【 かけがえのないもの 】
◆M0e2269Ahs




103 名前:No.25 かけがえのないもの 1/5 ◇M0e2269Ahs[] 投稿日:07/11/18(日) 22:49:37 ID:RlCAmG+9
「ああ、めんどくさ」
 裕也がため息と共に呟いたこの言葉は、もう何回聞いたかわからない。さすがに登山者が近くに居るときには口を噤むが、
周りに誰も居なくなると決まって裕也はそう呟いた。確かに、その気持ちもわからないわけではない。こんなパトロールをする意味や、
パトロールをしなければならない理由を考えると、これほど地味で不毛なことはない。しかし、そのセリフはわたしたちにとって
許されるセリフではなかった。
「そんなこと言わないの。これが仕事なんだから。大体、こんな恵まれた環境で働けてるんだから、感謝しないと駄目だよ」
 頭の後ろで手を組んだまま、裕也はちらりとわたしを見た。
「恵まれた環境、ねぇ」
 どこか突っかかる言葉に、裕也の背中を思い切り叩いてやった。
「いった! おまえ、何すんだよ!」
「声を出せない自然の代わりに、制裁を与えてやったのよ。ありがたく吟味しなさい」
 背中に手を伸ばしながら、文句を言いたそうな目をしている裕也に、わたしはもう一度手を振り上げた。
 大雪山国立自然公園は、226,781haという広大な面積を持つ日本最大級の国立公園である。北海道最高峰の旭岳や北鎮岳を
含む、大小四〇もの山々が存在する巨大な山岳公園だ。東京都よりも広い面積を持つこの公園は、ダイセツタカネフキバッタや
ウスバキチョウ、ギンザンマシコやシマフクロウ、コマクサやエゾコザクラといった、いずれも絶滅危機に瀕している生物が掲載される
レッドデータブックに載っているような貴重な動植物たちが生息できる場所でもあるのだ。
 元来は、絶滅危機に瀕することなく暮らしていた彼らが、何故レッドデータブックに載ることになってしまったのか。その理由は、
レッドデータブックに載る条件が説明している。『人間の経済活動などによる影響が原因』。つまり、いわゆる森林伐採や湿地開拓と
いった生息地の破壊のことを指すのだが、開発による自然破壊は法が定められ、遵守される限り、守ることができる。彼らの生息地を
守ることは、劇的な効果こそ見られないものの、長期的な目で見れば確実に効果が現れてくる。しかし、いくら法を定めて禁止しようが、
食い止めることができないものこそが、問題なのだ。
 絶滅危惧種の違法な捕獲・盗掘である。盗掘者にとってのレッドデータブックは、商品価値を決めるリストでしかない。彼らがいる限り
監視の手を緩めるわけにはいかず、また、例え絶滅危惧種を救うことに成功したとしても、またも、その種、あるいは別の種の生物が、
絶滅の危機に瀕してしまうことになるかもしれないのだ。已むに已まれぬ貧困から、盗掘を働いてしまうという話は、後進国ではよく聞く
話だ。しかし、日本である。世界でも指折りの経済大国であるはずの日本である。もはや憤りを通り越して、哀しくなってくる。
 日本中で起こっている絶滅危惧種の違法な捕獲・盗掘は後を絶つことはなく、そしてその実態を知る人間も多くない。
 だが、だからこそ、わたしたちがいるのだ。だからこそ、わたしたちが頑張らなければならないのだ。
 自然公園指導員というのが、わたしたちに与えられた役職である。自然公園を利用する上での模範、または指導者となる立場であり、
希少動物の保護活動、監視の役割も果たしている。今日のパトロールもその一環だった。

104 名前:No.25 かけがえのないもの 2/5 ◇M0e2269Ahs[] 投稿日:07/11/18(日) 22:49:56 ID:RlCAmG+9
「相変わらず、いい景色だな」
 八月になったと言うのに、まだ多くの雪が残っている第二雪渓を抜けると、そこには、ピンクの色鮮やかな絨毯が広がっていた。
 駒草平である。その名のとおりコマクサが多く群生しているこの地は、山上のお花畑。アイヌ語で大雪山のことを、カムイミンタラ――
神々の遊ぶ庭――というのだが、その名にふさわしい景観を持っている。この辺りの標高は一八〇〇メートルほどなので、当然辺りに景観を
損なう建物はあるはずもなく、ただただ大小の岩の間を埋めるようなコマクサやエゾコザクラのピンクに、目を奪われるばかりである。
 この感動は、何度訪れても味わうことができる。第二雪渓の雪が解ける九月ごろになると、第二雪渓でも色とりどりの高山植物を目にする
