68 :No.16 裏切り 1/6 ◇NyJmE7aLQA:07/11/11 12:21:59 ID:QDxDc4Ig
大量の水が、高所から轟音とともに滝つぼへと落ち込んでいく。立ちのぼる水しぶきが
滝の上部にまで届いていた。
全ての音をかき消してしまいそうな滝の落水音だったが、そこに一つの異音が混ざった。
激しい騒音に紛れて、何かが破裂したかのような大きな音が滝の底から響いた。
そして、私はその場所で歩みを止めた。
見渡せば、広がるのはのどかな田園風景。平和を体現したかのようなその優しい景色に
包まれて、私は恐怖で足が動かなくなってしまった。
何故、こんなことになってしまったのだろう。どうして、私は今ここにいるのだろうか。
全ての始まりは、友人の借金の連帯保証人になったことからだった。
連帯保証人の話を持ちかけてきたのは、私の大学からの友人で、本当に気の合う良い奴
だった。私は彼を信頼しきっていた。妻の春香も、彼のことは優しい良い人だと信じてい
た。あいつが私に借金を押し付けるなんて、そんなことは蟻の触覚の先ほども思っていな
かったのだ。
友人は、私が保証人になるための書類を書き上げると、その僅か一週間後に姿をくらま
せてしまった。
当然、借金の支払い責任は私のところへとやってくる。だが、友人が残した借金は、到
底私の安月給では支払えそうにない金額だった。家具を売り払い、それまで住んでいたマ
ンションから、安いボロアパートに移ったが、借金は一向に消える気配がなかった。支払
期限が過ぎて一週間が過ぎた頃から、借金取りが家に現れるようになった。最初は軽い脅
しだったのが、徐々に高圧的になっていく。彼らの脅しに命の危険を感じたのは、一回や
二回ではない。妻も借金を返すためいくつものパートを掛け持ちし、私も必死になって働
いた。
けれど、不幸とはよく重なって起こるものだ。もともと経営が怪しかった私の会社が、
改革の名の下に大勢の社員を一斉に解雇したのだ。私もその解雇組に入れられることにな
る。退職金は貰えたが、そのほとんどは借金返済のために使われた。
無職になった私は、すぐに再就職しとうとしたが、新しい職はそう簡単には見つからな
い。私の失業によって妻への負荷は増し、そしてまた、日々悪質になっていく借金の取立
てのせいもあってか、妻は体調を崩してしまう。
69 :No.16 裏切り 2/6 ◇NyJmE7aLQA:07/11/11 12:22:55 ID:QDxDc4Ig
もはや八方塞だった。いや、一つだけ、道はあった。家具など身辺の物を売りさばいた
とき、最後の手段として妻に内緒で残しておいたものがある。私の生命保険だ。私が死ね
ば、受取人である妻に多額の保険料が支払われる。その額は、借金を返すのに十分な金額
だった。
私は、この最後の手段を妻に話した。もうこれしか選択肢はない。だから、妻は私の提
案を呑んでくれると思っていた。だが、妻は首を横に振り、震える私の手を優しく両手で
包み込んで言った。
「あなたが死んでしまっては、私は生きていけません。あなたが死ぬというのなら、私も
共に逝きます」
最期の場所は、二人の思い出の場所にすることとなった。
私達が死に場所に選んだ所は、私達がまだ若かった頃、旅行で足を運んだ小さな村にあ
る滝にした。都心から遠く離れた、山々の合間にある小さな村。その村から少し山の中に
進んだところに、一つの大きな滝がある。
昔は観光客でそれなりに活気があった村だったが、今ではすっかり静かな農村となって
いた。最期の場所としては、静かでとてもいい場所だなと、私達夫婦は感じていた。私達
が昔来た頃に比べれば少し閑散とした景色になっていたが、それでも当時と変わらず残っ
ていたものも数多くあり、私達は最期の時を、懐かしい思い出と共に過ごした。村の宿に
泊まった私達は、翌日に備えて八時頃には、もう眠りについていた。
そして、翌朝。まだ日が昇りきっていない早い時間に、私達は宿を出た。出来るだけ誰
にも姿を見られたくなかったからだ。夏場でも山奥の村の早朝は、冬のように寒かった。
