【 君と歩く道 -stand by you- 】
◆AouaI4MH8c




87 :No.20 君と歩く道 -stand by you- 1/8 ◇AouaI4MH8c:07/11/11 19:29:51 ID:5abG7Ca1
 高崎さんちの千佳ちゃんが亡くなった。そう実家の母から連絡があったのは、まだ梅雨の明けない六月下旬のことだった。
 平日の昼休み。学食で友人と昼食を食べていた俺は、どんぶりに半分ほど残ったカツ丼と引き換えに午後の講義の代返を
友人に頼み付け、しとしとと降り続く雨の中、傘も差さずに自転車をこぎ出した。学食から自宅アパートまで五分弱の距離が
そのときばかりは永遠に感じられるようで、信号の色も、水たまりも、道行く老婦人の歩みの遅さも、すべてがもどかしく映った。
ポケットの携帯が震え、着信を伝える。母からだろうか? それとも――いや、そんなことはどうでもいい。ペダルの回転をさら
に速める。今すべきことを見誤るな。そう自分に言い聞かせて、ただ疾走する。
 アパートに着いた俺は自転車から文字通り飛び降りて、それが倒れる音よりも早く階段を駆け上がり、靴を脱ぐよりも早く自室
へと飛び込んだ。四月に買ったばかりの灰色のカーペットを、靴底の泥水が染めていく。コーヒーとかこぼすんじゃないよと、母に
あれほど言われていたのに、ほんの二ヶ月ちょっとでこの結果では笑われてしまうだろう。
 そう、ほんの二ヶ月。
 まだ二ヶ月しか経っていないというのに、 “彼女” は俺を故郷へと呼び戻そうとしている。
 あの日、自宅前の道路に出て俺を見送った彼女は、最後まで笑顔のままで手を振り続けていた。少しは泣けよ、寂しがれよなど
と思いながらも俺は、見えなくなるまで手を振り返してやった。
『たまには帰ってきてねー、健くーん!』
 それが俺が生で聞いた最後の言葉だった。翌週、検査のため隣町の病院に入院した彼女は、四月の半ばに突然血を吐いて倒れたという。
 そして今日まで、再び目覚めることは無かった。
 俺は机の引き出しから、何度も眺めた白い便箋を取り出す。引越しの後片付けの最中、病床の千佳から届いた最初で最後の
手紙は、震える字でこう締めくくられていた。
『心配しないで、健君。私は大丈夫です。また八月の夏休みに会えるのを楽しみにしています』
 俺はその言葉の意味をもう一度かみ締める。コンクリートを叩く雨の音が窓越しに響いてくる。予報では午後から晴れ間が覗く
と言っていたが、そんな様子は一向に見られなかった。
 雨に濡れたTシャツを着替えて、旅行かばんに荷物をまとめ始める。室内は呆れるほどに蒸し暑く、汗が頬を伝い流れていった。

 予想最高気温は二十五度。
 夏が、八月が、すぐそこまでやって来ていた。


                     【週末品評会84th投稿作品『君と歩く道 -stand by you-』】


88 :No.20 君と歩く道 -stand by you- 2/8 ◇AouaI4MH8c:07/11/11 19:30:20 ID:5abG7Ca1
 一九XX年八月。俺、十二歳。
 