ことができ、そしてその後間もなく訪れる紅葉に、この赤岳はひとつの芸術作品と変わる。一度、見てしまえば最後。何度も何度も訪れたく
なるこの赤岳の大自然には、多くのリピーターが訪れる。しかし、だからこそ、警戒も弱めることができない。その純粋な感動を味わうために
訪れてくれる利用者を扮し、盗掘者たちがやってくるからである。
 駒草平を彩るコマクサも、今でこそ毎年わたしたちを楽しませてくれてはいるが、少し前までは盗掘者によって盗まれ、絶滅の危機に陥って
いたのだ。懸命の保護が功を奏してくれたからよかったものの、絶滅してもおかしくない。そんな状態だったのだ。
 この美しい駒草平の景色を見ると、わたしは決意を新たにする。この自然を見るためにも、頑張りたい。そう思えるのだ。
「あ、いやがった」
 裕也の声に我に返ったわたしは、裕也の方を見た。コマクサ……いや、エゾコザクラの群生でうごめく虫の姿が見えた。あれは。
「ケツが白い。間違いねぇな」
 間違いない。セイヨウオオマルハナバチだ。裕也はロープを跨いで、エゾコザクラを踏みつけないように、慎重に近づいた。本来なら、
ロープを越えると、今も監視を続けているであろう監視員から注意を受けるが、パトロール員が付ける腕章が目印になっている。
 裕也は、エゾコザクラに夢中で貪りつくセイヨウオオマルハナバチにゆっくりと手を伸ばし、タイミングを見計らっているようだ。途端に、
手が伸び、セイヨウオオマルハナバチを捕まえた。リュックから取り出していたフィルムケースを裕也に差し出す。急いで蓋を閉めて、捕獲
完了だ。
「しっかし、相変わらずいなくならねぇのな」
 そう。相変わらずだった。
 大雪山系の山々の問題の一つに、外来種、即ち人為的、あるいは偶然的に海外から日本に持ち込まれた生物による生態系の破壊問題があった。
今、捕獲したセイヨウオオマルハナバチを初めとして、ウチダザリガニ、アライグマなど多くの種がそれである。在来種よりも強く、天敵が
存在しない外来種の存在は、まさしく脅威であり、ウチダザリガニは自身の半分以下の体長のニホンザリガニを簡単に追い出し、アライグマは
生態系が似ているキタキツネやタヌキの生息域を牛耳り、セイヨウオオマルハナバチに至っては、在来のマルハナバチとの交雑による支配を
するばかりではなく、その餌となるエゾコザクラなどのサクラソウ科の植物を花粉を受け取ることなく蜜だけを器用に盗み取るものだから、
大変な被害を受けている。元は、トマトの受粉用に輸入されたセイヨウオオマルハナバチ。食用として輸入されたウチダザリガニ。『あらいぐま
ラスカル』のブームにより、愛玩動物として輸入されたアライグマ。その他、ブラックバスやセイヨウタンポポなど、多くの外来種が日本国内に
おいて野生化し、今現在も在来種の生息域を脅かしているのだ。

105 名前:No.25 かけがえのないもの 3/5 ◇M0e2269Ahs[] 投稿日:07/11/18(日) 22:50:15 ID:RlCAmG+9
 絶滅危惧種と外来種。これら二つの問題の他に、もうひとつ。これもまた、人間が引き起こしてしまった辛い現実があった。
 エゾシカの大量繁殖のことである。エゾシカは、一匹のオスが何匹ものメスと群れを作るため、元々繁殖率が高い生物であった。しかし、
そんなエゾシカも一時は絶滅の危機に瀕したことがある。明治初期に美々(千歳)にシカ肉の缶詰工場が建てられたことにより、シカ肉を求めて
エゾシカが乱獲された。それに加え、エゾシカが越冬することのできないほどの大雪に見舞われ、その個体数は急激に減少してしまった。急遽、
対策が採られた。エゾシカの天敵であるエゾオオカミを狩ることで個体数の減少を食い止めること。エゾシカの餌場になる草原を増やすこと。
 結果として、これらの対策は功を奏す。だが、もともと人間をも襲うエゾオオカミを絶滅するまで狩ってしまったのが間違いだった。
 天敵がいなくなったエゾシカは持ち前の繁殖能力を発揮し、その数を爆発的に増やした。基本的に植物ならば、何でも食べる彼らの食性も影響
して、原生林や天然林の木々までも丸裸にされ、さらには農地にも侵入。莫大な被害をもたらすことになった。その被害額、六十億円である。
現在でこそ対策が採られ被害額は減少しているものの、未だエゾシカはその数を増やし、今や全道各地に生息圏を拡げている。悲劇はまだ続く。
 エゾシカの個体数を減らすためにハンターたちが送り出されたのだが、彼らはエゾシカの死体を回収することなく、放置してしまう。森の中と