コートを首元まで閉じ、妻の肩を抱きながら私は歩いた。腕を回した妻の体は、異様に小
さく感じられた。砂利道を踏みしめるたびに、足音が田畑の上を駆け巡る。小鳥のさえず
りもまだ聞こえない。世界には、私と妻しか存在していなかった。
それまでの静けさが嘘のように、滝の周辺は騒々しかった。次から次へと水が流れ、喧
しい音を立てて眼下の滝つぼへと落ちていく。しばらくの間、私と妻は人形のように黙り
込んで、じっとその様子を見つめていた。どれくらい眺めていたのだろうか。気付けば、
木々の枝葉の間から覗く空の色が、夜の蒼から朝の青へと移り変わっていた。妻が深呼吸
をして、私の方を見た。
70 :No.16 裏切り 3/6 ◇NyJmE7aLQA:07/11/11 12:23:27 ID:QDxDc4Ig
私は、もう一度滝の底を確認した。
一瞬、時間が逆戻りしたかのような錯覚を覚えた。本来地面に向かって落下していくは
ずの水が、逆にどんどん上へとのぼって来ているように見えたのだ。それはまるで、一匹
の龍が滝つぼから這い出し、こちらへと襲い掛かってきているかのような光景だった。だ
が、その幻覚はすぐに消え去る。龍は途端に色を失い、形を崩して一本の水流となり再び
奈落の底へと堕ちていく。堕ちた先に待ち受けているのは、底の見えない暗い滝つぼ。
また、私は幻覚を見た。さっきは水が逆流してのぼって来ているように見えたが、今度
は滝の底そのものがせり上がってきているように見えたのだ。物凄い勢いで迫り来る滝つ
ぼ。ちょうどそれは、滝つぼへと落下している時と同じ景色なのだろう。自分が落下して
いるときのイメージ。突然、浮遊感が体を襲った。私は慌てて足元を確認したが、私の両
足はしっかりと地面を踏みしめていた。呼吸が荒くなる。体中から、冷や汗が滲み出てい
た。
私はもう一度、滝の底を見ようとしたが、体が全く動いてくれなかった。その時の私は、
自分の抱いた気持ちがなんだったのか、よく理解できていなかった。後になって考えてみ
ると、私はこの時になってようやく、死の恐ろしさに気付いていたのだ。
死の恐怖で思考がままならなくなった私とは対照的に、妻は全てを覚悟していた。私の
瞳を見つめて、妻は私の腕を掴んだ。それは、一緒にあの世に逝きましょうという合図。
なのに、私はあろうことか妻の腕を、まるで恐ろしい化け物から逃れるかのように、強引
に振りほどいてしまったのだ。思わぬ出来事に、妻の体勢が崩れる。妻の体はなすすべも
なく、宙へと投げ出されてしまった。
落ちていく妻が、確かに私の顔を見た。妻の顔に恨みや哀しみの色はなく、あったのは
何かを伝えようとする強い瞳の色だけだった。妻の瞳が何を私に訴えようとしていたのか、
今となってはもう知るすべはない。
妻が滝つぼに落ちる。妻の体が水面に叩きつけられた時の音は、まるで何かが破裂した
かのような高い音だった。そして、訪れる轟音の静寂。心臓が不必要なまでに血液を体中
に送り出そうとして、激しく脈打つ。私はその場から逃げ出した。
田んぼの間を縫うように続く一本の道。この道は、いずれ山の中へと通じ、最後にはあ
の滝へと行き着く。私が今立っている場所から滝までは、歩いて大体十五分くらいかかる。
私以外誰もいないこの一本道の上に、私はただ呆然と立ち尽くしているだけだった。
71 :No.16 裏切り 4/6 ◇NyJmE7aLQA:07/11/11 12:24:04 ID:QDxDc4Ig
妻が死んで、私は逃げ出した。けれど、この村の外までは逃げられなかった。逃げるわ
けにはいかなかった。私は最低なことをしてしまったのだ。十数年連れ添った妻を、死に
際まで共に過ごすと言ってくれた妻――春香を、私は裏切ってしまったのだ。
喉が渇く。息が荒くなり、手足がかすかに震えていた。
見上げれば青い空はどこまでも高く、通り過ぎる風に乗ってやってくる小鳥のさえずり
はどこまでも優しかった。なのに、私の眼と耳は昨日の出来事を再現する。落ち逝く春香
