【 胡椒の日 】
◆InwGZIAUcs




130 名前:No.32 胡椒の日 1/5 ◇InwGZIAUcs[] 投稿日:07/11/19(月) 00:00:25 ID:0HdUPaCf
 町外れに広がる深緑の森の中、長身痩躯の男が一人目を閉じ耳を澄ましていた。
 その右手には弓がそっと握られている。
 男はイメージの中で森と自分の境界線をゆっくりと消していく……まるで森と一心同体になるかのように。
 微風に撫でられた木々の葉が擦れ、森のざわめきとなる。
 それすら彼には自身の出来事のように感じられた。
 彼は森に溶け込み、森は彼の一部に、彼は森の一部となる。
 その中に違和感を探し出す。
(……右下、距離、約十)
 背にかけた矢筒から矢を一本抜き、弓に当てる。
 ゆっくりと目が開かれた。
 目いっぱい張った弦。弓が力強く弧を描く。
 心穏やかに。
 ゆっくりと。
 男は弦を解き放った。
 瞬間、大気を裂く高い音と共に矢は目標への最短距離を一気に駆け抜ける。
 一瞬後、響いた低く重い音が確かな手ごたえを彼に伝えた。
 目標は草むらの中、恐らく兎だろうと彼は見当をつける。
 事実、草むらの中には矢に射られた兎が一匹転がっていた。 
「すっごおおおい! さすがランス師匠ですね!」
 声は唐突に、後ろの木の陰から木霊した。
 途端張り詰めていた空気は緩み、男も息を深く吐く。
 腰までかかる明るい金髪の少女がひょっこり顔を出した。
「セイラ……見ていたのですか?」
 別段驚いた様子が無いのは、先ほど集中した時に彼女の存在も感じていたからに他ならない。
「はい!」
 太陽のように元気良く笑みを浮かべる少女。
 ランスと呼ばれた男は、細い目をさらに細め微笑み返す。
「今日は何でしょうか?」
「弟子の用と言えば教えを請う以外何がありますか?」
 流暢に、歌うようにもしくはからかうように、ケラケラ笑いながら彼女はそう言った。

131 名前:No.32 胡椒の日 2/5 ◇InwGZIAUcs[] 投稿日:07/11/19(月) 00:00:40 ID:0HdUPaCf
「……それだけでは無いのでしょう?」
 ランスの言葉にセイラは少し物憂げ目を伏せ、また笑顔を取り戻した。
「あはははー! まあまあとりあえず、一つご教授下さいな?」
「わかりました……ではいつも通り力を抜いて、弓を構えてください」
 セイラは手にした弓を握り、全身の筋肉を弛緩させる。
 無駄な力を一切無くし、自身のすべてを目標の為にだけ委ねる。
「セイラ……何度も言うけど、目で獲物を狙うんじゃないよ? 
空間を感じて、そこに矢という意識を潜り込ませるイメージが大切なのです」
「はい」
 言われたとおり彼女は空間に意識を巡らせる。
 するとセイラの鋭敏な感覚は、まるで生き物のように辺りに浸透していく。
(この子の集中力はやはりすごい)
 ランスは驚嘆の意を改めて噛み締めると、彼女の妨げにならないようゆっくり優しく声をかける。
「目標が定まったら矢先を向け、イメージを具現させるように矢を放つのです」
「……はい」
 引かれた弦の軋む音。力強く弧を描く弓。
 やがて――指先から矢が放たれた。
 しかし、セイラは胸中で小さく叱咤の念を抱く。
 返ってきたのは地面を突き刺す乾いた音。それが空しく響く。 
 彼女のイメージしていた矢筋よりやや逸れていたのだ。当然目標にも逃げられてしまう。
「惜しかったですね。でも、今までで一番良い射(しゃ)でしたよ」
「はい……」
 あと一歩をしくじったセイラを、ランスは撫でてやる。
「とりあえず、ご飯にしましょう?」
 ランスの提案に彼女は元気を取り戻し、勢い良く頷いた。


 ランスが射抜た獲物、ウサギがその日の晩御飯となった。
 ランスが捌きセイラが調理する。
「師匠ー、味付けは何にします?」

132 名前:No.32 胡椒の日 3/5 ◇InwGZIAUcs[] 投稿日:07/11/19(月) 00:01:06 ID:0HdUPaCf
「塩と、そうですね、胡椒がよいでしょう?」
「胡椒! そんな高価なものがこの家にあるんですか?」
「ありますよ? そう、その麻袋です」
 セイラが感心しつつも思ったままの感想を口にする。
「世捨て人なのに……」
「こらこら、誰が世捨て人ですか?」
「魔物も住み着く町外れのこんな森に住んでいる人、他に私は知りません」
 特に町を忌むわけも無く、それでも一人彼はこの森で生活をしていた。
「まあ、そのおかげで、私は師匠にめぐりあえたんですけど……」
 微笑を浮かべるセイラ。
 そう、ランスと出会ったのは、彼女がこの森に迷い込み、
魔物に襲われそうになったのがきっかけだった。
「町の孤児院から抜け出したあのお転婆娘も、随分大きくなったものです」
「何か言いましたか……師匠?」
 彼女のジトッとした視線がランスを刺す。
 彼はそんな視線をヒョイと交わし、向かいに座っていたセイラの隣に座った。
 ゆっくりと頭を撫でてやる。
「今日は鍛錬の為だけに来たのではないのでしょう?」
「はい……」
「あなたは昔から何か困ったことがると、こっそり現れて、異様に明るく振舞いましたからね……」
 何もかもお見通しの師匠に、彼女は本当に頭が上がらない。
 それでも彼女はもう十五歳、道を決めるときが来たのだ。
 セイラはそっと言葉を紡いだ。
「ランス師匠……私、師匠に助けてもらった時、その弓を射る姿にとても憧れました。
私もいつかこんな風になりたいって……でも私は……町を離れることになるかもしれません」
 それつまり、孤児院に住む彼女を半分親代わりで見守り続けたランスとの別れ。
 唇をぎゅっと噛み締める彼女の表情は常とは違ってとても暗く、ランスはそんな彼女の仕草に心苦しくも、嬉しくもあった。
「本当に大きくなりましたねセイラ。……では、私の昔話をしましょう」
 初めて自分の過去を話そうというランスに、セイラは目をキョトンとさせ……聞き入った。
「幼い頃に魔物に襲われた私は、目を傷つけられ、視力が著しく落ちてしまいました。仕方の無いことです。

