【 カナリアは君の為に歌わない 】
◆p0g6M/mPCo




93 名前:No.23 カナリアは君の為に歌わない 1/5 ◇p0g6M/mPCo[] 投稿日:07/11/18(日) 21:43:41 ID:RlCAmG+9
 同じ職場で出会った彼と付き合い始めて、二年が経とうとしていたこの日の夜。彼は私の薬指にエメラルド
の指輪を嵌め込むと、私の目を見据え、重大な告白をしてきた。
 いわゆるプロポーズである。もちろん後々に『まだ早いんじゃないかな』とか『生活費はどうしよう』などと色々
思いだったが、そんなことは二の次だった。
 告白の言葉を聴いたとき頭の中は真っ白になっていた。同時に得も言えぬ歓喜と彼に対する、どうしようもな
い愛おしさが心の底から湧き上がっていたのだ。
 この時に交わした口付けは今までとはまた違ったもので、格別であった。唇と身体が触れ合う温もりと、そこ
から脈打つ心の鼓動。プロポーズという相乗効果もあってか、彼と付き合った中では最初に交わしたキスより
も嬉しくて――何ともいえない心地よさがあった。
 この時、この想いを記憶と指輪に刻んでおこう。
 彼のことが、世界で一番好きだから。

   ×

 目が醒めれば頭の中はぼんやりとしている。ベットから起き上がりカーテンを開けて本日の天候を確認する。
見上げれば青々とした空が広がっており、マンションから見下ろす街頭は日の光に満たされていて綺麗だ。
 それでも気分が悪かった。
 体調の問題ではない。何処か心がどんよりとしていて、憂鬱なのだ。
 昨夜、彼と会った時に何かあったのだろうか? と思ったが、何も思い出せなくて結局は杞憂に終わった。
 朝食の用意をしようと思っていたその時、ふと左手の薬指に指輪が嵌められていることに気付いた。
 これ、何だろう? 一体、誰が私にくれたのだろうか。
 彼なのかな。いやいや。――あれ?
 どうして思い出せないのだろう。確か昨夜、彼に夕食を誘われ私はほいほいと付いて行ったはずだ。
 ディナーを終えた後、ネオンに囲まれた繁華街をのらりくらりと歩き、行き着いた先が湖に照らされた幾千の
イルミネーションが美しい、あの大きな公園。
 そこからが思い出せないのだ。別段酔っていたわけではないし、ここまでははっきりと憶えている。
 とは言ったが、思考を繰らしても思い出せるはずは無く、私は早々にあきらめて指輪のことは直接本人に訊
いてみることにした。

94 名前:No.23 カナリアは君の為に歌わない 2/5 ◇p0g6M/mPCo[] 投稿日:07/11/18(日) 21:44:08 ID:RlCAmG+9
「ハハン。成程そうやって何か企んでるな。でも、もうプレゼントなんてあげられないぜ」
 開口一番、彼――浩次は至って真面目な顔つきで答えた。
「え? じゃあ、この指輪は浩次がくれたっていうの?」
 私が自身の薬指を見詰め悩んでいると、彼は何かを察したのか、意外にも優しげな口調で語りかけてきた。
「……本気で言ってるのかい? 昨夜酒なんか飲んでいなかっただろう。それにこれを渡した時も君は酩酊、
昏倒はしていなかった。僕が指輪を嵌めたとき、君から『一生忘れない』という言葉も確かに聴いたよ」
「いえ、私が訊きたいのは……何の理由があってこの指輪をくれたの? まさか……」
 そこで言葉が詰まってしまった。その後彼は神妙な顔をしたが、やがて軽くため息をつくと私の薬指から指輪
を外し、また同じ所に嵌めた。そしてその後とんでもない言葉を繰り出したのだ。
「僕と、結婚してください……おいおい。こんなこと二度も言うなんて前代未聞だよこりゃあ」
 その重大発言に、私は息を飲み込む。
 本当に驚き桃の木なんとやら、である。彼の述べていたことが本当なら、何よりも生涯に渡って一生に一度し
か聞けないようなことを、私はいけしゃあしゃあに「忘れた」などと嘯いていたことになる。
 同時に――嬉しい気持ちが心の中でいっぱいになった。客観的にみれば甚だおかしい話だが、今は疑問よ
りも歓喜の気持ち方が勝っていて、とにかく感謝の礼を言いたかったのだ。
「もちろん喜んで受け取ります……本当にありがとう。もう、絶対に忘れないから」
 私は彼の右手を硬く握り締め、固く誓った。
 腕時計を見ると、既にお昼が終わろうとしていた。昨夜のことを彼に謝罪し、持場に戻ろうとした時だった。
「何か悩み事があるのなら、いつでも相談にのるから……自分の身体は大事にしてね。可南子」
 優しく微笑んだ浩次はゆったりとした口調でそう囁いてくれた。
 午後からは早退する事にし、私は今の状況を打開すべく心療内科に通院することを決めた。そう思い至った
のはもちろん彼のためであったが、昨日から物忘れが著しく目立っていたので、職場で散々な目にあったこと
も一因している。このまま精神不安定な状態が続けば、今後私自身の生活に支障が生じる。