 遊びから家に戻った俺は、台所にいる母の元へと急ぎ駆けていった。
「母ちゃん母ちゃん母ちゃーん!」
「何だいこの子は、騒がしい」
 母は呆れ顔で俺を一瞥しただけで、再び皿洗いに戻ってしまった。そんな場合じゃないんだと俺は母の腕を引っ張る。
「おおお俺……幽霊見ちゃったかも!」
「幽霊だって? 昼間っからバカバカしい」
「ホントだってば! 道の向こうの方に真っ青な顔した知らない女の子が立っていて、こっちを見るなりにたぁと笑って――」
 俺はほんの数分前に見た光景を余すところなく説明した。白い肌、麦藁帽子に白のワンピース。その少女は、どことなくこの
世のものとは思えないような雰囲気をかもし出していた。しかし母は冷静な声で一言。
「ああ、そりゃあ高崎さんちの千佳ちゃんじゃないのかい?」
「千佳、ちゃん?」
 高崎さんというのは俺が生まれた頃、隣の家――とはいえ畑一つぶん離れているが――に住んでいた夫婦で、昔はよく取れた
野菜などをおすそ分けに来てくれていたらしい。しかしここ数年、その姿を見かけることはほとんどなかった。噂では最近まで
東京に移って生活していたという。
 そして先月、「またお世話になります」とお中元みたいな洗剤のセットを持ってあいさつにやって来た。そこで俺は初めて、高崎
さん夫妻のことを知った。その疲れたような表情が、やけに印象に残っていた。
「へぇ、高崎さんちに子どもなんていたのか」
「まあ健吾が知らないのも無理ないかもしれんねえ。あまり外に出られないみたいだし」
「えっ?」
「詳しくは知らないんだけどね、東京の病気で長いこと入院していたみたいよ。先天性の病気で」
 冷蔵庫から出したアイスをほお張りながら、俺は母の話に耳を傾けた。
 蝉の鳴き声がやかましく、耳に響いていた。

 二本目のアイスに手を出そうとするのを母にとがめられた俺は、再び外へと飛び出していった。相変わらず蒸し暑く、蝉の声も
止まない中、俺は舗装もされていないあぜ道に立ち、千佳というらしい先ほどの女の子を探す。意外なことに、彼女はすぐに見つかった。
「こんにちは!」
 目線よりもさらに低い位置から話しかけられた俺は一瞬声のする方向に迷い、それから視線を少し下へとずらす。キュルキュルと
車椅子のタイヤを回しながら、千佳は足元に近づいてきていた。

89 :No.20 君と歩く道 -stand by you- 3/8 ◇AouaI4MH8c:07/11/11 19:31:11 ID:5abG7Ca1
「もしかして、お母さんの言ってた『隣の家の健吾君』かな? 初めまして、私――」
「ああ、えーと、その……」
 俺は思わず一歩引いてしまう。小学校に女子は合わせて八人いたが、みな下級生か上級生ばかりで、千佳のように同年代の
女の子と話すのは生まれて初めてだった。だからこその照れがあったのかもしれない。
 引き下がる俺につられるようにして千佳の車椅子が前へと進む――が、突如としてバランスを崩し、前方へと倒れかかった。
「きゃっ」
「危ない!」
 とっさに彼女の身体を支える。その軽さに驚いたのもつかの間、恥ずかしさからすぐに飛びのいてしまう。
「ごっ、ごめん」
「ううん、大丈夫。ありがと」
 千佳の足元を見ると丁度タイヤの引っかかったところを境として、道の様子が変わっていた。俺の家の前から千佳の家の前までの道が、
平坦に慣らされている。もっとも、それ以外の場所では軽トラックの轍が残り、雑草も生え放題のままだった。
「お父さんがね、平らにしてくれたの。家の周りだけでも車椅子で自由に遊べるようにって」
「へぇー、凄いなあ。ところで……その足、悪いの?」
 最初に見かけたとき彼女は自分の足で立っていたはずだ、と疑問に思った。
「違うの。ずっと病院のベッドの上で寝てばかりだったから、あまり長い間立ってられないだけ」
「そうなんだ……」
「正直車椅子でもあまり長い間座ってられ……うっ……」
 千佳は突然胸を押さえ、苦しみ始めた。「誰か、誰かぁ!」と俺は山びこが返るほどの大声で助けを呼んだ。一分も立たないうちに千佳の
お父さんが走ってくる。父親の背中に背負われて千佳は高崎家へと向かう。俺は残された車椅子の運び役となった。
 三十分後。薬を飲んで落ち着きを取り戻した千佳をベッドに寝かせ、千佳のお母さんがオレンジジュースとお菓子を出してくれた。
「どうもありがとう」 そう俺に言って両親ともども笑顔を見せるが、すぐにまたいつもの疲れたような表情に戻ってしまう。
「千佳ちゃんは、大丈夫なんですか?」
 俺は気遣うつもりで言ったのだが、あとになって考えると残酷な質問だったと思う。千佳の苦しむ様子はどうみても「大丈夫」とは言えないものだった。
「正直ね、健吾君。千佳は長くは生きられないと医者に言われてるんだよ。ここに戻ってきたのも医者が勧めたからなんだ。病院以外の空気を吸えば、
何かが変わるかもしれないって」
 つまりはもう病院では出来ることはありませんってことさ、と千佳のお父さんは苦笑する。
 俺はなんと返したら良いのかがわからずにいた。結局相槌を打つのが精一杯のままで、俺は高崎家を後にした。
 帰り際「また明日、と千佳ちゃんに伝えてください」と言うと、二人は驚いたような顔をした。
「千佳と、また遊んでくれるのかい?」 千佳のお父さんが言う。

