【 Cheers! 】
◆QIrxf/4SJM




135 名前:No.33 Cheers! 1/5 ◇QIrxf/4SJM[] 投稿日:07/11/19(月) 00:04:19 ID:0HdUPaCf
 俺は目を開けた。とてつもなく長い眠りから目覚めたのだ。
「お目覚めですか」男が俺を覗き込み、笑顔で言った。「おはようございます」
「ああ」と言って、俺は体を起こした。首をこりこりと鳴らして、伸びをする。何度も目をしばたたかせて、視界が本物であることを確認した。辺りはやけに無機質だが、悪くはない。
「どうぞ」男は丁寧にたたまれた服を差し出した。眠る前に俺が身につけていた服だ。
 俺はそれを着て、ジーンズのポケットにしまっていた指輪を取り出した。それは変わらずにきらきら光っている。俺の、唯一の財産だ。
「では、こちらへ」
「ああ」俺は指輪を右小指にはめて、男の後についていった。はじめは少し足が浮いているような感覚があったが、それもすぐに慣れた。バクテリアの化石がこびりついた足の裏は、間違いなく俺にくっついている。靴は、俺の履き慣らしたブーツであり、時代遅れの紐長靴だ。
 俺は小部屋に案内されて、男と向かい合って座った。よく見ると、彼は趣味でマドレーヌでも作っていそうな顔をしている。
「マドレーヌ」俺は言った。
 男が首をかしげる。これはマフィン。
「なんでもないさ。それよりも、早く外に出たいんだ」
「ええ、すべては終わっていますよ。これからのことに、不安はありませんか?」
「無いよ。大切なことは夢の中で全部教わった。幸い、俺には財産がある」
 やたらと無表情で、フラットな体つきをした女の人が、おそろしく可愛らしい声で淡々と説明してくれたのを覚えている。彼女はきっと、それが俺の夢であることを知っていたし、俺も自覚していた。
「それでは、これを渡しておきますよ」男はカードを差し出した。
 それは、俺の身分証らしかった。以前持っていた運転免許証と比べると、とても寂しいものだ。番号と、俺の名前だけが書いてある。
「じゃあ、世話になった」俺は身分証を受け取って、部屋を出た。彼には感謝している。
 歩いていると、やはり体が浮いているように感じた。俺の体内の八割を侵食した悪魔は、崇高なる無機質なエクソシストによって追い払われたのだ。
 施設を出て、久しぶりに外の空気を吸った。特に、感慨は無い。外は寒気がするほどに異様な常温に保たれており、風は吹いていなかった。何も無い、と感じる。
 一本道を歩き続けて、街に出た。そこは計算しつくされたかのような美で埋め尽くされていて、まぶしいほどに清潔だった。知らないビルがあり、謎のゲートがある。看板にはいろいろな記号がある。どれもこれも意味がわからない。
 どうせなにもわからないのだから、適当に歩き回って、それらしいところに身を置くことに決めていた。言葉は通じるのだからどうにでもなる。それが、俺の周到な無計画だ。
 街を歩いている人間はひどく少なかった。車やら自転車やらの乗り物も走っていない。殆ど人の気配が無い。
 辺りの清潔さが、人間みたいな汚れたものを排除しているのかもしれない。あるいは、今日は日曜日で、誰もが部屋で寝ているのかもしれない。
 めしを食っている人間のいる建物は、すぐに見つかった。どんな時代でも、曲がり角でめしが食えるようになっているのは変わらないらしい。
 俺は中に入って、一番隅の席に座って、ウェイターを呼んだ。
「当店では、イメージで注文していただく形をとっております。補助にメニューをご用意させていただいておりますが、ご利用なさいますか?」
 俺が首を振ると、ウェイターは緑色のパネルを差し出した。真ん中あたりに、人差し指を置けと書いてある。
 ミート・スパゲッティを思い浮かべ、パネルに触れた。
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」と言って、ウェイターは下がっていった。
 座っているテーブルはおそらく四人用だろう。コンパクトに食べようと努力する人間が現れなかった、それだけのことだ。

