【 珊瑚礁 】
◆D8MoDpzBRE




28 :No.08 珊瑚礁 1/4 ◇D8MoDpzBRE:07/11/24 23:42:03 ID:8dkNVcKM
 脳は融けはじめています。

 夏です。漂ってくるのは焦げた砂浜の匂いです。太陽光は一切の遮蔽を受けません。一直線にこの砂浜を焦が
します。水分を蒸気に変えてしまいます。当然ながら、汗も皮膚にこびりつく塩分だけを残して跡形もありません。
 水平線が広がります。文字通り、平衡感覚に対する、垂直方向に対する絶対的な水平線です。地球が球である
ことを思い出して下さい。球体に対して接線を引くように、水平線は伸びています。
 思い出です。恐らく小学生だったころの記憶だと思います。夏の海。再生されるイメージが鮮烈に甦ります。一切
の余計な要素を無意識の内に排除して、私は夏と海だけをスクリーンに投影しました。他の誰も映ってはいません。
私は今、夏の海辺に佇む一人の少女です。
 ビーチサンダルを履いていました。私の足の底を守るそれは、細やかに再現されます。こびりつく砂の一粒一粒
を余さずに。足の裏の灼けるような感触も、忘れてはいません。
 愛蔵していたレコードに――今や使われなくなった楽曲再生用の黒い円盤のことですが――数十年ぶりに針を
かける、あの感覚に似ています。古い音質で再生される懐かしいメロディを、私は古い記憶のスクリーンと重ねて
いるのです。
 そして、海に向かって走り出します。ああ、あの時のはしゃいだ気持ちまでもが甦るようです! 勢いよく海に飛
び込みます。地球表層を巡る水流は、肌に心地のいい温度です。夏だからと言ってお湯になったりはしません。
 波が迫ってきます。白くて高い波が。小さな私の身体ではとても受け止められません。あっという間に呑まれてし
まいます。
 あっ。
 五感から遮断されます。イメージのスクリーンも肌の感触も、全て一瞬のうちに書き換えられます。手品のように。
 黒い視界。目を瞑っているのでしょう。あるいは、一緒に鼻も押さえていたかも知れません。一足遅く、海水が鼻
腔に侵入するのを許して、つんと痛みを伴った匂いを嗅いでしまいます。
 もがきます。
 不安が意識の表面に浮上します。助けて、と言いたかったのかも知れません。海中でしたから、無理です。言葉
は泡になります。肺からありったけの空気を吐き出して、私は空っぽになりました。使い果たします。
 楽しい思い出が暗転するシーンです。
 潮流に弄ばれて木の葉のように舞うのです。くるくる、くるくると。深海のダンスなのでしょうか? 違います。まだ
まだ深海とは距離があるようです。もちろん、行きたいわけなどありません。
 しかしながら、私はどんどん流されていきます。遠海へと連れ去られるように。ジタバタしても無駄でした。手足の
動きは悲しいダンスとなります。空虚なステップを踏みます。

29 :No.08 珊瑚礁 2/4 ◇D8MoDpzBRE:07/11/24 23:42:27 ID:8dkNVcKM
 いやだ……苦しいよ……。
 もはや泡すら吐き出すことが出来ません。
 しかし、そこでもう一度、重力の法則が書き換えられます。
 助かるのです。
 ひょいと私を持ち上げる重力。逞しい救世主を予感します。いや、もっと近しい存在です。懐かしさも同居してい
ます。
 私の背面から私の両脇を抱え上げるようにしていましたから、その人の顔を見ることは適いません。しかしながら、
私はその存在を知っています。安心しきっています。私は、堰を切ったように泣き出します。心の底から安堵して。
 お父さん。
 あなたはとうに、懐かしい存在になってしまいました。

