143 :No.29 また来年 1/5 ◇ZchCtDOZtU:07/11/11 23:56:14 ID:5abG7Ca1
「ねぇ、パパ。カブトムシ取れる?」
隣の助手席に座る拓也は目を爛々と輝かせながら俺の顔を覗き込む。
「あぁ、きっとスゲー取れるぞ」
愛車のミニクーパーに揺られること約二時間。夏樹の実家に来るのは五年ぶりだ。最後に来たとき拓也はまだ三歳だった。
親子二人で夏樹の実家を訪れるのは二回目。でも昨夜聞いたところ、拓也本人はあの頃の事を覚えているはいなかった。
だから拓也にとってはこれが初めての祖父母との対面だ。ちゃんと業に良くしてくれるだろうか。それだけが心配だ。
夏樹の実家に着くと、義父母は庭先で何やら作業中のようだった。車の俺に気が付くと作業の手を止めて、こちらに近づ
いてくる。
車を庭の脇に止め降りると、義父母は心地よい位に作業焼けした肌に白い歯を浮かばせながら、ニッコリと俺たち親子に微
笑んだ。
「おおぉ、拓也大きくなったなぁ」
とは義父。
「健太郎さんも疲れたろ。ほら、お疲れさん。遠いとこ良く来てくれたなぁ」
これは義母。二人とも七十歳を超えるというのに、その年齢を感じさせないほどしっかりした口ぶりと佇まいを見て俺は少し
だけ驚きと、戸惑いを感じてしまった。
「……随分ご無沙汰してしまって申し訳ありません。……ほら、拓也も挨拶しなさい」
「……こんにちわ」
自分の動揺を悟られまいとそうそうに挨拶を交わし、息子に挨拶を促す。拓也は俺の膝の後ろに隠れ、照れくさそうな、恥ず
かしそうな、そんな感じで初めて見る自分の祖父母に挨拶をした。
144 :No.29 また来年 2/5 ◇ZchCtDOZtU:07/11/11 23:56:31 ID:5abG7Ca1
「何年ぶりかねぇ、こうして来てくれるのは……」
「……五年ぶりです。本当にご無沙汰してしまって、申し訳ありませんでした」
義父母に最後にあったのは夏樹の三回忌に卓也とここを訪れて以来のことだった。
「もうそんなになりますか。夏樹が逝ってから八年。長いようであっという間だったわねぇ……」
義父母は作業を途中でやめ、俺たちを居間に案内すると極大のスイカをお茶請けにして歓迎してくれた。
初めて見る夏樹の実家に拓也は終始キョロキョロしっぱなしで、落ち着きのなさが目に付いた。しかし、小学生三年生の息子が
じっと出来る筈もなく、しかたなく俺は縁側でスイカを食べる事を許可した。
最近の近況の報告とか、他愛も無い世間話を続けていると、義父はどこからか持ってきた大きな虫取り網と虫かごを片手にし
て、縁側の先の庭にいた。
「拓也。お祖父ちゃんと虫取りに行こうか?」
拓也は右手にスイカを持ったまま、遠慮がちに俺に振り返った。「……うん。行っておいで」と俺が言うと元気よく「うん!」と頷き、
玄関に向かって駆け出した。
義父はこの日のために用意したのだろう、虫取り網、虫かご、麦藁帽子の振る装備の義父がニコニコと立っていた。
「すみませんお義父さん。宜しくお願いします」
「いやいや、これも孫だから。俺のほうが礼を言いたいよ」と言ってくれた。
「じゃ、パパ行ってきます!」
大急ぎで用意したのだろう、拓也は靴を片方トントンと地面に蹴りながら、自らも今日のために買った大きな麦藁帽子をかぶって
緊張と興奮とが混ざり合ったような表情をしていた。
「ねぇ、お祖父ちゃん。カブトムシ取れる? カブトムシ」
「あぁ、取れるぞー。いっぱい、しこたま取れるぞ!」
「本当!? やったぁ!」
そして拓也と義父は虫取りに行ってしまった。
145 :No.29 また来年 3/5 ◇ZchCtDOZtU:07/11/11 23:56:49 ID:5abG7Ca1
夏樹が亡くなったのは拓也が三歳のときだった。だから拓也は夏樹の事をほとんど覚えてはいない。拓也が知っている夏樹は写
真の中の夏樹ばかりだった。
夏樹は俺にとってはあまりに余って、お釣りがくるようなそんな良い女だった。
俺の安いナンパ文句に「バッカじゃないの?」の一言で俺たち二人は始まった。そして病床の夏樹が俺に最後に言ったのも「何泣
いてんの?……バッカじゃない?」だった。拓也を抱き上げながら涙の止まらない俺を屈託の無い笑顔で俺を見上げ、右の頬には
エクボ。左目の下にある泣き黒子を涙で濡らしながら、「……あの子の事、拓也の事、お願いね」と言ったときの笑顔は絶対に一生
忘れない。
その日、拓也はカブトムシを六匹、クワガタムシを三匹、オニヤンマを二匹、捕まえて満面の笑みで帰ってきた。小さな虫かごでは
収まりきらず、コンビニのビニール袋までが昆虫達で一杯だった。
そして、日が落ちた今は義父に連れられて、隣町の夏祭りに出かけていた。
俺の心配を他所に、拓也は今日のうちに、あっという間に義父に懐いてしまった。子供の適応能力というか、もともとが人懐っこい性
格なのか、ともかく良かった。
「ごめんなさいね、健太郎さん。お父さんたら、はしゃいじゃって。孫と貴方が着てくれたのがよっぽど嬉しかったんでしょうね」
「いえいえ、そんなことありませんよ」
そう言いながら、縁側に座っていた俺に義母は本日二玉目の極大のスイカと瓶ビールをお盆に載せてやってきた。
