【 雲の上に行く夢 】
◆kP2iJ1lvqM




19 :No.06 雲の上に行く夢 1/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/11/24 22:44:58 ID:8dkNVcKM
 小学校五、六年の時の担任は漢字が好きだった。
 猪瀬先生は定年間近の老教師だった。先生はよく僕たちに、言葉の意味や成り立ちについて、
他の教科なんてそっちのけで教えてくれた。
 黒板に台形が描かれていたので、その時は算数の授業だったように思う。先生は書かれてい
た数式を惜しげもなく消し、歪んだ四角形の横に「空想」という文字を大きく板書した。
「意味がわかる人は手を上げなさい」
 一番早く手を上げた僕が指名された。
「現実ではありえない想像のことです」得意満面、立ち上がって僕は答える。国語は得意科目
だったので、こういう時の僕は水を得た魚だ。
「君は真面目だな」先生は笑って言った。「先生より先生だよ」と。
 真面目な僕は、素直に顔を赤らめて着席した。
「だが」と彼は続ける。「僕の意見はちょっと違う。空想っていうのは想像が空を飛ぶことな
んだ」
「空を飛ぶ?」教室が首をかしげて、生徒たち全員が片側に寄せられてしまうのではないかと
心配になるくらい、おかしな説明だった。
「そうだ。羽が生えてぱたぱた飛んでいく」
「嘘を教えないでください」むきになって先生を糾弾した。そんなことは辞書には書かれてい
ないじゃないか。
「嘘じゃないよ。そのうちわかる。今わからないのは、きっと君たちには当たり前すぎるせい
だ」余裕綽々、といった態度だ。
 先生の言うことが理解できず、教室の生徒は隣の顔を見やって「困ったね」という顔をした。
 こんなふうに、先生は独自の解釈で僕たちを困らせることがあった。が、僕は漢字の授業が
嫌いではなかった。後でよくよく考えてみると「面白いな」と思うことがあったからだ。
 ◇
 東京駅から静岡行きの新幹線に乗り込み、席に座って一息ついた時、猪瀬先生の記憶が頭を
よぎった。なぜか真っ先に頭に浮かんだのが唐突に始まる国語の授業だった。微笑ましい思い
出だ。
 あれからずいぶん時が過ぎた。故郷へ帰るのも、先生の顔を見るのも久しぶりだった。無沙
汰をして申し訳ないという思いと、懐かしい気持ちとが混ざり合い、どんな表情をしていいか
誰かに聞きたくなった。

20 :No.06 雲の上に行く夢 2/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/11/24 22:45:31 ID:8dkNVcKM
 スーツの上着を脱いでネクタイを緩める。前の座席の背面に網かごがついていて、その中に
旅行雑誌が収まっていた。手にとってぱらぱらとめくる。温泉旅行の特集を読んでいると、耳
障りな声が聞こえた。
 通路を挟んで隣の席に大学生ふうのカップルが並んで腰掛けていた。なにやら言い争いをし
ていて、声をひそめていてもこちらまで届いてくる。
「だから言ったじゃない、静岡は雨よ。やっぱり草津にしておけば良かったのに。素敵なホテ
ルが雑誌に載ってたわ」女の声だ。
「しょうがないだろ。あのホテルは満室で予約がとれなかったんだから。豪華なホテルじゃな
いと嫌だって言ったのは、君じゃないか」
 どうやら二人は、雑誌の中から宿泊施設の内装などを見て旅行先を決めたらしい。第一候補
にあがった所は予約がとれず、ホテルごと行き先を変えた。ところがそちらは雨で、女の方は
機嫌が悪いようだ。
 そんな大ざっぱな決め方をするからだ、と僕は思った。
 ベルが鳴った後で身体が揺れだした。雑誌を網に戻して鞄から問題集を取り出す。遠出の際
に持ち歩くのがふさわしいとは思えない、いかめしくて分厚い本だ。しかし試験のために読ん
でおかなくてはならない。
 隣ではまだ口喧嘩が続いていた。本を開いても視点が定まらなかった。僕は目を閉じ、浮か
んでくる雑念に身を任せようと思った。
 ◇
 駅に着くと猪瀬先生が僕を待っていた。「草津で一番健康に良い温泉を知ってるんだ」とい
う言葉を信じ、彼の後に続いてタクシーに乗り込んだ。
「仕事は、どうだい。小学校の教師になったんだろ」昔と変わらずはっきり通る声で、先生が
僕に聞いた。
「ええまあ、大変です。今も休み明けのテストを作るのに大わらわで。先生がこんなに苦労な
さっていたなんて、全然知らなかった」参考例題集の入った鞄を僕は見る。
「新人のうちは、寝る暇もない」先生が笑う。
「まったく」僕も笑った。
 旅館はしなびた感じの古い建物だった。決して悪い意味でなく、歴史を偲ばせる心地よさが
ある。着いて早々に二人で浴衣に着替え、露天風呂に向かった。