136 名前:No.33 Cheers! 2/5 ◇QIrxf/4SJM[] 投稿日:07/11/19(月) 00:04:39 ID:0HdUPaCf
 辺りを見回す。ここは温かみの無い銀色をした壁に囲まれていて、椅子やらテーブルやらは全部白い。シミ一つ見られなかった。赤を足せば、コーラのボトルみたいになる。
「やあ、そこのお兄さん。やけにレトロスペクティヴな格好をしているじゃないか」
 俺はハンチングを被り、セーターの首元から出ている襟にボウタイをしていた。シューカットの青いジーンズを履いている。
 馴れ馴れしく声をかけてきた男は、俺の隣に腰掛けた。
「あんたこそ、セルリアンブルーのデコレーションケーキみたいな服装だな」と俺は言い返した。
 彼の服には自然さというものが欠けているのだ。上半身に羽織っているものはウェットスーツのような密着した流線型であり、肩には理解不能の赤い突起がついている。くだらない疑似科学雑誌に載るような、馬鹿げた宇宙人に似ている。
「言っている意味がよくわからないな。君はいかれているのか? それとも、ヒッピーなのか?」
「ヒッピーってのは俺が生まれるずっと昔に流行したよ。マリファナを吸って、LSDを噛むんだ。つまりは、そんなクズの集まりだった」
「わかったよ。君はアーカイークだ。目覚めて間もない。そうだろう?」
「そのとおりだ」
「なるほど、いい時代だろう? 今は」
「そうでもないな。汚れが決定的に欠けている。あまりに計算しつくされていて、数字に囲まれているような気分になる。気持ちが悪い」
「さすがアーカイーク。我々とは感じ方が違う。――ある程度仕方の無いものとしてあきらめるしかないだろうね。この星は完全に家畜化されたのさ。三百年ほど前にね。それも、とてつもなく単純な方法だった。一度滅ぼして作り直しただけ」
 俺の寝ている間に、母なる星が滅ぼされているとは考えもしなかった。豪快に朽ち果てていく様子は、少しだけ見てみたかった。
 ウェイターがやってきて、俺の目の前にミート・スパゲッティを置いた。一礼して、下がって行こうとする。
「あ、パネルを貸してくれよ」
 男の声に反応して、ウェイターは振り向き、パネルを差し出した。
 男がパネルに指で触れる。「んじゃ、よろしく」
「かしこまりました」ウェイターは、俺の時と同じような動作で下がっていった。
「チーズは無いのか?」
「チーズ?」男は言った。「なんだいそれは?」
「独特のにおいを放つ、おおむね口当たりの濃厚な食い物だ。雑菌まみれのドブネズミが好み、ついでに俺も好む」
「君は面白いことを言うな。チーズなんてものは、聞いたことも見たこともないね。アーカイークの食い物だろう。もちろん、僕自身が全知全能であるわけではないから、チーズの存在自体を否定することはできないが、物珍しいと言い切ることくらいは許されるはずだよ」
「おいおい、冗談はよしてくれ」
「冗談ではないよ。チーズというものは、要するに嗜好品だろう?」
「嗜好品なんてものは、人によって異なる。俺の親父はコーヒーを飲めない状況に陥って死んだ」
 俺は低くうなって、スパゲッティにフォークを突き刺した。ぐるぐる回して引っ張りあげる。湯気は立っていない。
「ものを食べるという行為自体が嗜好でしかないんだ。生きるために必要な栄養は、辺りを漂う空気を吸うだけで摂取できる。みなが平等に健康だ。いい時代だろう?」
 スパゲッティを口に運んだ。なんのことはない、普通のミート・スパゲッティだ。少し冷めている。
 とてもいい時代には思えなかった。時間は下流に行くほど腐っていって、上流の輝きを失っていくのだ。

