【 Succession
】
◆2LnoVeLzqY
70 名前:No.17 Succession 1/5 ◇2LnoVeLzqY[] 投稿日:07/11/18(日) 17:32:47 ID:RlCAmG+9
だから彼女は祈っていた。
全ての窓を閉じ、あらゆる灯りを消し、一切の光を締め出したその暗闇の中心で、彼女はただ、ひたすらに祈っていた。
いま生けるものたちのため。かつて生きていたものたちのため。
そして、これから生まれ落ちてくるものすべてのために。
“そこ”には境界などない。
一面の暗闇はどこまでも同質に広がる。時間の感覚すらも消してしまう。その中に彼女は、そっと身を沈め始める。
彼女の身体は暗闇へと溶け出す。暗闇と同質になる。それを悟ったとき、彼女は“かつて両手であったもの”を暗闇の中で合わせる。
彼女はその様子を見はしない。見る必要がないからだ。
だから彼女は目を瞑る。そして、これまでと同じ闇をそこに見るだろう。
彼女はそれに心の底から満足する。やがて、誰にも気づかれないその祈りを、一人、静かに開始する。
暗闇の中心で、彼女は一途に祈る。
この“小説”には二人の登場人物が存在する。
一人は彼女であり、もう一人はこの僕、ということになっている。それで、二人だ。そう紹介したからには、僕たち以外の人物が登場することはないだろう。
もっともそれは、文章上に登場する、という意味においてでしかない。
たとえば僕の目の前には紙とペンがある。僕がペンを取りこれを記述した途端、その存在がこの“小説”に登場する。
父譲りの薄汚れた黒檀の机と、その上に載ったインク壺、と書けばまた然りだ。
そして僕が顔を上げ、窓の外、寒々しく雨の降る灰色の町並みを一目見たとしよう。
すると必ずや、そこにいる人々が僕の目に映る。
雨に濡れて鳶色に光る石畳を歩く人、軒先で雨宿りをする人、干していた衣服をあわてて取り込む人。
僕が窓の外を見れば、否応なくそういった人々が、この“小説”に登場してしまうだろう。
だから僕は、敢えてそうはしない。
決められた登場人物は二人であって、それ以上でも以下でもないからだ。
この“小説”が世界に境界を作り出す、ということを、僕は誰よりも知っている。また彼女も、それについては誰よりも知っている。
「境界なんて、嫌い」
そう言ったのは彼女だった。けれど、もしかしたら僕だったかもしれない。その違いに意味は無いと僕は考える。僕も彼女も同じ気持ちだからだ。
そう、境界なんて本来、この世界にはないのだから。
71 名前:No.17 Succession 2/5 ◇2LnoVeLzqY[] 投稿日:07/11/18(日) 17:33:05 ID:RlCAmG+9
「……そこにいるの?」
暗闇の中で僕が訊く。
「……いないよ」
やがて、彼女の声が答える。同じ暗闇の彼方から、その答えは闇を伝って返ってきた。
僕はふと、自分の手を見ようと思った。僕の目には何も映らなかった。視界は一面、闇に包まれている。
僕はおそるおそる、“かつて床だったもの”に座り込んだ。
「怖がらなくても、大丈夫」
また彼女の声。
「貴方を傷つけるものは、ここには何もないから」
今度はすぐそばから。甘く優しい吐息とともに。
やがて、僕の“かつて唇だったもの”が、彼女のそれと重なるのを感じた。彼女の“かつて腕だったもの”が“かつて僕だったもの”のすべてをそっと抱いてくれていた。
一秒間、あるいは永遠の間、僕たちはそうしていたはずだ。
果たして人はそれを、キスと呼べるのだろうか。
だからこの“小説”は絶望的な矛盾を抱えながら続く。
人類の観測しえなかったビッグバンから150億年もの間着々と宇宙は膨張を続け、その途中に地球を産み、やがて46億年経ってから産まれた彼女の生涯の、たった一瞬を、この“小説”は描写し始め、そして、終わる。
あらゆるものが連続し関係し合う、境界のないこの世界は、この“小説”によって切り取られるのだ。
それは誰に許されたわけでもない。この“小説”が持つ権利でもあり、同時に、避けることのできない矛盾だ。
世界を切り取るとき、世界を描くはずのこの“小説”は、切り取らなかったすべてを失う。