133 名前:No.32 胡椒の日 4/5 ◇InwGZIAUcs[] 投稿日:07/11/19(月) 00:01:25 ID:0HdUPaCf
その時、死んでしまった家族のことを考えれば、生き延びた私は幸運だったのかもしれません」
 物憂げに語るランスの目に寂しさが宿る。
「そして私は一人で生きました。生き抜く上で絶対欠かせぬ食料は森に頼りました。
その中で手に入れたものが……これです」
 ランスの指す先には、机の上に並べられた塩胡椒の兎焼き。
そろそろ冷めている頃合だが、二人にとって今大切なものはそれでない。
「視力を失ってしまった代わりに、目がよく見えずとも、気配で兎を狩ることのできる鋭敏な感覚……それを
手に入れました。そして、そのおかげであなたを助ける事ができ、あなたと出会うことができた」
「……師匠」
「セイラ? あなたは孤児院の生活が好きですか? 私との鍛錬が好きですか?」
 問うまでも無い。セイラはどちらも大好きで、それが今まで歩んでいた人生だった。
 このまま先生に師事し弓の名手になる……町から魔物を守ったり、狩をして生活することもできる。
 だが、彼女には新しい道が開いてしまったのだ。
「知っています。セイラは町が大好きで、私のことを大切に思っていてくれること。そして、魔法という新しい道が見つかったこと」
「……ははは、何でもお見通しですね」
「世捨て人ではこうもいかないでしょう。町の人から聞いたのです。魔法学校からスカウトされているとね」
 ランスですら驚嘆する集中力……魔法学園が彼女をスカウトする理由だった。
 そのこと自体は大変名誉なことで、類まれなる才能の持ち主しかその門をくぐる事はできない今日では、
そのスカウトを断るものなど皆無と言ってよい。
 しかし、セイラは今とても迷っていた。
 迷っているからこそ、彼女はここに来た。それを、ランスはしっかりと受け止める。 
「この兎を射た矢は壊れてしまいました……その代わり、今この兎を食べることができます。何かを無くして、
人は大きな何かを得るのかもしれません。私が師匠として言えることは二つ。町を去り、大切な今を失ったとしても
必ず得ることもある。そしてあなたは、『無くして得るものがある選択』をできる、幸せな岐路に立っているという
事を……覚えておいて下さい」
 そう、世には何かを無くしたとしても何も得ることができない事すらある。
また、その機会すら無い場合も無数に存在するのだから、彼女それはとても幸せなことだとランスは思う。
 ランスはもう一度優しくセイラの頭を撫でた。
 すると彼女の瞳に溜まった雫が零れ、手の甲を濡らす。
 ランスは立ち上がり、元の席へと戻り再び向かい合う。

134 名前:No.32 胡椒の日 5/5 ◇InwGZIAUcs[] 投稿日:07/11/19(月) 00:01:41 ID:0HdUPaCf
「さあ、冷めてしまいましたね、もう一度暖めましょう。折角の門出祝いの為の胡椒です、美味しく頂きたいですから――」
 言いかけたランスの言葉を、突然のセイラが遮った。
「ランス師匠! 今まで、ありがとうございました! 私は、魔法の勉強をする為に町を出て、魔法学校に入学します。
でもいつか絶対に戻ってきます! ……そうしたら、また、また……こ、胡椒でご馳走してくださいね?」
 最後は涙で濡れた笑顔で、彼女は言葉を切った。
 ランスも笑顔で応える。
「ええ、その折は喜んで……セイラならきっと素晴らしい魔法使いになれますよ」
「本当ですか?」
 当たり前のことの様に、ランスは優しく言葉を紡いだ。
「本当です」
 ランスは思う。
 娘のようなセイラは、孤独にさした一筋の光だった。
 彼女の門出は同時に、ランスの孤独の再来。
 多少町の人々との繋がりはあれど、やはり孤独の再来。
 それでも真の孤独では無いことをランスは当然知っている。セイラも知っている。
 それが、死ぬまで消えることのない絆というモノだということを。     


 別れを惜しむ談笑は、濃い闇に浮かぶ灯りの中でいつまでも続いた。
 終わりを知りつついつまでも。


「師匠、行ってきます!」


 終わり


BACK−電波ごっご◆eSXo.2b/Ec  |  indexへ  |  NEXT−Cheers!◆QIrxf/4SJM