なれば倒したエゾシカを運ぶような機械は持ち込めなかったからだ。エゾシカの体重は百キロにも及ぶ。個人では、到底運び出すことなど不可能
だったのだ。その放置されたエゾシカの死体に群がることになったのが、ちょうどニシンの乱獲により餌場を失っていたオジロワシ・オオワシと
いった天然記念物である。鉛を打ち込まれたエゾシカの肉を食べた彼らは、有名な鉛中毒に陥り個体数を減らした。また、本来は狩りをするはず
のヒグマも、その本能を失くしつつある。誰も想像することができなかった、悲劇だった。現在は、銅弾に切り替えられたが、やはりエゾシカの
個体数を減らす効率的な方法は、打ち出されていない。
 これらの大まかな三つの問題に立ち向かうには、決して個人の力では無理だった。一人では手が回らないということより、精神的に辛いのだ。
どうしようもない悲愴感を味わい、焦燥感を煽られ、無力感に苛まれ、何もかもを放り出して逃げ出したくなる。
 そんな気持ちを癒してくれるのが、この美しい景色であり、そんな気持ちを支えてくれるのが、一緒に立ち向かう同志であった。
 裕也は、駒草平の監視小屋に着いてから、新任の希少野生動物監視員の岡崎さんと話しこんでいた。何がおかしいのか、大口を開けて笑う裕也
の表情は、少年時代から何も変わっていないように思えるほど幼い笑顔だった。見ているこちらまでも笑ってしまうような、そんな笑顔だった。
「何、見てんだよ。ちゃんと、監視しろよな」
 と、わたしの視線に気づいた裕也が、自分のことは棚に上げて言ってのけた。憎まれ口を叩いてやろうかと思ったが、岡崎さんがいるので
やめておいた。仕方なしに、監視に入った。監視小屋の望遠鏡を覗いて、駒草平の様子を窺う。相変わらず、コマクサが美しい。さすがに、
コマクサのシーズンなだけあって、この赤岳を訪れる人の数は多い。ツアーガイドや、パークボランティアの人などが彼らを引率し、同時に監視
しているとはいっても、すべてを見通せるわけではない。だから、こうして監視小屋からの望遠鏡による監視も行っているのだ。
 ひとりの男の姿に目が留まった。熱心にカメラを構え、コマクサをフィルムに収めているようだが、どこか視線が泳いでいるように見えた。
彼の友人と思われる男と笑みを浮かべて何やら喋った。考えすぎだろうか。いけない。ひとりの利用者に目を取られては周りが見えなくなる。
 そのときだった。ロープの脇に屈んでいたカメラの男の手が、素早く動いた。彼の手から、砂礫が零れ落ちたのが見えた。
「裕也!」
 声を掛けると同時に、監視小屋を飛び出した。

106 名前:No.25 かけがえのないもの 4/5 ◇M0e2269Ahs[] 投稿日:07/11/18(日) 22:50:34 ID:RlCAmG+9
 先に監視小屋を出たわたしを追い越した裕也が、なだらかな斜面を走りながら叫んだ。
「どいつだ?」
 あの青のジャンパーの眼鏡の男! と叫ぶ前に、突然現れたわたしたちに驚いた利用者の中から走り出した男たちがいた。
「あいつら! あの逃げた奴ら!」
 言わなくてもわかったようで、わたしが言い切る前に、裕也はスピードを上げて盗掘者を追いかけた。わたしたちの様子を見たガイドや
ボランティアの人も、逃げ出した男を追いかけ始めた。おそらく、すでに監視小屋の岡崎さんが、警察と事務局に連絡を入れているはずだ。
 逃げ場はない。
 駒草平に響いた乾いた音に、頭の中が一瞬空っぽになった。まったく聞きなれないその音は、いったい何の音だろうか、と考え始めたとき、
逃げ出した男が空に掲げている物を見て、答えを知った。
 それまで、呆然と事態の成り行きを見守っていた利用者たちから悲鳴があがった。そして、数人の利用者が我先にと走り出すと、周りの利用者
も一斉に動き出し、こちらに向かって走ってきた。
 裕也やガイド、ボランティアの人も、地に根を生やしたかのように、その動きを止めていた。わたしもわたしで、目の前の光景が信じられず、
すくみそうになる足を何とかこらえることしかできなかった。
「そのまま、動くなよ!」
 まさか、こんなことって。本当に、こんなことが起こるんだ。と、どこか呆けている自分がいた。男が手にしていたのは銃だった。硝煙の匂い
なのだろうか。風に乗って、漂ってきた臭いを嗅いだ。盗掘者たちは、わたしたちが固まっているのを満足そうに眺め、したり顔で笑った。
 銃を持っている男の脇から、先ほどのカメラを構えていた男が現れ、何の気兼ねもなしにロープを跨いだ。