90 :No.20 君と歩く道 -stand by you- 4/8 ◇AouaI4MH8c:07/11/11 19:31:46 ID:5abG7Ca1
「え、はい。俺なんかでいいなら。夏休み中はずっと暇だし」
 そう何気なく言うと「ありがとう」と何度も感謝されてしまった。俺の頭の中を、はてなマークがいくつも飛び交っていく。

 こうして俺と千佳は出会いを果たした。「運命の出会い」と呼ぶには大げさ過ぎる、ありふれた夏の日のことだった。

                              〜・〜
 特急と鈍行列車を取り次いで、地元の小さな無人駅のホームに降り立つ頃には、既に日がだいぶ傾いていた。
 俺は迎えに来た父親の車に乗り込んで家へと向かう。途中、道がコンクリートからあぜ道へと変わるのを感じ、
帰ってきたんだなとようやく実感することが出来た。大学のあたりでは未だに降り続いているであろう雨も、ここ
まで北上してくるうちにすっかり止んでしまい、空も大地も夕日に染まりつつある。
 俺は車での移動中、終始黙り込んでいた。父もそれを察してくれたらしく、特に何も言わずに車を走らせていた。
「おかえりなさい」
 実家の前で母が出迎えてくれた。「ただいま」とようやく口を開くと、「おかえり」と父もようやくそれを言葉にする。
 俺は荷物を置くとすぐに喪服に着替えて、高崎家へと向かった。

「よく来てくれたねえ。大学が忙しいだろうに」
 そう言って千佳のお父さんは、縁側の俺の隣へと腰かけた。俺はオレンジジュースとお菓子を出してもらった。初めて訪れた日と、
何ら変わりはない。――ただ一点を除いては。
「……千佳は、最期まで幸せそうな顔をしていたよ」
「そう、みたいですね」
 千佳には先ほど奥の部屋で会わせてもらった。うっすらと笑みすら浮かべて、眠るように横たわる彼女の表情は確かに「幸せな最期」と
呼ぶにふさわしいものだった。
 千佳のお父さんは話を続ける。その表情は、相変わらず落ち着いたままであった。
「千佳はやっぱり健吾君と居るときが一番楽しそうだったなあ。君が大学に行ったあとも、千佳は倒れるまで毎日のように君の話をしていたよ。
『健君が帰ってくるまでにもっと元気になって、今度こそ『杉の木の向こう』に連れてってもらうんだ』ってね」
「…………」
 俺は一本杉のある方向を眺めやる。高崎家と俺の家を繋ぐあぜ道。俺の家を通り過ぎてさらに向こう、ちょうどその木の手前辺りで道は大きく左にそれていた。
 そこから先に行くことを、千佳はずっと望んでいた。
「おぶっていこうか、車で行こうか、と何度も提案したが、その度に千佳は『自分の足で行く』と言ってかたくなに拒んだんだ。
――結局どうして千佳があの場所に自力で行くことにこだわるのか、私にはわからずじまいだったよ」