137 名前:No.33 Cheers! 3/5 ◇QIrxf/4SJM[] 投稿日:07/11/19(月) 00:05:01 ID:0HdUPaCf
「ところで」男は言った。「君の誕生日はいつだい?」
「1987年、12月23日」
「六百年前! 君はアーカイークの中のアーカイークだね。プリミティヴだ」
 スパゲッティを飲み込んでも、何の感動も無かった。
「あんたはチーズを知らない。俺はチーズを知っている」
「プリミティヴの嗜好品だろう。少しばかり興味がある」
「何故、俺をヒッピーだと言った?」
「ヒッピーってのはクズだと君は言ったが、この時代でもまさにそうだ。君は一目でわかるくらいに、クズみたいだったのさ」
「ご名答」俺はにやりとした。クズが六百年の時を経て復活した。完璧な清潔に保たれているこの街を汚すために、俺は目覚めたのかもしれない。
「冗談だよ。ただ、先日、ヒッピーという概念について書かれた本を読んだのさ。紙媒体だぜ? 物好きだろう?」
 本というものが珍しい存在に成り果ててしまっているのだろう。チーズですら、絶滅してしまったのだ。
「あんたがチーズを知らないことで、俺はあんたを非常に軽蔑している」
「おお、それは残念。僕は君に興味深々だよ」
「チーズはいい。西の連中の古臭さが詰まっている」
 はじめにあんなものを食ったやつはいかれているとしか思えない。
「チーズか、面白いじゃないか」
 ウェイターが、男に巨大なケーキを運んできた。
「あんたは、甘党なのか?」
「まあね」男は言った。「コカインの入ったコークを飲んで、大量のケーキを食べるのが趣味なのさ」
「いかれてやがる」
 コーラもケーキも嗜好品としては文句ひとつ無いものだ。だが、量には限度がある。
「そんなことはない。食事は嗜好だ。好きなものを好きなときに食べて、好きなときに消化すればいい。僕は金を払って、嗜好品を買っているんだよ」
 食べ過ぎれば、それは肥満や糖尿病へとつながるはずだ。だが、それが無いとしたら、俺は好きなだけ食べるに違いない。別に、いかれてなんかない。
「解毒施設でもあるのか?」
「リセットする錠剤を呑むのさ」
 俺は納得した。
 それから、俺たちは無言で目の前に出されたものを口に運んだ。
 男は、白い塊を黒い液体を使って流し込んでいる。馬鹿みたいで気に入った。
 先に食べ終えた俺は、辺りを見回して時間を潰した。真っ赤な服を着た女が歩いて、対角線上の席に座った。コーラのラベルみたいな女だ。
「ところで、質屋はどこにあるか知らないか?」

138 名前:No.33 Cheers! 4/5 ◇QIrxf/4SJM[] 投稿日:07/11/19(月) 00:05:19 ID:0HdUPaCf
 男は口元拭った。「案内してあげるよ。今日は暇なんだ」

 俺は男に案内されて質屋に入り、指輪を金にかえた。
「これだけあれば、十年は遊んで暮らせるよ」男は言った。「六百年のヴィンテージは、恐ろしいものがあるね」
「たまには働くさ」
「それじゃあ、十五年はもつだろうね。少しうらやましいよ。君の身につけているものを何かひとつくれないか?」
「あんたは何をくれる?」
「居場所を提供しよう」
「交渉成立だ」
 俺は財布を丸ごと男にくれてやった。この時代では、財布なんて必要ないからだ。身分証の中に全ては記録される。そして、身分証は失くすことができない。投げても、精巧にできたブーメランのように戻ってくるのだ。
「これは?」
「財布だ。中には金が入っている。ひどく少ないが」
 男は少し興奮していた。六百年前のはした金が、嬉しくて堪らないのだろう。俺には理解のできないものだった。
 俺は男と一緒に街を歩き、いろいろと教えてもらった。
 看板の記号や、地下に広がる都市のこと。どれもこれも計算しつくされていたが、吐き気は催さなかった。慣れたのかもしれない。
 日が暮れてきたので、酒が飲みたくなった。
 男に案内されて入ったバーは、とても親近感が持てるものだった。雑然としていて、やかましい。
「気に入ると思ってね」
「落ち着くよ」
 カウンターに座った俺たちは、ビールとコカイン入りのレッド・アイを注文した。
 俺に差し出されたジョッキは、クリスタルの輝きを放ち、白い泡の下で黄金色が透き通っている。
 男は細長いレッド・アイのグラスを受け取って、レモンを絞った。
 俺たちは向き合ってにやりとした。
 ビールを口に運ぶ。悪くない。感動的な瞬間とはまさにこのことだ。
「イフの話をしよう」
「なんだい?」と男が言って、男はレッド・アイを一口飲んだ。
「俺がもし、体を機械化することを拒まずに、治癒睡眠をとったのだとしたら」
 何故拒んだのかと聞かれても、返答に困る。なんとなく、断ってしまったのだ。
「君はたぶん、四百年ほど前に目覚め、僕たちが出会うことは無かっただろうね」
「だが、チーズを存分に食えていた。そうだろう?」

