【 箱の中 】
◆23s5J0VAck




41 :No.11 箱の中 1/4 ◇23s5J0VAck:07/11/25 12:37:52 ID:Qg8CW8No
「おはよう、友香」
 牧人くんのその言葉で、一日が始まる。
 ドアの閉まる音と、彼がこちらへと歩み寄ってくる音。私の目は光を失ってしまってい
るから、牧人くんの姿を見ることはできないけれど、聞こえる音と感じる空気で、私はそ
れを知ることができた。
 私は牧人くんに返事をしようとしたけれど、私の喉は僅かも動いてくれなかった。
 私が体の自由を失ったのは、今から大体一ヶ月ほど前のことだった。全く動くことが出
来なくなった私は、それ以来ベッドの上で寝たきりの状態になっている。そんな私を、夫
の牧人くんは毎日看てくれていた。
 今朝も、牧人くんは私が横になっているベッドの縁に腰を下ろして、私の頭を優しく撫
でてくれた。体を動かすことはできないけど、彼の優しい手のひらを感じることはできた。
 しばらく、無言の時間が過ぎる。
 その間、私はベッドの上でただ仰向けになっているだけだった。はたから見ると、私は
ただの命の無い人形に見えるかもしれない。けれど、そんな私を、牧人くんは温かく見守っ
てくれていた。二人の間に漂う雰囲気が、それを物語っていた。
 毎朝の静かな三十分。それが終わると、牧人くんはもう一度私の頭をゆっくりと撫でて、
ベッドから腰を上げた。そして、「会社に行ってくるね」そう言って、彼は部屋から出て
行った。

42 :No.11 箱の中 2/4 ◇23s5J0VAck:07/11/25 12:38:29 ID:Qg8CW8No
扉が開く音。それに合わせて、牧人くんの声がした。
「ただいま、友香」
 そして、朝と同じようにベッドの縁に牧人くんが座る。
「今日は、仕事が多くて大変だったよ。真田先輩が、仕事を押し付けてきてさ――」
 朝とは違って、夜の牧人くんはおしゃべりになる。今日あったことを、私に語りかけて
くれる。通勤中にあったことや、職場での出来事。誰とどんな話をして、どう感じたのか。
相槌すら打つことのできない私に、それでも楽しそうに話してくれる。
 話をしている間、牧人くんはずっと私の手を握っていた。それなのに、私はその手を握
り返すことすらもできない。寂しさの募る、一方通行な会話。
 だからせめて想像の中だけでもいいからと、私は心の中で牧人くんと話をする。
「――それでようやく、山田のやつ自分の勘違いに気付いてさ、慌てて課長に謝りに行っ
たんだよ」
(山田さんはおっちょこちょいだからね)
「あいつ、ちょっと天然入ってるからな」
(そうだよね。よくぼーっとしてることがあるよね)
「山田の天然エピソード、話したことあったっけ? 缶コーヒーのやつ」
(それなら聞いたことあるよ。コーヒーとコーラを間違えたやつだよね)
「話したことあったな。あ、でもスキーに行った時の話はしてないよな」
(それは知らない。聞かせて牧人くん)
 ベッドから離れられなくなってからの私の楽しみは、牧人くんのする毎日のお話だけだっ
た。けど、このささやかな時間は永遠には続かない。
 その日、一日であったことを全て語りつくすと、牧人くんは静かに私の頭に手を乗せて
言う。
「また明日な、友香。おやすみ」
 おやすみなさい、牧人くん。
 扉が閉まる音と共に、私の一日が終わった。

43 :No.11 箱の中 3/4 ◇23s5J0VAck:07/11/25 12:38:50 ID:Qg8CW8No
 仕事が終わり、牧人は家に帰ってきた。玄関を抜けてまず初めに彼が行く場所は、手を
洗うための洗面所でも、夕飯を作るための台所でもなく、彼の妻が待つ寝室だった。
 扉を開く。部屋の中は暗かったが、友香は朝と同じように、ベッドの上で横になってい
た。
「ただいま、友香」
 牧人が部屋の電気を点けると、暗闇に包まれていた友香の体がはっきりと確認できるよ
うになった。牧人は彼女の眠るベッドの縁に腰を下ろした。すると、彼の体重でベッドが
歪み、それに合わせて友香の体が僅かに動いた。
 友香の顔を見つめ、牧人は今日一日の出来事を語りだす。
 体が動かなくなって、一日中この部屋で過ごさなければならなくなった友香は、きっと
退屈に違いない。そう考えた牧人が友香にしてやれる唯一のことが、これだった。体は動
かなくなっているけど、きっと耳は聞こえているはず。だから、自分が面白い話をしてや
れば、友香は喜んでくれる。
 少しでも友香に楽しい話がしてやれるように、牧人は一日に全神経を集中させた。朝、
家を出て駅へ向かう道すがら。電車の中。会社での同僚の会話。あらゆることを詳細に観
察し、そこから友香が好きそうな笑い話を掬い上げる。相当な精神力と体力が必要になる
作業だったが、友香のためにと、牧人はこの作業を一ヶ月もの間続けていた。
 今日もまた、妻のために仕入れたお話を、牧人は語りだす。
 ベッドの上の友香は、どんなに愉快な話をしても笑ってくれることはない。返事や相槌
もしてくれない。けれど、友香は喜んでくれているはず。そう信じて――いや、確信して、
牧人は一日の出来事を話した。

44 :No.11 箱の中 4/4 ◇23s5J0VAck:07/11/25 12:39:14 ID:Qg8CW8No
 漂う腐臭は気にならない。落ち窪んだ妻の眼窩がたたえている薄闇も、牧人の目には映
らない。腐敗した妻の左手を、構わず牧人は握っていた。
 全てを語り終えた牧人は、立ち上がり妻の体を見下ろした。腐朽した妻の体は、現実か
ら四角く切り取られた牧人の脳内には映し出されていなかった。
「おやすみ、友香」
 部屋に蓋がされ、牧人の一日が終わった。

おわり



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