【 僕はシチューが食べたい 】
◆AyeEO8H47E




28 名前:No.07 僕はシチューが食べたい 1/5 ◇AyeEO8H47E[] 投稿日:07/11/17(土) 23:41:50 ID:hRh3dYCh
 寒い夜だった。
仕事で母親の帰るのが遅い僕は、いつものように近所のスーパーで晩御飯を物色していた。
僕は猛烈に腹が減っていた。腹は隣の人が思わずこちらを見るくらいの大きさでグーグー鳴っている。
しかし今日はなぜか、食べ飽きたから揚げ弁当や、トンカツ弁当、塩さば弁当、牛カルビ丼の行列を見ていると、
まったく食欲がなくなってしまった。
僕は手ぶらでスーパーを出た。
はあっ、と息を吐くと真っ白く染まる。今夜はとても寒い。なんだかひどくうら寂しい気分だった。
宙に浮かんでゆく自分の吐息を追って顔を見上げると、そこには冬の美しい夜空が広がっていた。
冷たく澄んだ大気で星たちの光は研ぎ澄まされ、キラキラと、しかしつつましく輝いていた。
僕はしばらくその場で立ちすくみ、見とれていた。オリオン座が綺麗だなあ。星座の名前はオリオン座しか知らないけれど。
強い風が僕に吹きつける。街路樹がバサバサと揺れた。
こんな夜に、あったかいシチューが食べれたらな。僕はそう思った。

        ◇    

 東京タワーの展望台の屋根の上に立つ女は、わんわんと泣いていた。
ウェディングドレスを着たまま、身も世もなく泣いていた。
彼女は結婚式の当日に、花婿に逃げられた。彼女より十歳年下の女と共に、十年連れ添った男は彼女の元を去った。
彼女は死ぬつもりでここまでやって来た。彼女は世界中の誰からも見放されてしまったように感じていた。
実際、世界中の誰もが彼女を見ていなかった。誰の視界に入っても、彼女に気づくことができるものはいなかった。
この日、神様すらもが彼女を見落としていた。
信じられないことだが、彼女がこんな格好でこんな場所に辿り着けたことがそのことを裏付けていた。
涙も凍るような冷たい夜風が彼女に容赦なく吹きつける。
風は刻々と、彼女を世界の淵へと追いやっていった。

29 名前:No.07 僕はシチューが食べたい 2/5 ◇AyeEO8H47E[] 投稿日:07/11/17(土) 23:42:10 ID:hRh3dYCh
 自転車で河川敷を飛ばしていた僕は、ジョギング中の島本麻衣子に出会う。
陸上部の彼女は大会前の最後の調整をしていたのだと言う。それなのに向かいからやってくる僕を見つけた彼女は、
わざわざ立ち止まって僕に挨拶をしてくれた。
「今夜は冷えるね」
気の利かないことを僕は言う。
でも、今夜は星が綺麗だね、なんて気恥ずかしくて僕にはとても言えない。
「本当、手がかじかんじゃって大変だよ。谷君どこ行くの?」
彼女に聞かれたが、別に僕はどこに向かっているわけでもなかった。ただあまりに腹が減りすぎて居ても立ってもいられないから、
自転車をすっ飛ばしてるのだ、なんて言えない。彼女の前では、特に。

        ◇

 この日彼女を捕らえたものは、原始の時代から存在する巨大な憎悪の塊だった。
七百万年前にアフリカで発生したそれは、様々な人間の負の感情を取り込みながら現在まで地球の上をさまよい続けてきた。
彼女の自分を捨てた男への深い憎しみに引き寄せられたこの憎悪の雲は彼女を包み込み、その中へ侵食した。
体に収まりきる感情の量の限界を遥かに超えた憎悪が、彼女の心に流れ込む。彼女は狂ったように目に付くもの全てを憎み始めた。
感情を吐き出さないと、どうにかなってしまいそうだった。
目に見える全てのものを憎み尽くし、目に見えない全てのものを憎み尽くしてこの世界に存在する全てのものを憎み終わったとき、
やっと彼女の心は収まった。しかし、そこには深い深い穴がポッカリと空いていた。
何もかもを吸い込む、絶対的な虚無がそこに広がっていた。
この穴の誕生と時を同じくして、彼女の存在は誰の意識にも止まらなくなった。
彼女の声は誰の鼓膜も振るわせることができなかった。
誰かの体を掴んで揺さぶってみても、自分の体が勝手に動いたことを不思議がるばかりで、彼女のことにはまるで気がつかなかった。
憎しみから開放され正気に戻った彼女はそのことに気づくと、今度は深い絶望に飲み込まれた。
今日、彼女は突然最愛の人に裏切られ、突然世界から無視された。彼女にはわけがわからなかった。
気づかないうちに落とし穴に落ちてしまったように感じた。どうしようもなく深い、光すら届かない穴の底に。
涙に暮れながら彼女は、この理不尽な世界から去ることを決意した。