21 :No.06 雲の上に行く夢 3/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/11/24 22:46:00 ID:8dkNVcKM
「雪になりそうだ」湯船につかりながら先生は言った。
 白い息を吐きつつ僕も上を見る。籐を編んだ柵が、灰色の曇天を囲んでいる。
「しかし大きくなった。君が大人になるなんて思いもよらなかった」感慨深げに先生は言った。
「長く教師をやってると、子供が成長したら大人になるってのは悪い冗談みたいに思えてくる。
子供の状態でやってきて、子供のまんま出て行くばかりだからな。僕は空想上の生き物を相手に
していたんじゃないかって、今でも不安になるんだよ」
 先生は悪い冗談のように告白した。たまに訪ねてくる卒業生がいても、ふとそんな気持ちに
なるのかもしれない。
 僕は『キングダム』という、デンマークかどこかのドラマを思い出していた。その中に、体
も心も大人の状態で生まれる不気味な赤ん坊が出てくる。
「大人が大人として生まれてきたら、ホラーですよ」
 二人で笑った。
 露天風呂に他の客はいなかったので、僕は臆面もなく足を伸ばした。こんなにゆったりした
気分になれたのはいつ以来だろう。最近は忙しくて息つく暇もなかった。
「何か悩みがあるんじゃないか」突然、先生が聞いてきた。
 どうしてわかるんですかと聞くと、みんな大抵悩んでるよと先生は笑う。顔に出ていたとし
たら申し訳ないな、と思った。せっかくの旅行なのに。それとも取れた疲れが湯船に浮かんで
いたのか。こいつめ、と白く濁ったお湯を睨む。
「実は」観念して僕は切り出した。「ネグレクトってご存知ですか」
「知りたくなかったけどね。ご存知だよ」先生の顔が歪んだ。
 育児放棄。受け持ちのクラスの生徒にそれらしき虐待を受けている女の子がいた。今までは
元気に体育の授業もこなしていたのに、最近急にやせ細ってきたのだ。どうかしたかと心配に
なり家に電話をした。すると母親が出て「拒食症になった」と言った。本人は美味しそうに
給食を食べているので、嘘だと丸わかりだ。
「その子は何て?」
「ダイエット中と」親をかばっているに違いなかった。
「すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、かつ、育成されるよう努めなければなら
ない」児童福祉法第一条の例文を、先生は重々しく吐き出した。「法律違反だ。重罪だ」