そのくせこの“小説”は、初めから何も切り取っていない、初めから何も失ってはいないかのように振舞いさえするのだ。
たとえば、彼女にも母はいる。同時に父もいる。
その母にも、父にも、やはり両親があるはずなのだ。彼らにも、また両親があり、兄弟がある。
そのつながりは、宇宙が生まれるその瞬間までどこまでも続いていくだろう。
また彼女はこれまでの人生で、数多くの人に出会ってきた。
彼らは彼女の名前を呼び、彼女と言葉を交わし、彼女はそんな彼らに笑いかけた。彼女は彼らの名前と容姿を、しっかりと記憶している。
けれど僕と彼女以外のあらゆる人々は、この小説に登場することがないのだ。
だから、彼女は祈る。心から。
この“小説”の続く限り。いつまでも。
この“小説”に切り取られることがなかった、すべてのものたちのために。
72 名前:No.17 Succession 3/5 ◇2LnoVeLzqY[] 投稿日:07/11/18(日) 17:33:24 ID:RlCAmG+9
「僕にはわからないんだ」
“かつて唇だったもの”が彼女のそれを離れてから、僕は暗闇の中に話しかけた。彼女のほのかな体温を、まだ僕は感じていた。
「貴方にも、わからないことがあるのね」
「わからないことだらけだよ」
暗闇の奥で、彼女がくすりと笑った気がした。
「僕は、どうして自分が執筆者の立場に選ばれたのか自分でわかってないんだ。僕じゃなくても良いはずなのに。きみは、そう思ったことって無い?」
一切の沈黙を挟まずに、その答えは返ってきた。
「私は無いわ」
「……どうして?」
彼女の答えは明瞭だ。
「だって私が祈らなかったら、一体誰が彼らのことを祈るのかしら」
この“小説”が始まったその刹那から、僕はその終わりを意識し始めた。
全てのものには必ず終わりが来る。そのことは、僕も彼女も、誰よりもよく知っているつもりだ。
この“小説”に出来ることがあまりに少ないことも、僕は十分に承知している。
連続した歴史の時間軸にひとつの始点を見出すことで、この“小説”は始まった。
けれどそのとき、この“小説”は、境界のないこの世界から、必要なだけの要素を切り取らざるを得なかった。それは、先も述べたとおりだ。
それが執筆者である僕であり、また彼女だった。
切り取られなかったものたち、すなわち、失われたものたちに対し、この“小説”は目を瞑った。
それがこの“小説”の動き始める条件であり、必要不可欠なことだったのだ。
だから、彼女は祈り始めた。失われた彼らのために。
彼女は暗闇に身を浸し、その姿をこの“小説”に登場させることを拒んだ。彼らが決して、この“小説”に登場しないのと同じように。
やがてこの“小説”が終わったそのとき、僕や彼女という区分は一切なくなるだろう。
すべてはもとの世界に戻り、あらゆる境界は存在しなくなり、連続性だけが再び世界を支配するだろう。彼女は、それを望んでいるのだ。
だから、彼女は祈り続ける。この“小説”が終わるそのときまで。
73 名前:No.17 Succession 4/5 ◇2LnoVeLzqY[] 投稿日:07/11/18(日) 17:33:42 ID:RlCAmG+9
「お願いがあるんだ」
暗闇に向かって僕は言う。僕は、この声が彼女に届くことを知っている。
「それが叶えられるものなら、叶えてあげる」
彼女の声が、すぐそばの暗闇から聞こえる。僕は声のする方へと“かつて手だったもの”を伸ばしたけれど、何も掴みはしない。目の前の闇を僕はひたと見据える。
「きみの姿をこの“小説”に残したい。だから、光がほしいんだ。蝋燭か、ランプか、ここにはない?」
彼女からの返事はしばらく途絶えた。暗闇には完全な静寂が訪れる。
そのとき僕は、ありえるはずのない無を意識する。たとえば宇宙の始まる前を見ているような、そんな気分にさえなる。
絶えられないくらい長い沈黙の後で、暗闇から返事が返ってくる。
「そんなもの“ここ”にはないわ」
「じゃあ、窓を開けてもいい?」
「止めはしないけれど、貴方には、窓の位置がわからないはずよ」
そうして僕は途方に暮れる。暗闇の中で。一歩歩いても、二歩歩いても、僕は暗闇の中を動くばかりで、決して窓にはたどり着かない。
