。心臓が、大きく跳ね上がる。
誰だ。駄目だ。やめろ。
肺が限界を訴える。足が上がらない。悲鳴に似た音が、喉で鳴り始める。
その青いユニフォームの姿がはっきりと視界に割り込んできた時、自分の中で何かがぽきんと折れるのが分かった。

「入江」
 ロッカーの前で汗を拭いていると、コーチが部室の入口に立っていた。
「はい」
「何で、棄権した。別に体調が悪そうには見えないが」
 無言で視線をロッカーに移す。
「あの原島が居なきゃ、張り合いがないか?」
 原島。中学時代から、ずっと競り続けてきた相手。
――正確には、常に俺の前を走っていた男。
「……違います」
 掠れた声で答える。顔を露骨に背ける。
コーチは間を置き、溜め息混じりに続ける。
「ともかく、気持ちに整理をつけろ。もう原島はトラックに居ないんだ」

51 :No.13 背中 2/3 ◆5GkjU9JaiQ :07/11/25 14:04:15 ID:hqIeW6wq
 前は単純だった。原島が一番早く走っていれば良かった。つまり、俺はただ原島の背中を追い掛けていれば良かった。
けれど、原島はもう走れない。だから、俺が一番早く走らなければならない。
走るのが息苦しくなったのは、多分それからだろう。原島の居ないトラックで、俺は何を追えば良いのだろう。

「だっせぇ」
 ケタケタと笑いながら、背後で原島が言った。俺は黙ったまま、うつ向いて手摺を持っていた。
「もう辞めちまえよ。リタイアなんて、最低じゃねえか」
「それもいいかもな」
 そう答えると、車椅子がコンクリートをからからと踏みしめる音が聞こえた。
眼下で、救急車がサイレンを鳴らして発車して行った。
原島は俺の横に並んで、こちらを挑発的に見上げる。
「マジで言ってんの?だったら死んだ方がいいよ、お前」
 俺は原島に視線を向ける。
「だせぇつってんだよ。半端な走りしか出来ねぇ癖に、俺と肩並べた気になりやがって」
 反射的に、車椅子を思いきり蹴飛ばしていた。
倒れた車椅子の車輪が、からからと無機質な音を立てている。
原島は仰向けに倒れ、しかしそれでもこちらを見てニヤついていた。
「一生、俺のケツを追っかけてろよ」
 体が沸騰したように熱くなった。
馬乗りに飛び付き、殴る。何度も殴る。
しかし幾ら殴っても、原島は馬鹿みたいに笑っていた。構わず俺は、殴り続けていた。
――気付くと、俺は騒ぎを聞き付けたらしい巨躯の看護師に地面に抑えつけられていた。
「甘えてんなよ、入江」
 空を仰いだまま、原島が震える声で言った。
遠くで、サイレンが鳴り続けていた。
「お前は、まだ走れるじゃねえか」

52 :No.13 背中 3/3 ◆5GkjU9JaiQ :07/11/25 14:04:32 ID:hqIeW6wq
シューズの紐を固く結び、立ち上がる。
冬の夜の静謐な空気がグラウンドに張りつめていた。
目を閉じ、深呼吸して思い描く。今はもうない、あの背中を。
結局、抜けなかった。いや、抜こうともしてなかったのかもしれない。
思い描く背中は、もう現実にはない。空想は現実に結びつかない。
だけど、俺は走るしかない。
背中はそこにある。だから、俺はそれに喰いついていかなければならない。
目を開き、白い息を吐き出しきる。そしてゆっくりと、走り始める。
空想となった背中の向こうに、辿り着く為に。

―了―



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