「大切なことを忘れる病気? そういう特定されたものは……何か強迫されてる感じはありますか?」
「それはないです……」
「そうですね。人間は酷いショックを受けたりすると、自分を守ろうとして記憶を改ざんする動きを脳が勝手にや
ろうとすることもあります。原因の一つとしては、怖い事件や子供の頃の虐待とかですね」
「いえ、そのようなことは無かったです」

95 名前:No.23 カナリアは君の為に歌わない 3/5 ◇p0g6M/mPCo[] 投稿日:07/11/18(日) 21:44:29 ID:RlCAmG+9
「あとは一定量以上の感情が抱えきれなくなって起こることもありますが……あなたは忘れてしまうのが怖いス
トレスから、極度の恐怖心を感じ取っているのかもしれません」
「はぁ」
「まあ……あまり気に止めず、心に余裕を持ったほうがいいかもしれませんね」
 帰り道の途中でお医者さんが言ってたことを反芻してみるが、いまいち要点が掴めなかった。だがよく考えて
みれば、私の記憶が途切れ途切れで失っていく原因というのは――。
 その時だった。
 突如対向からの自転車が急突進してきて、互いの肩と肩がぶつかったのだ。乗り主はそのまま逃げていっ
てしまい、私の右肩筋には激痛だけが残ってしまった。


 次の日の朝、私は昨日起こった出来事を思い出してみる。
 自転車のことだ。直前のことまでは覚えているが、そこから瞬間的に記憶が削がれていた。
 やはりこれが健忘症の正体なのかもしれない。
 私の中で起こった記憶喪失のメカニズムは、その日に起こった『脳に強い衝撃を与えたこと』が健忘の原因と
なっている可能性が高い。例えば昨日のお医者さんの話や浩次が別れ間際に相談してくれと述べた、冷静に
聴いていた話は憶えている。
 イルミネーションに包まれた公園での出来事。この時気持ちが高揚していたことだけは覚えているが、一つ
一つの動作と言動が私の中ですっかり忘却していたのだ。
 正直ぶつかった自転車の乗り主には感謝している。
 だって、そのお陰で昨日のプロポーズを忘れることが出来なかったのだから。

 それでも彼と出会ってしまえばたちまち我を忘れてしまう。あの日から私の中で、浩次に対して何かが確実
に変わっていた。抱かれたときの温もり、その吐息と鼓動。彼の発した一言一句でさえ私の脳裏に刻み込ん
でいくのだ。そして泡沫の夢のごとく、醒めれば全て消え去ってしまう。
 それが怖かった。ひと時も忘れたくない。その想いが、ある衝動を震い立たせる。
 ならば私が私を傷つけてしまえばいい。私は会社から帰宅すると、己の右手首にナイフを押し当て、勢いよく
一閃を放った。痛いけど、我慢しようと思う。彼を忘れないために。これで今日の浩次を覚えてられる。
 もう忘れたりしないから。だからその時まで、あなたも私を――。