22 :No.06 雲の上に行く夢 4/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/11/24 22:46:24 ID:8dkNVcKM
「ええ」僕は頷く。「こんな時、僕に何ができるんでしょう」
「児童相談所に連絡しなさい」即答が返ってくる。
「しました。けど健康状態はそれほどひどく見えないし、本人が虐待を否定していてはどうに
もならないと、調べた相談員に言われました」
 僕はそれとなく自分のぶんの給食を彼女に分けてやっていた。それがいけなかったのだとし
たら、皮肉だ。
「マッチ売りの少女」先生が突然、言った。
「は?」
「いや。マッチ売りの少女みたいに、想像したら好きな食べ物が出てきたらいいだろうなあって
ね。こう」先生はマッチを擦る仕草をした。
「はあ。そうですね」訝しく思いながら僕は同意する。
「残念ながらそんなマッチはない」
「ないですよ」
「しかし、想像力は大切だよ。今は駄目でも明日は違う。そうやって生きていける。生きてい
ればいつか実現する可能性はある」
 なるほど、正しい考えだと思った。
「教師が子供に教えることの一つだと、僕は勝手に思ってる」
 何だか道が開けた気がした。打つ手が見つかるまでは、精神面で支えてやるべきなのだ。僕
にだってまだまだやれることはあるじゃないか。
 お礼の言葉を繰り返すうちに、頭の中で閃くものがあった。
「国語の授業」僕は言う。「もしかしてあの授業は、想像力を養うためだったんですか」
「さあ。忘れたな。そうだった気もする」先生はとぼけた顔で言った。「ただ、漢字のテスト
の成績が、うちのクラスが学年で最下位だったのは確かだ。何とか漢字を好きになってもらお
うと、苦心の策を講じる教師がいてもおかしくはない」
 なるほど参考になりますと僕は言い、また二人で笑った。

23 :No.06 雲の上に行く夢 5/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/11/24 22:46:52 ID:8dkNVcKM
 ◇
「ちょっと、いいですか」
 声をかけられてはっとした。僕は窓を見ていた。雨の滴がガラスに当たっている。新幹線が
静岡に入ったのだろう。振り向くとさっきのカップルが僕の横に立っていた。
 網かごの旅行雑誌を指差して女が僕に言った。
「その本、私たちのなんです。最初に間違えてこの席に座った後、忘れちゃって。返してもら
っていいですか」
 ぼんやりしながら「ああ」と言って雑誌を渡してやった。渡す時に中が開き、雪に囲まれた
古い旅館の写真が目に入る。読んでいて一番気に入った所だった。豪華なホテルの写真を見な
がらもう一戦交えるつもりなのか、雑誌を持って二人は自分の席へ戻っていく。
 膝の上に児童福祉論の問題集が置かれ、事例が載った頁が開かれていた。食事を与えられな
い女の子の話だ。虐待を発見した場合に取るべき適切な行動は何か問題は聞いている。
 僕が通う福祉専門学校は、夏休みが明けてから試験を行う授業が多い。休暇期間をバイトに
明け暮れた身としては移動中でも気が抜けない、はずだったのだが。
 本を閉じて時計を見ると、午後四時だった。東京を発ってから一時間が過ぎていた。長い時
間我を失っていたことに気づき、ふう、と息を吐いた。運動をした後のような疲れと充足感が
ある。窓を見て緩んだ黒ネクタイを締めなおす。
 温泉か、と僕は思った。先生と行けたらどんなに良かったか。
 ここ数年、先生は入退院を繰り返していた。一年前に見舞いに行った時は無数の管が体に
刺さっていて、ろくに話もできなかった。相談したいことがたくさんあった。何か悩みがある
度、「先生ならこう言うだろう」と考える癖がついたのはそれからだ。
 雨が激しくなり水滴が窓を塗りつぶす。暗くなる気分を抑えるために白昼夢の教えを実行し
た。丸まった背中を見ると叩いて励ましたくなるようなものだ、と。
 それにしても、静岡行きの新幹線に乗りながら心は群馬の草津へ行ってしまうとは。あの
雑誌とカップルのせいだろうか。
「確かに空を飛びましたよ」と一人で笑う。
 猪瀬先生の通夜は七時からだった。
 さようなら。いつか想像の羽が伸びた時に、また。
 一足先に、心の中でお別れの挨拶をした。(了)



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