【 ミセス 】
◆ZRkX.i5zow




12 名前:No.03 ミセス 1/4 ◇ZRkX.i5zow[] 投稿日:07/11/17(土) 15:45:32 ID:afbGiAnY
 澄み切った空に乾いた空気、辺りには白い化粧が施されている。
「先生、お久しぶりです」
 ベルはその寒空の下、真面目にもアンジェラを迎えに駅前のロータリーに立っていた。
「久しぶりベル、まあ、美しくなったわね」
「先生こそお元気そうで何よりです」
 二人は久しぶりの再会に抱擁しあった。アンジェラは顔を離してもう一度ベルの顔を見つめると、「本当に」と確認した。
「さあ、先生こちらです」
 挨拶もそこそこに、二人はベルの家へと歩き出した。その道アンジェラはアップルパイを持ってきた事を告げると、ベルはそれなら家で
紅茶でも淹れましょうと提案した。ベルの家は駅から十分程で、広い道路に街灯と家が立ち並び、その中でも特に目立つ造りだった。
「立派なお家に住んでるのねえ」
「主人がそういうの、こだわる人だから」ベルは自嘲気味に言った。「見得だけは達者なんだから」
 家に入ると、中は外観に相応しく広々と華やかなものだった。
「写真を見る限り、素敵な旦那さんじゃない」
「ええ、まあおかげさまで幸せです。一人だと寂しいけれど」ベルはアンジェラに手を差し伸ばし、「先生、コートをお預かりしますわ」
「ありがとう」
 アンジェラはパイの入った折り詰めも渡し、背もたれが大きな椅子に腰掛けた。上を見上げると天井まで吹き抜けで、二階の通路がよく見える。
 暖房がよく効いた室内は、外の寒さをすぐに忘れさせてくれた。アンジェラは帰りが大変だ、と心地良く思う。
「ねえ先生、お昼、食べていらした?」
「いや、食べてない。最近どうも食欲が無くって」
「ダメよ、ちゃんと食べなくちゃ。そうだ、私、作りましょうか」
「そんなに気を使わないでいいわよ」
 アンジェラは苦笑した。
「言ったでしょう、一人は寂しいって。久しぶりにこんな昼間から喋ったんじゃないかしら。料理本とか良く見るけど、実用出来なくて困ってるのよ」
「そう、じゃあお言葉に甘えちゃおうかしらね」
「ヘルシーでとびきり美味しいのを作りますよ」
 言ったとおり、ベルが作った料理は上出来なものだった。ベルの誘うままに、彼女達は昼間から酒を開け談笑した。アンジェラはその間、
ベルの仕草や声、瞳の色を目の前にして、郷愁に浸った。
「ご主人は、何処に勤めてらっしゃるのかしら」
「貿易関係らしいわ。私は彼の仕事の事あまり知らないし、彼も話さないからよく分からない」
「さぞ忙しい日々でしょうね」

13 名前:No.03 ミセス 2/4 ◇ZRkX.i5zow[] 投稿日:07/11/17(土) 15:46:03 ID:afbGiAnY

「ええ、まあ、夜はいつも遅いですけども、ずっと待っています。うちは子供もいないから、ずっと本を読むかテレビを見つめているだけ
ですよ。ああ、最近は編み物も始めた。冬を越す前に出来たら良いけど」
「幸せそうね」心からベルの幸福を喜んでいるように頷いた。
 食事の後にはアルコールの匂いがかすかに残り、ベルは皿を引くとキッチンから問うた。「先生、紅茶はミルクかレモン、どうします? それとも
ジャムをいれる?」
「ミルクでお願い」
 やがてベルは三角形に切られたアップルパイとカップを持ってきた。皿とカップをテーブルに置いて、それぞれに渡す。
 アンジェラはふと横を向き、窓ガラスから外の様子を眺めた。空からは再び白い綿が舞い降りてきていて、彼女はそれを確認すると改めて切り出した。
「いきなり、こんな風に訪ねたりしてごめんなさいね」
「いえ、先生、そんな。私もこうして会えてとても嬉しいわ」」
「心の荷が少し下りたわ」アンジェラはクスリと笑った。だが、また少し悪びれるような素振りで「でも、あなたにとって辛くはなかったかしら」
「そんな……先生との思い出は楽しいものばかりだった。先生からの手紙が来た、と実家の母から聞いた時は胸が弾みました」
「ご実家の住所が変わってなくてホッとしたわ。それにずっと不安だったもの、手紙を出しても、あなたに見てもらえるかどうか。私も返事が来た
ときはとても嬉しかった」アンジェラは微笑み、紅茶に手を伸ばした。「おいしいわ、これ」
「……確かにね、恐かったし不安もあった。いえ、少し所では無いわ。だからいても立ってもいられずに駅まで言って先生の事を待った」自分の事
をさもおかしそうに言った。
「私、予定の三十分前からあそこにいたんだから」
「それは悪いことをしたわねえ」
「そんなつもりじゃありませんよ」ベルはアップルパイをかじった。「これ、どこのですか?」
「自家製よ」
「まあ、お上手」
 アンジェラもパイを口に運ぶ。
「ちょっと甘すぎたわねえ、やっぱり」
「私、これくらいが丁度いい」
 会話は途切れ、しばらくヒーターのモーター音、風を送り出す音、パイをかじる音やカップを置く音が二人の間に大きく響いた。
「先生は今もピアノを教えてますの?」
「ええ。子供達は皆、あなたみたいに素直で良い子」
「素直……」ベルは呟き、ふと気付く。「先生、おかわりは?」
「ああ、うん、お願い」