91 :No.20 君と歩く道 -stand by you- 5/8 ◇AouaI4MH8c:07/11/11 19:32:42 ID:5abG7Ca1
 娘の気持ちもわからないようじゃ父親失格だな。そう言って千佳のお父さんは苦笑し、煙草に火をつけた。
 優しそうで、しかし少し疲れたような表情は昔から変わらない。怒っている姿などほとんど見たこと無いくらいに温厚な人だった。

 けれど一度だけ。
 一度だけ俺は、千佳のお父さんにひどく怒られたことがある。後にも先にもそれっきりのことだった。

                              〜・〜
 その事件は千佳と会って二週間ほど経ったある日の夕方、千佳の何気ない一言から始まった。それまで俺は蝉を捕まえて見せたり、
学校のことを話したりして千佳と過ごしていたのだが、それだけではやはり千佳を退屈させてしまったのかもしれない。
 会話が途切れ、南風が吹き抜けていった直後、千佳は車椅子の向きを時計回りに九十度変えた。
「ねえ、健君。この道ってあの木のところで曲がって、そこから先はどうなっているの?」
 そう言うと彼女は、俺の家の向こうにある一本杉のあたりを指差した。
 すぐに本当の答えを教えてあげても良かった。しかし俺はあえて別の解答を用意する。
「……行ってみたいか? 向こうまで」
 ちょっとした好意のつもりだった。千佳はここに越してきてからまだ、この舗装された十数メートルのことしか知らない。森、川、沼地と、縦横無尽に
遊びまわる俺にとって、彼女が生きる世界はあまりにも小さく見えた。だからせめて、あの一本杉の向こうまでその世界を広げてあげたい。そう思って
俺は平坦な道のその先、轍へと車椅子を進めた。千佳は最初、不安げに俺を見つめていたが、すぐに前を向いてその先の世界に心躍らせているようだった。
 少しずつ、少しずつ。車椅子はゆっくりとではあるが、轍や雑草を乗り越えて進んでいく。千佳もそれに合わせて、自分の世界を広げていく。
 そしてそれは、無理やりに車輪を進め始めてから数分が経過したときのことだった。周囲はだんだんと日が落ちてきて、千佳が「もう今日は
帰ろう」と言いかけたその瞬間、
 視界に差し込んできた夕日が、車椅子の操作を誤らせた。
 轍にタイヤを取られ、車椅子が横倒しになる。千佳が路傍の草むらへと投げ出される。痛い、痛いと千佳が声を上げる。
 まずい、千佳を助けないと――。しかし所詮は子どもの腕力。ここまで押してくるだけで体力をかなり消耗していた俺には、もはや彼女を助け
起こす力は残っていなかった。
 俺は助けを呼びに千佳の家へと走った。何故最初に会った日のように、大声で助けを呼ばなかったのか。何故彼女をその場に一人で残した
のか。疲れと焦りが、判断力を鈍らせていた。
 千佳の叫ぶ声が聞こえる。「待って、健君待って! 一人にしないで!」 しかし俺は、千佳の叫びを無視して走り続けた。
 俺のせいで、俺のせいで千佳は……! 後悔だけが、頭をよぎる。
 そして数分後、千佳のお父さんを連れて戻ってくると、千佳はぐったりと草むらに横たわっていた。その身はかすかに震え
ていて、「一人にしないで、一人にしないで……」とうわごとのようにつぶやいている。