 団欒の場面です。食卓を囲んで。料理の腕を振るうのはお母さん。一人娘だった私は、大切に育てられてきまし
た。感謝の思い出です。
 貪ります。幼いころのことですから、当然食欲は旺盛です。今思えば、ありがとうの気持ちが少し欠けていたかも
知れません。いい足りなかった言葉を今、私は反芻しています。
 ありがとう。
 一定の期間、食事は与えられるものでした。空腹を満たしてくれる愛情に寄りかかって、依存して、全身全霊を無
邪気に預けていたのです。
 私の人生。成長。人間としての成長は、ゆっくりでしたが確実に進んでいたようです。
 中学生にもなると、私は変わります。いえ、蓄積された変化が顕在化する、と言った方が適切かも知れません。
 私は興味を持ったのです。母の持っていた魔法に。部屋の片付けや洗濯などは嫌いでしたが、私は料理だけは
好きになれる気がしたのです。料理をしたいと思ったのです。
 初めは、人を養おうとか誰かの役に立とうとか、そういう発想はありませんでした。ただ、魅了されていたのです。
魔術に。私の活力の源となっていた料理に、ただひたすら憧れて、蠱惑されていたのでしょう。
 だから、嬉しかった。
 母から教わった料理を作れるようになったことは、私の人生における最も大きな変化の一つでした。得意料理の
レパートリーが増えるたびに、感情は昂揚感で満たされていきます。
 そして、その中でも私を最高に驚喜させたもの。それは、隠し味の技術です。
 隠し味。それは私と母との間だけで交わされた秘密でした。そう思えたのです。料理を魔法たらしめている裏では、
隠し味という秘術がなされていた!

30 :No.08 珊瑚礁 3/4 ◇D8MoDpzBRE:07/11/24 23:42:56 ID:8dkNVcKM
 私は魔法の虜になります。時間をかけて、魔法にかかる側から魔法をかける側へ。
 時間は加速します。
 やがて私は人生の伴侶を得ます。料理を振る舞います。料理は魔法であり、愛情です。
 苦手だった掃除、洗濯もこなします。
 子供を得ます。女の子です。今までの私の人生が、鏡写しになります。役割を反転して。貪っていた愛情を、分け
与える側に立ちます。尽きぬ愛情を、私は生み出さなければなりません。
 永遠の歯車の中で。

 視点が変わります。私は閉ざされています。
 私は、一人の老人と向かい合っています。ベッドの中で物言わぬ老人と。
 痩せていて、穏やかな顔つきです。右の鼻の穴からは栄養の管が入っています。定期的に栄養剤が注入されて
いるようです。味は舌の上を転がらずに、喉元を通り抜けていくのです。
 長い時間を無言で過ごします。瞬きは、これはします。本能ですから。しかし、それ以外の動作は見られません。
 何を思って過ごしているのでしょうか? 表情からは読み取れません。過去を思い出しているのかも知れません
し、未来を思い描いているのかも知れません。はたまた、現在とも過去とも未来とも繋がらない別次元に思念を馳
せているのかも知れません。
 彼もまた、閉ざされているのでしょう。
 暖かい部屋です。病室です。時折、看護師が通り過ぎます。
 私の名前が呼ばれます。返事をしなきゃ。そう思います。いつだってそうは思うのです。
 出来ません。閉ざされているから。
 私もまた、ベッドに横たわっています。暖かい毛布に包まれて、静寂を貫いています。
 時間の終着点は、今現在です。細やかな漸進を続ける時間に合わせて、進みます。その点に疑問はありません。
 ただ、私は感じ取っています。漸進する現在は近いうちに、停止する現在に変わるでしょう。私の中で。永遠の停
止と、別れです。懐かしい人たちとの再会かも知れませんが。
 面会です。一人娘が、孫を連れてきました。小学生の孫が三人います。
 娘――孫たちにとってはお母さんですが――に促されて、孫たちは私の手を取ります。小さな手です。それらが、
私の骨張った手を握ります。柔らかく。私は軽く頷き返します。これが精一杯なのです。
 日が暮れて、娘たちが帰ります。
 私は一人、残されます。夜の病棟に。安眠はありません。いつ眠っているかの自覚は失われています。同時に、
現実と非現実との境界もまた曖昧です。ただ繰り返されるのです。

31 :No.08 珊瑚礁 4/4 ◇D8MoDpzBRE:07/11/24 23:43:23 ID:8dkNVcKM
 輪廻。未来の広がりは意識されません。予感は、もう長いこと訪れません。
 過去をばかり貪って、私はここに縛り付けられています。実を言うと、記憶もかなり侵食されています。だから、思
い出せない過去も沢山あります。
 脳は、少しずつ融けはじめています。地底の対流のように。ゆっくりと神経細胞を侵しながら、混ぜこぜになって
いくのです。
 最後の記憶。ついさっきのことです。娘との会話。孫たちの自慢話でした。
 料理のこと。隠し味のこと。器用な孫たちを、おばあちゃんは誇りに思います。
 眠りが訪れます。経験したことのない眠りが。深く穏やかな眠りです。
 身体が軽くなります。呪縛が解けるように。
 誰かが重力の法則を書き換えたのでしょう。懐かしい誰かが。

 潮の音が聞こえます。
 深海のダンスを踊りましょう。



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