30 名前:No.07 僕はシチューが食べたい 3/5 ◇AyeEO8H47E[] 投稿日:07/11/17(土) 23:42:37 ID:hRh3dYCh
「シチューを食べに行くところなんだ」
「シチュー?」
彼女が暗闇の中で怪訝そうな顔をするのがわかる。
「そう。あったかくて、ホクホクのジャガイモや人参や玉ねぎやマッシュルームがゴロゴロ入ってる、たっぷりとしたクリームシチュー。
あんまり寒いから、どうしても食べに行きたくなっちゃって」
それを聞いた彼女は、クスクスと笑いだした。
僕は赤くなる。おかしなことを言ってしまっただろうか。
「ごめんごめん、なんだか可笑しくって。谷君がそんなにシチューが好きだったなんて、知らなかったよ」
それから僕たちは少しの間、シチューの具のことについて他愛もない話をした。
彼女は楽しそうに笑っていた。
僕は、彼女の笑顔をずっと見ていたい、と思っていた。
「こんなとこ一人で走ってて、危なくない?」
「だいじょうぶ。毎日ここ走ってるんだから、私」
「大会、がんばってね」
「ありがとう。またね、谷君。シチュー食べてあったまんなよ!」
彼女はニッコリと笑うと、白い息を吐きながら走っていった。
僕は再び自転車を飛ばした。川のこちら側とあちら側を結ぶ大きな橋が見えるところまでやってくると、僕は自転車を止め、
枯れ草の上に座り込んだ。何台もの自動車のヘッドライトが織り成す光の川が、橋の上をゆっくりと流れていた。
夜にそびえるこの橋は、僕に比べてあまりにも巨大だった。
僕はまた夜空を眺めた。
僕は時々、ブラックホールと呼ばれる天体のことを考える。
自分の重力で自らを押しつぶしてしまった天体。光すら飲み込んでしまうこの天体は、誰の目でも見ることができない。
それはこの宇宙にいっぱい散らばっているらしい。
この夜空のどこかに、見えないけれど絶望的に深い穴がポッカリと、幾つも開いているのだった。
僕は知らないうちに誰かがそんな穴に落ちて、誰にも知られないままいなくなってしまう所を想像して、いつも怖くなった

31 名前:No.07 僕はシチューが食べたい 4/5 ◇AyeEO8H47E[] 投稿日:07/11/17(土) 23:43:14 ID:hRh3dYCh
僕は彼女の声を思い出す。
彼女が僕の名を呼ぶ声を思い出す。
彼女が振るわせた空気が僕の鼓膜を優しく揺さぶる感触を、何度も、何度も、反芻する。
彼女が誰よりも速く走れますように。
この夜空に広がるオリオンの腕が、彼女をあらゆる不幸から守りますように。
僕は知らないうちに星に祈りを捧げていた。
僕は祈り続けた。
神様。
神様、聞こえていますか。
僕の恋は叶いませんでした。
彼女には、僕なんかより遥かにふさわしい人がいました。
それでも、やっぱりお願いします。
どうか、彼女をお守りください。
彼女がこの世界から落っこちたりしないよう、見守っていてあげてください。
だって。
だって、神様。
僕は、やっぱりあの人のことが大好きなんです。
両目から涙が溢れた。
僕は大声をあげてわんわん泣いた。胸に穴が開いてしまいそうだった。
涙も凍るような冷たい夜風が僕に容赦なく吹きつける。
僕は、あったかいシチューが食べたかった。

その時、大きな流れ星が夜空を東から西へと流れ去った。島本麻衣子はそれを見て、綺麗、と呟いた。

32 名前:No.07 僕はシチューが食べたい 5/5 ◇AyeEO8H47E[] 投稿日:07/11/17(土) 23:43:39 ID:hRh3dYCh
 何本ものスポットライトが彼女を照らした。
地上には彼女の救助に駆けつけた消防隊の車両やマスコミのバンが何台も集まり、その周りに大勢の人々が詰め掛けていた。
彼女の眼前を報道用のヘリコプターが飛び交う。
突如として東京タワーの上に現れた花嫁に、世界は大騒ぎしていた。
皆が彼女のことを見ていた。その光景はまるで、彼女がオペラのスターになったかのようだった。
 彼女を深い暗闇の底から救ったのは、突然東京の空に現れた大きな流れ星だった。
彼女の憎しみの及ばない遠い世界からやって来たその光は、夜空を切り裂き、そしてそれを見ていた彼女の心の中に巣食う
邪悪な感情の塊をも切り裂いた。彼女の心に刺し込んだまばゆい光に憎悪の雲はその身を焼かれ、彼女の体から逃げ出した。
雲は今まで蓄えこんできた憎悪の大半を失って、霧のようにあたりへ拡散しながら夜の闇に溶けていった。
かくして彼女はこの世界に復帰した。

      ◇

 スポットライトが眩しい。
私は、ぼんやりと東京タワーを取り巻く人の海を眺めていた。
そしてさっき見た流れ星のことを考えていた。私は、前にもあんな大きな流れ星を見たことがあるような気がする。
どこでだろう?必死に頭を巡らせてみるが、思い出せない。遥か昔のことだったのかもしれない。
ただ、私の心は不思議なあたたかさで満たされていた。誰かが私の事を限りない優しさを込めて見守ってくれているような。
私は空を見上げた。そこには冬の夜空に美しく輝くオリオン座が、大きく腕を広げていた。
私は何となく、シチューが食べたくなった。

おわり


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