92 :No.20 君と歩く道 -stand by you- 6/8 ◇AouaI4MH8c:07/11/11 19:33:17 ID:5abG7Ca1
 千佳のお父さんは俺を草むらへと突き飛ばした。そして山びこが返るような大声で言う。
「どうしてこっちの道に来た? 家の前だけだと何度も言ったじゃないか!」
 俺は何も言えずにただうつむくばかりだった。怖くて顔を見ることが出来ない。しばらくそうしていると、千佳のお父さんは無言で
千佳を背負い、車椅子を押して去っていった。俺はその場で一人、暗くなるまでうずくまり、声を殺して泣いていた。
 その日から三日間、俺は熱を出して寝込んでしまった。その間布団の中でずっと、千佳のことを考え続けていた。
 そして熱が引くと、俺は真っ先に高崎家へと向かい、玄関先で千佳の両親に何度も頭を下げた。もう会わせてもらえないかも
知れない――そう考えていただけに、千佳が出てきたときは嬉しさのあまり文字通り飛び上がってしまった。
 俺は真っ先に、千佳に伝えたかった言葉を口に出す。
「ごめんなさい!」「ごめんなさい!」
 二人の声が重なった。一瞬の沈黙の後に千佳の両親が笑い出し、そして俺と千佳も思わず笑い始めた。
 もう轍の方には行くなよ、と再度念を押されて、俺と千佳は再びもとの遊び場へと戻ってきた。そして千佳は、車椅子の上で宣言する。
「私決めた。あの道の向こうには、いつか自分の足で行く」
 俺が頼りないせいだろうか――そう考えて落胆するが、千佳は全力でそれを否定する。
「違うのっ。誰かの力に頼るんじゃなくて、自分の力で行きたいってだけ。だってこの道の向こうには、新しい世界がどんどん広がって
いるんでしょ? 必死になって車椅子を押す健君を見てたらわかったの。私自身が頑張んなきゃ、道は開けないって」

                              〜・〜
 あの頃と同じひぐらしの声が耳に余韻を残す中、長い沈黙を破って俺は言った。
「千佳に……嘘をついてたんです」
「えっ?」
「あの道が一本杉のところで曲がって、それからどこまでも続いているって。嘘をつきました。道に終わりがあると知ってしまったら、
歩みを止めてしまうかもしれないと思ったから、それで――」
 俺が何とか説明しようとする中、震える声で何事かが呟かれる。
 言葉の意味が読み取れずに俺が黙っていると、今度ははっきりとした声で「ありがとう」と告げられる。
「千佳は……十二歳の時点で既に、余名幾ばくもないと医者から言われていた。その命を今日まで繋ぎとめていたのは、
君のささやかな嘘だったのかもしれない。ありがとう……。本当にありがとう……」
 千佳のお父さんは――泣いていた。この十数年間、逆境ばかりを経験してきて、それでも俺の前では決して泣き顔を
見せなかった人間が、娘を失った今、初めて涙を見せている。その姿に、俺も自然と感極まりそうになる。
 それでも俺は泣かなかった。まだ泣けない。やり残していることが一つあったから。
「車椅子を……千佳の車椅子を貸してもらえませんか? その、少し外を歩きたいんです」

93 :No.20 君と歩く道 -stand by you- 7/8 ◇AouaI4MH8c:07/11/11 19:33:49 ID:5abG7Ca1
 夕焼けが先の方から徐々に夜へと変化していくのを見て、俺は歩くスピードを少し速めた。車椅子のタイヤが轍に捕まってガタガタと音を立てる。
 去年の秋、彼女の最高到達地点に置いた石ころは、未だ道の真ん中に居座ったままであった。トラックが通るときに邪魔にならないのだろうか。俺は
それを避けながら、主人不在の車椅子を押していく。そしてその目印から何メートルも進まないうちに、一本杉の前へと差し掛かったことに気付く。
かつてあんなにも遠かった一本杉に、彼女はあと一歩のところまで届いていたのだとあらためて認識する。
 そう、あと少しだったのだ。
 あと少し――あとひと月あれば、彼女はこのあぜ道を踏破できていたかもしれない。そう思わせるくらいに、彼女の退院後の回復は
目まぐるしかった。雪解けがもう少し早ければ、俺が浪人して実家に残っていれば、あるいは彼女が八月まで頑張ったならば、
結果は違っていたのかもしれない。
 けれど、もはや全てが無意味な仮定に過ぎなかった。俺は車椅子に加速をつけて緩い坂を一気に駆け上る。
 あぜ道はその坂の頂上で終わっていた。