“かつて床だったもの”へと僕はぺたりと座り込んだ。
「僕は、どうすればいいの?」
答える彼女の声は、いつも優しい。
「……大丈夫、貴方なら、私の姿を知っているはずだから。きっと」
だから僕は、記憶の糸を辿ろうと思う。彼女のために。
彼女は快活な少女だった。いや、過去形にはしないでおく。この“小説”が終われば、きっと彼女は快活な少女に戻るはずだから。
だから僕は、この“小説”を終わらせるために書く。
彼女を元の世界に帰すために書く。
彼女の母は聡明な女性であり、彼女はよく母の手伝いをしている。父は町で一番大きな出版社に勤めており、飛びぬけて裕福とは言わないまでも、家庭は幸せそのものだ。
家には大きなピアノがあり、彼女は穏やかな曲を好んで弾く。
僕は、よくその演奏を聴かせてもらう。腕はずいぶんなもので、よく演奏会に招待される、とも言っていた。
けれど彼女が一番好きなのは、二階にある彼女の部屋の窓から、この町並みを眺めることだ。
彼女はこの町を、とてもとても気に入っているから。
びっしり並んだ家々の向こうから、空を薄紫色に染めながら昇ってくる朝日を見るのがたまらなく好きだと言っていた。まだ朝もやのかかる中、往来に出てくる人々の活気を見るのも好きだった。
人々は、彼女の姿を見かけては嬉しそうに挨拶をした。彼女も惜しむことのない笑顔でそれに答える。今まで出会った人のことを、彼女は全てしっかりと記憶している。
彼女は、この“小説”の中でそれらを失うのが、何よりも嫌だったのだ。
74 名前:No.17 Succession 5/5 ◇2LnoVeLzqY[] 投稿日:07/11/18(日) 17:34:00 ID:RlCAmG+9
「きみの瞳の色は黒だった。違うかい?」
彼女はとぼけてみせる。
「さあ、知らないわ」
「それでもいいんだ。君の瞳は、この暗闇よりももっともっと深い黒だった。透き通るような、まるで宇宙の果てが映っているかのような色だった」
「そうかもしれないわね」
「それに、きみの髪も同じような色をしていた」
彼女は何も答えない。
「けれどきみの髪は、光に照らされると薄い茶色に光るんだ。風よりも軽いんじゃないかと思えるくらい細くて、よく窓際に座るきみの髪が綺麗になびいていたのを覚えてる」
「私は覚えてないわ」
僕はひとつひとつ、細密画のように彼女の姿を描く。記憶の中に輪郭を描き、そこに色を塗っていく。
「きみの髪は肩よりも少し長かった。鏡に向かって櫛を入れながらきみは、よく茶色い毛を見つけた、なんて言って笑ってた」
「貴方は」彼女が言う。「どうして自分が執筆者なのか、わかったの?」
僕は答えない。
「白いワンピースがきみにはよく似合ってた。それを着ているときのきみは、まるで日差しのかけらがそのまま落ちてきたみたいだった」
「……貴方は、何が言いたいの?」
そして僕は仕上げとして、とっておきの言葉をつぶやく。
「……そんなきみが、たまらなく好きなんだ」
急に、視界が真っ白になった。僕は思わず目を瞑った。けれど、やがてそれにも慣れて、おそるおそる目を開けた。
目を開けた僕の前には、彼女がそのままの姿で立っている。
窓はすべて開け放たれていた。部屋の中には、昇りきった朝日が優しく差し込んでいる。
「教えて」彼女が僕に訊く。「どうして貴方が、執筆者なのか」
僕は彼女の姿を、この目にしっかりと焼き付ける。白いワンピース。黒くて長い髪。この“小説”が終わる前に。それから彼女の問いに、僕が考える最善の回答を返す。
「僕が書かないと、この“小説”が終わらない。終わらないときみも僕も世界に帰れないし、失われた人たちも戻ってこない。それが、表向きの理由」
「ふふ、それで」彼女は、すべてを知っているかのように笑う。「裏向きの理由は?」
「……僕がいないと、きみの姿を描く人がいないんだ。それはあまりにも、その、勿体ないと思うから」
そして僕の唇に彼女のそれが触れた。僕たちは、これをキスと呼んでもいいはずだ。
照れくさそうに、ワンピースを翻しながら彼女は少しだけ離れる。
それから……この“小説”の終わりに、彼女は僕に言う。
「今度は私が、貴方を描く番」
この“小説”が終わっても、僕たちの世界はまだ、終わらない。