「やめ――」
 裕也が叫んだ声は、あの乾いた音にかき消された。空に向けられた銃口から煙が漂い、そしてまた風が硝煙の臭いを運んだ。
「次、何か言ったら、容赦しないからな」
 あまりに理不尽な言葉に、抗う術などなかった。銃を向けられた裕也が、一歩後ずさったのを見て、また男は笑った。その間、駒草平の、
神々の遊ぶ庭で、コマクサが次々と盗まれていった。目の前で、盗まれていった。憤りを感じる前に、涙が頬を伝った。
 自分たちが守ってきた領域が、こうも簡単に荒らされてしまうとは思わなかった。そして、それを何とも思わない人間がいるということが、
悲しくてならなかった。
「うああああああ」
 獣の咆哮のような声を出したのが裕也だと気づいたのは、彼が銃を持っている男に走り出したからだった。
「裕也!」
 思わず、叫んでいた。乾いた音が響いた。恐怖のあまり、目を瞑った。周りの利用者の悲鳴もあがった。まぶたの間から、涙が溢れ出した。
「偽物だ!」
 裕也の声が聞こえたことと、偽物という言葉を聞いたことの両方に驚いた。目を開けると、裕也が男の馬乗りになっていた。

107 名前:No.25 かけがえのないもの 5/5 ◇M0e2269Ahs[] 投稿日:07/11/18(日) 22:50:57 ID:RlCAmG+9
 盗掘者たちは、逮捕された。駒草平には平穏が戻ったが、荒らされた分のコマクサが元に戻るには、まだしばらくの時間がかかるだろう。
盗掘者ともみ合いになった裕也のまぶたには紫色の腫れ物ができていたが、それもじきに治るだろう。
 裕也は嫌がったが、念のために運んだ病院のロビーで、大きな絆創膏を貼られた裕也がふてぶてしそうに座っていた。
「調子はどう?」
 差し出されたコーヒーを見て、舌打ちをしながらも裕也はコーヒーを受け取った。
「なんだよ。俺、コーヒーとか飲めねぇよ」
 そうだっけ、と呟いて、裕也の隣に座った。改めてみると、顔の所々に擦り傷ができていた。
「見てんじゃねぇって。なんでもねぇんだから」
「それはそうと、よくもあんな無謀な行動、取る気になったね」
 裕也は、体を少しずらして、わたしから離れた。離れた分をつめた。
「ば、馬鹿。そんなん当たり前じゃねぇか。誰が黙ってみてられっかよ」
 足がすくんでいた自分を思うと恥ずかしいが、確かに、わたしたちが黙ってみているわけにはいかない状況ではあった。
「でも、あれがもし本物だったなら、裕也は死んでたんだよ?」
 裕也は、コーヒーを一口すすって、苦そうに顔をゆがめた。
「おんなじだろ? あのまま見てるだけなのは、死んでるのとおんなじだよ。だから、別に死んだってよかったんだ」
「同じじゃない。裕也が死んだら、困るよ。……その、いろんな人が」
「んーだよ、それ。じゃあ、黙って盗まれるのを見てれば良かったのか? ちげーよ。守れなかったら、意味がねぇだろ。意味がねぇんだよ。
俺たちが過ごした時間も、あいつらを守ろうと想う気持ちも、ぜーんぶ無駄になっちまうだろ。そんなん嫌じゃねぇか」
 沈黙が流れた。ほぼ同時に、お互いがコーヒーをすすって、息を吐いた。
「つれーよな。諦めちまった瞬間に俺たちの生きてきた時間は全部消えちまうんだ。誰かがやらねぇと終わんねぇことだけどさ、俺たちが
生きている間には、終わりっこねぇ問題だろ? この世界に入っちまった時から、俺たちはもう、逃げられねぇんだよな」
 恵まれた環境、ねぇ。先ほどの裕也の言葉を思い出した。
「だから……恵まれなんかいないって?」
「いいや。やっぱ俺は、この自然が大好きだし。これが天職なんだろうなぁって思う。でも、やっぱ、哀れな運命だよな」
 自嘲気味に笑って、裕也はコーヒーを飲んだ。また顔が歪んだ。その顔に微笑んで、語りかけた。
「でも裕也が生きていてよかったよ。確かに荒らされるのを見てるのは辛かったけど、裕也を失ってしまうのも、それと同じくらい辛いから」
「は、はあ? お、お前、何言ってんだよ。頭でも打ったのか? あ、ちょうどいいや。ここ病院だし、診てもらってこいよ」
「……あ、あはは。うん、そうだね。それがいいかもしれないね」
「お、おう。だろ? それがいいって、うん。あ、あはははは」
 病院のロビーに、絶叫がこだました。                                  おわり


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