139 名前:No.33 Cheers! 5/5 ◇QIrxf/4SJM[] 投稿日:07/11/19(月) 00:05:39 ID:0HdUPaCf
 ビールを飲んでいると、チーズをつまみたくなるのだ。六百年経っても消えなかった、俺の中のシミみたいなものだ。
「チーズが、四百年前にも存在していたとは限らないさ。君は、治癒睡眠を始めた時点で、チーズから切り離されてしまったのだとも考えられる」
「それは面白い考え方だ」と俺は言った。
 議論は白熱した。
「チーズを一口食べることによって、結論は出ると思うんだ」と男が言った。
「途方もない旅に出る必要がありそうだな。失われたチーズを取り戻す旅に」
 俺は、簡単なことじゃないぜと付け加えようとしてやめた。この時代に難しいものなんてないような気がしたからだ。
「敢えて、イメージの復元を使わないわけだね。確かに、パネルに触れてポンとチーズが出てきたら拍子抜けだよ」
 男は一瞬顔をしかめて、すぐに否定した。
「いや、僕はチーズを知らないんだ。それが本当にチーズであるかどうかを確かめる術がないし、そもそも、イメージが直接具現化されるわけじゃない」
「確かめたいなら、俺に食わせてみればいい。不味いものは、チーズとは認めないぜ」
「いつ旅に出る?」男が言った。
「明日からでもいいぜ」
「なら、そうしよう」
 俺たちは笑った。俺たちの話を聞いていたバーテンダーもくすくすと笑っていた。
「ねえ、さっきから何の話をしているの? 昼も、あなたたちのことを見たから、少し気になって」
 女は俺の隣に腰掛けた。どうやら、この時代には馴れ馴れしい人間が多いらしい。
「チーズと、その大いなる運命について」と俺は言った。
「やっぱり! チーズですって?」
 彼女は大きく胸元の開いた真っ赤なガウンを着ていた。ひどく扇情的だ。頬が少し上気しているのは、酒が回っている証拠なのだろう。店の雰囲気のせいで、もうコーラのラベルみたいには見えなかった。
「ああ、ビールにはチーズしかないんだ。俺は、チーズが食べたいんだよ」
「チーズについて聞かせてもらってもいいかしら。すごく、興味がわいたの。ちょうど、講義で歴史的な食べ物についてやったばかりなのよ」
「ああ、いいとも」俺はにやりとした。なかなか、いい女だ。気に入った。
 彼女は、持っていたスクリュー・ドライバーを一口飲んだ。
「じゃあ、僕は失礼するよ。この後、片付けなくちゃいけない仕事があるんだ」男は立ち上がり、俺にウィンクをして去っていった。
 二人だけになったところで、俺はビールを飲み干して、口を開いた。
「チーズってのは、口当たりが濃厚で――」
 女は爛々と目を輝かせて、俺の腕にしがみつき、胸を押し付けてくる。「それで、それで?」
 いい匂いがする。六百年ぶりだ。
 俺は、失われたチーズと親切な友人に、少しだけ感謝した。



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