14 名前:No.03 ミセス 3/4 ◇ZRkX.i5zow[] 投稿日:07/11/17(土) 15:46:23 ID:afbGiAnY
 ベルは二人のカップを持ってキッチンに再び引っ込んだが、アンジェラが大きく深呼吸するうちに戻ってきた。今度はレモンティーを淹れて来た。
 やがて、ベルが「うん」と一人でうなずく。
「……でもやっぱり、今も不安はあるわね。ごめんなさい先生、自分でもよく分からないけれど……」
 アンジェラはしばらく俯いて、考えるように言った。
「ベル、自分に正直ならそれで良いわ。一人で考えこむよりはずっとね。何も悪いことじゃない」
 ベルは語る。
「本当はね、先生、なかなか話す決意がつかないけれど……うん、本当にピアノを楽しんでたわ。それは良い意味じゃなくて、ひねくれた意味でね。
素直どころか、他の子には悪いけど、コンクール獲ってもなんの感慨も湧かなかったわ。皆がレベル低いだけだって。先生の指摘や注意だってよく
聞くふりしておきながら内心は知らんぷり。今から思うと全部正しくて、自分でも知らず知らずの内にやっぱりそれを聞いてたと思う。素直じゃないわね」
 アンジェラはうなずいて、続きを促した。
「あの事故が起きてもね、最初はなんて事ないと思ってたわ。でも違うのね。先生も知っての通り、何も弾けない。指は普通に動くのよ。今でも、
ほら、こうして動く。でも健が叩けなくなって私は打ちひしがれた。妖精とかあの時は持てはやされたけど、まさに地に落ちた。私、思ったより
ピアノに依存してたのね。自分の事がまるでつかめなかった、まぬけな子供」
「子供は皆そうよ」
「いいえ、違う。うぬぼれてた事も事故にあってさえ気付かなかった。そんな状況になって尚ね。それから私は幼な心に決めた覚えがある。二度と
大事なモノなんて作らないって」
 ベルはこめかみの辺りを押さえて続ける。
「でも、やっぱりそんな決意も無駄だわね。私は少なくとも女であった。ちゃっかり旦那にベッタリ。私、彼の事が本当に好き。彼が浮気したら
拳銃を握るかもね」
 もちろん冗談のつもりで言ったに違いない。しかしアンジェラも、言った本人も笑わなかった。
「今は少し賢くなった。だから恐い。今こうして先生に話すことさえ嫌だわ。手紙が来てからずっと覚悟してたけれど、うん、やっぱりダメね」
「私あなたの事をずっと考えてたわ。そりゃあそうじゃない、映画になるわよ、これ」
 場を和ませる為か、アンジェラは笑った。
「今はね、彼に依存しちゃってる。ピアノの代わりじゃないけれど、大切なものはやっぱり失いたくない。そう考えるとね、永遠に十五歳で
よかったのかもしれないわ、でも今の私はピーターパンが存在しない事を知っている」
 アンジェラはレモンティーの香りを嗅いで、それだけしてカップを戻した。
「こうして幾年か経て貴方の気持ちが知れて良かった。それだけでもここに来た甲斐があったというものね。けれど、一つ良いかしら」
 アンジェラはベルの瞳をしっかり見据えた。
「この家に、ピアノはあるの?」
 ベルはハッとして目を見開いた。手を前に突き出しながらかぶりを振る。

15 名前:No.03 ミセス 4/4 ◇ZRkX.i5zow[] 投稿日:07/11/17(土) 15:46:44 ID:afbGiAnY
「ええ、ええ、あるわ。あるけど、でも、それは違う」
 息を吐いて、アンジェラは破顔した。
「良かった、あるのね」
「あるけども、それとこれとは違うわ。私、弾けないもの」
「このままで良いの? 弾けなくなったら、また一から弾けばいいじゃない」
「先生……」
 ベルはブロンドの長い髪をかき上げた。
「ピアノは今、どこにあるの?」
 ベルはその方角を見上げ、
「二階の、私達夫婦の寝室の隣……長い事入ってもない」
「ベル、あなたまだ心の隅のどこかにピアノが引っかかってるんじゃない。あなたは依存してると言ったけれど、それはいい事だとは思わない?
あなたはさっきから何も間違えてないわ」
 アンジェラは立ち上がって手を差し伸べた。
「行きましょう。私もいつまでも恐がられたらたまんない」
 ベルはゆっくりと立ち上がり、アンジェラの手をつかみ、一緒に階段を上った。
 その部屋は、一番奥、廊下の突き当たりにあった。ベルがドアノブを回して戸を開くと、エアコンが効いていないのでひんやりした空気が流れ
ていた。部屋の真ん中にグランドピアノが置いてあるだけの、まさに専用部屋と言って良かった。
「立派なピアノじゃない」
 アンジェラはイスを引いて、ベルを促した。ベルはゆっくりと応じる。右手だけを鍵盤に乗せる。そして静かに鍵盤を押した。ポーン、と音色
が響く。長らく調律されていない事がアンジェラには分かったが、ベルの後ろで黙って見守っている。ベルは右手で、ピアノを習い始めたばかり
にやるようなバイエルを弾いた。徐々にリズムよく、複雑になって、左手が加わり、ペダルを踏む右足も加わり、やがて上級者向けのバイエルを
弾き出す。時々つっかえて、その度にやり直したが、四度目にミスを犯した時、ピタリと指を硬直させ俯いた。ベルは顔を覗き込もうとしたアン
ジェラに涙声で呟いたのだった。
「ねえ先生、私、間違っちゃないわよねえ?」


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