 そしてそこで見る。
 山の向こうに沈む夕日と、一面朱に染まる世界。
 あの日彼女に見せたかった、この辺りでは一番の景色を。

 小学生の俺にはあまりにも近く、そして遠すぎた世界。今となっては車椅子を押してでも難なく到達できる場所だった。
 しかしあの日、車椅子に乗っていた少女はもういない。少女の重みを失った車椅子は、大学生の俺にはあまりにも軽い。
 ――そう、彼女はもうどこにもいないんだ。
 それだけを確認した俺は、帰ろうと振り返り、ふと気付く。日はすっかり落ちて、電灯もないあぜ道はその趣を一変させていた。先の見えない道に、
俺は一瞬歩き出すのをためらってしまう。俺はこの先、誰を支えに『道』を進むのだろうか。誰を支えて『道』を進むのだろうか――。
 そう考えた矢先、
 どこからか “声” が聴こえる。

                             〜・〜
「また入院、決まっちゃった」
「またぁ? 半年前にしたばかりじゃねーかよ」
「お医者さんがね、『少し身体を休ませなきゃ駄目だ』って。あーあ、せっかくあの石のところまで歩けるようになったのに。
また体力落ちて逆戻りだよ」
「……わかった、今度こそちゃんと病気治してこい。それまで待っててやるから。それからまた一緒に特訓すればいい」
「本当? 本当に待っててくれるの?」

94 :No.20 君と歩く道 -stand by you- 8/8 ◇AouaI4MH8c:07/11/11 19:34:54 ID:5abG7Ca1
「本当です。俺を信じなさい!」
「だって……だって健君、来年の春から高校生じゃない。勉強とか忙しくなって、あまり私にばかり構ってられなくなるんじゃないの?」
「相変わらず心配性だなあ、千佳は。俺が大丈夫だって言ったら大丈夫なの。勉強なんてほら、俺バカだからどうでもいいし」
「じゃあバカの言うことは信用できませーん」
「ちょ、お前なあ……」

 中三の十月に始まった千佳の入院は、結局高校二年の十月までかかり、その間俺は図らずも勉強漬けの毎日を送ることが出来た。
 医学部を目指そうと思ったのは、別に千佳のためとかそういうわけではなかった。バカにつける薬は高校にもあったが、千佳につける
薬は世界中探したってどこにもない。千佳にとっての医者は今の俺以上に、何の役にも立たない存在だと思っていた。
 にもかかわらず医者を目指したのは何故か。そう問われれば、「なんとなく」と答えるしかない。
 おそらく俺は医者になっても千佳を救うことは出来ないし、千佳は多分、俺が医者になるよりも早く死んでしまうだろう。お前が医者を目指す
のは単なるエゴに過ぎない――そう揶揄する人間もいるかもしれない。
 けれどそんな俺にも一つだけ、自信を持って言えることがあった。
 俺は、千佳と一緒に『生きる』ことが出来る。千佳と一緒に『歩く』ことが出来る。彼女の歩幅に合わせて、一歩、また一歩、踏み出して。
 彼女が転びそうになったら、支えてやればいい。 彼女が諦めそうになったら、そばに寄り添って励ましてやればいい。
 それでまた一歩進めるならば、一日でも長く生きられるのならば――俺は彼女とともに、このあぜ道を歩き続けてやる。

 十月、千佳が退院してきた。二年振りの帰還を俺は、学校をサボって出迎えてやる。「おかえり」と声をかけると、やや遅れて「ただいま」と力無い声が返ってきた。
 また振り出しか――そう言って千佳は俯きかげんになる。その背中を俺はそっと叩いてやる。
「あきらめんな、俺がついてるって」
 漫画のようなクサイ台詞に千佳は顔を紅潮させる。そんな彼女の可愛らしい仕草を、俺はそのとき、いつまでも目に焼き付けていたかった。



 高崎千佳。十八歳。
 俺の初恋の人は、もうこの世にはいない。
 彼女は俺の中で生きている。内面から俺を支えていてくれる。
 けれどもう隣にはいない人だった。そんな “彼女” とともに、俺は夜のあぜ道を歩いていく。

 夜風の冷たさに、俺はようやく涙を流して千佳を求めた。           〈了〉



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