96 名前:No.23 カナリアは君の為に歌わない 4/5 ◇p0g6M/mPCo[] 投稿日:07/11/18(日) 21:44:56 ID:RlCAmG+9
 あれから一週間経過した。現状では何とか記憶を維持することが出来たが身体の調子はよろしくなかった。
 不眠がたたり、加えて過度のストレスが原因だったのかもしれない。それでも彼と会えば、そんなものは全て
吹き飛んでしまう。そう思っていた。
 今日は珍しく浩次が自宅に誘ってくれた。どうやら話があるらしかった。
「大丈夫よ……私、まだあなたのことは一片たりとも忘れていないから」
 そう呟きつつ私は期待を胸に秘めていた。ちょっと息苦しいけど、彼のためなら頑張れる。
 玄関の呼び鈴を鳴らすと彼が迎いに出てくれたが、その表情はいつにもまして硬かった。
 怒っているのかな? 私、そんな顔は視たくない。あなたには笑って欲しいの。
 ――そう思い込んでいると、いつの間にか彼の部屋に私は入っていた。
「ねえ可南子。折り入って話があるんだが……何か僕に隠し事をしていないかい?」
 その言葉聞き、私の身体は少し強張る。右腕にいくつもの裂傷があるとは流石に言えず、彼のためにもこの
事は隠し通さなければならない。
「そんなこと無いよ。あなたにだってもう話したでしょ? 私が精神科に通ってるって」
「ふぅん。まあとりあえず、コーヒーでも飲むかい?」
 そう言って立ち上がると、彼は咄嗟に私の腕をつかんで裾を捲りあげた。
 油断した。いや本当は心の奥底で、彼に気付いて貰いたかったのかもしれない。
「何かアザでも出来ているのかと思ったけど……これは自分でやった傷じゃないか。なんで……」
「触らないでっ!」
 私は反射的に彼の手を退けてしまった。お願いだから、怒らないで。心配しないで。
 私は視たくないから。あなたの悲しい顔なんてみたくないから。
 だから――。

   ×

 目が醒めれば頭の中はぼんやりとしている。ベットから起き上がろうとすると眼前にいる浩次に止められた。
 辺りを見渡せば、部屋は真っ白いカーテンに囲まれている。たぶん、ここは病室だ。
「傷の手当てを受けたばかりなんだから、少しは大人しくしてなきゃ。君のお父さんとお母さんには連絡したか
ら。倒れた原因は日常生活におけるストレスだってさ」
「どれくらい眠っていた?」
「半日ぐらいかな? 今朝だから」

97 名前:No.23 カナリアは君の為に歌わない 5/5 ◇p0g6M/mPCo[] 投稿日:07/11/18(日) 21:45:15 ID:RlCAmG+9
 私が仕事の事を訊くと、彼は何の気兼ねも無く「今日は休んだ」と答えた。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るのさ」
「この一週間、私に振り回されて正直煩わしかったでしょ? 浩次には悪いことをしちゃったと思って」
 昨日の記憶は、昨晩から全て消えてしまっていた。もちろん彼と相対したことも忘れていたが、さぞかし迷惑
をかけてしまったことは分かっている。私は馬鹿だった。今までおこなってきた行為は彼のためではなく、自己
満足のためであったと、ようやく気付いたのだから。
 そんな気持ちを知ってか知らずか、彼は飄然とした口調で私に問いかけてきた。
「ねえ。この前テレビで偉い人が『人生はチョコレートの箱のようなもの』って言ってたんだけどさ、君も僕の人生
もそんなものかもしれないよ」
 意味が分からなかった。
「例えが悪かったかな。つまりチョコレート箱に入ってるナッツ味やクリーム味のチョコように、食べてみないと中
身は分からない。それと同じで人生も実際経験してみないと分からないのさ。僕の言いたいことは、可南子は
何でもかんでも過程と目先のことばかりを優先して、最終的には結果をおざなりにしていたんだ」
「確かに……この自傷行為も、あなたに対する想いを残すためだったの。身体に痛みを覚えさせることによっ
て記憶を残すために、ね。……でもそんな想いも少し薄れちゃった」
 浩次が「それはいい意味でかい?」と訊いてきたが、私は答えず、ただにっこりと笑う。
 
「ありがとう浩次。あなたのお陰で自身を取り戻すことが出来たわ」
 彼は微笑を施すと、私の頭に優しく手を乗せた。
「この一週間、僕には可南子を嫌う理由なんて何も無かった。何かを築き上げようとするのは確かに大変なこと
だよ。でもね、僕は思うんだ。時にはそれをおもいっきり壊してしまうことも大事なんだって」
 破壊することで、また一から新しいものを作り直す――そう彼は教えてくれた。
 ならば昨日までの私は、私自身で打ち壊そう。彼は私の心を決定付けることなどしない。自分の気持ちは自
分で決めて、今日からまた新しい一歩を踏み出そう。
 いつになったら私の記憶障害が治るか分からない。
 それでも――彼とともに歩んでいこうと思う。

<了>


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