夏樹に兄弟はなく、一人っ子だった。だから義父母にとっても拓也はたった一人の孫だ。だからお義父さんも楽しくてしょうがないの
だろう。
遠慮なく俺はビールを煽る。月明かりが眩しいほど俺を照らし、普段の我が家のアパートからでは想像できないような満天の星空の
下俺は一人、月明りの中、縁側で義母に出されたスイカをかじっていた、その時だった。
先刻までの蒸し暑い風の代わりに真夏にはふさわしくない、スーっと吹き抜ける様な爽やかな、いや、どちらかと言えば寒気がする
ほどの冷風が吹き去る。スイカの種を縁側の外にプッと飛ばそうと顔を上げると、目の前にセーラー服の少女が現れた。
透けるような真っ白な肌、ショートカットの透けるような黒髪。真っ直ぐに俺を見つめる瞳までが、透けるような透明な存在
見たことのあるような制服だ。そうだあれは夏樹の遺品を整理したときに見つけた。夏樹の高校生のときの写真の一コマ。それをその
まま抜き取ったような、そんな格好。見覚えが無いはずは無い、その制服はかつて夏喜が着ていたものだ。正確には夏樹の通っていた
高校の制服だ。
146 :No.29 また来年 4/5 ◇ZchCtDOZtU:07/11/11 23:57:11 ID:5abG7Ca1
目の前に現れた少女は、屈託の無い笑顔で俺を見下ろしていた。見間違える筈が無い、左目の下にある泣き黒子。
「……な、つ……き?」
そう言うと、少女はニッコリと微笑んだ。そして、右の頬にエクボが出来た。
「夏樹か?」
「……やっほ!」
「……いや、お前、……何で?」
それは、そうだ。死んだはずの人間がなんで? いや、本当に夏樹か? 一瞬のうちに湧き上がる疑問に夏樹は一言。
「うーん。よく判んない。」
あーそうですか。判りました。よく判んないことが、よーく判りました。
「健太郎さん、どうかしました?」
義母が縁側で騒ぐ俺たちをいぶかしがって、隣の居間から縁側に座る俺に顔を覗かせる。
「あっ! お義母さん! 夏樹が……」
そこまで言って、夏樹を見ると右手の人差し指を口元に上げて「シッーーーー!」と合図を送ってくる。
「夏樹がどうかしました……?」
「あ、いや、……すいません。何でもないです」
義母は、変な顔をしながらも居間のテレビに再び向き合ってくれた。
「どうして?」
「うーん、まぁ良いじゃんそんな細かい事。それより健太郎、老けた?」
「ああ、お蔭様で。つーかお前は若返ったな」
「まぁね。可愛いっしょ? 高校の制服なんて何年振りかしら?」
「まぁ可愛いけど……。なんで高校の制服? 本当に夏樹?」
そう言って右手を伸ばし、夏樹の頬に触れようとすると、伸ばすが、右手は何も無い虚空をスッと撫でるように突き抜けた。
「無理だよ。だって私、死んでるし」
屈託の無い、子供のような笑顔で微笑む夏樹。
「私の実家には何泊するの?」
「あー、今日だけ。一泊の予定。本当に透けてるんだな。幽霊?」
「まぁーね。すごいっしょ?」
147 :No.29 また来年 5/5 ◇ZchCtDOZtU:07/11/11 23:58:24 ID:5abG7Ca1
「でもね、今日だけなの。会えるのは。明日になったら無理。何で今日なのかは判らないし、どうにもならない。神様がくれたの、今日この
時間だけを……」
その後に会話は続かなかった。話したい事は山ほどあるし、聞きたいことも山ほどある。でもそれは聞いたところでどうにもならないし、話
したところで何にもならない。
ずっと一晩中縁側で俺たち二人は、俺たち夫婦は無言のまま見詰め合って、たまに俺がビールを飲んだりスイカをかじりながら夜明けま
で、ずっと一緒に過ごすした。
気が付くと朝になっていた。縁側に座った状態のまま俺は寝ていた。俺は夢でも見ていたのだろうか。ビールで酔っ払っていたのだろうか。
でもそれは違うと確信した。だって俺の隣には夏樹の温もりが残っていたから。アイツの笑顔が俺の瞳に焼き付いていたから。
そして夏樹が最後に言った言葉を思い出す。「また、来年ね。じゃーね、死ぬほど大好きだよ。バカ……」と夏樹は言っていた。
朝日が昇ると俺は夏樹の実家から見える風景を、持ってきた一眼レフのカメラで写真を取った。そこには、ただの田園風景が写っているだけ
だった。でも何故だか判らないけどセーラー服姿の夏樹が写っているような気がした。
でも、なんで夏樹はセーラー服姿だったんだろう?
昼過ぎに俺たち親子は夏樹の実家を後にした。バックミラーには遠くで手を振っている義父と義母の姿が写る。拓也も助手席の窓を全開
にし身を乗り出して手を振っている。
「楽しかったか?」
まだ身を乗り出して、手を振っている拓也に聞く。すでに義父母達の姿は遠くに豆粒ほどの大きさになっていた。
「うん! 来年も、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会いに来ようね?」
「あぁ、必ずな」
「あと、また会えるかな?」
「あぁ、またきっとな……」
拓也の質問に上の空で答えながら、ミニクーパーのアクセルを吹かし、俺は夏樹の故郷に別れを告げた。
また来年来るよ。夏樹に会うために。そして開口一番、こう言ってやるんだ。
「セーラー服もいいけど、歳を考えろよ」と……。
<終>