の、私に向けられた視線。そして、鳴り響く滝の落水音。一日経った今でも、春香の最期
の顔が深く脳裏に焼きついていた。
なんとしてでも、春香にした罪を償わなければならない。そのためには、私は一刻も早
く春香の後を追ってあの滝に飛び込まなければならないはずだ。なのに、私は今こうして、
道の途中で立ち止まっている。
滝に行くのが恐かった。死ぬのが恐かった。あの底なしの滝つぼを見下ろして、私は死
を直視した。そして、死の黒さに飲み込まれてしまった。
春香に対する懺悔の気持ちがありながら、自分は死にたくないという身勝手な感情を抱
く。そんな自分が恥かしくて悔しかった。利己的な考えを切り捨て一歩踏み出そうと決心
しようとするが、その度に心臓が爆発しそうなくらい強く鼓動し、手足が棒のように硬く
なっていく。そうして、日が沈み始めるまで何時間もその場に立ち続けた私は、小さな溜
息と共に踵を返して宿へと戻っていった。次の日も、そしてその次の日も、私は自分の無
力さに歯噛みしながら、あの道の上でかかしのように立ち尽くした。
私には、絶対的に勇気が足りていなかったのだ。
四日ほどが過ぎて、一人の女性が私に声を掛けてきた。私と同い年くらいの、明るそう
な女性だった。大きな麦藁帽子をかぶっていて、片手には竹を編んで作られた籠を持って
いた。籠にはいくつか山菜が積まれていた。
「どうされたんですか、こんなところに突っ立って。具合でも悪いんですか?」
心配そうに私の顔を覗きこんでくる女性。私は出来る限り平静を装って答えた。
「いいえ、大丈夫です。何でもありません」
「何でもないようには見えないわ。あなた、汗びっしょりじゃない」
72 :No.16 裏切り 5/6 ◇NyJmE7aLQA:07/11/11 12:24:48 ID:QDxDc4Ig
女性の言う通り、私の額には大量の汗が浮かび、服も半分以上が汗のせいで黒く染まっ
ていた。風邪でも引いているんじゃないですか、と女性は尋ねてきたが、私は、汗っかき
なんです、と苦しい言い訳を述べた。
「汗っかきって、普段からそんなに汗をかいていたら、それこそ病気ですよ」
「……確かに、そうですね」
「ふふ、変な人ね。本当に大丈夫なの?」
「はい。少なくとも、風邪は引いていません」
「……あなた、昨日もここに突っ立ってたでしょ?」
「え?」
見られていたのか。いや、当然か。人通りが少ないとはいっても、日に何人かはこの近
くを通る。一日中棒立ちしている人間が目撃されないわけがなかった。
「その前の日も。あなた、この村の人じゃないでしょ? 一体、何をしているの?」
女性は、ちゃんとした答えを聞くまでは離れない、といった好奇心に満ちた表情で私を
見つめてきた。どうしたものだろうか。私はしばらく考え、事実を歪曲させた話を彼女に
聞かせた。
「実は、つい先日私の妻が亡くなりました。妻が亡くなってしばらくの間、私は途方に暮
れていました。生前の妻のことがどうしても忘れられなかったんです。しかし、このまま
ではいけない。今後のためにも、私は妻の死を乗り越えなければならない。そう思ってい
たのですが」
私は、一本道の続く先を見た。
「この先に滝があるのはご存知ですよね? あそこは、私と妻との思い出の場所なんです。
最後の一度だけ、妻との思い出の場所を見ておきたかったんですが、果たしてそれで妻の
死を乗り越えることができるのか。もしかしたら、逆に今まで以上に妻に執着してしまう
のではないか。そう思うと不安になって、ここでいつも立ち止まってしまうんです」
説明する私の顔を、真剣な眼差しで見つめてくる女性。彼女は私の説明が終わると、軽
く一回息を吐いて、明るい声で言ってきた。
「大丈夫ですよ。実は、私も何年か前に夫を亡くしました。私もあなたと同じで、しばら
くの間魂が抜けたような生活をしていたんですけど、親や周りの人の支えがあったおかげ
で、今ではほら、山菜取りに精を出すまでに回復しました。愛する人の死はとても哀しい
けど、いつかは乗り越えられるものなんですよ。人間の神経って、結構図太いんですよ?」
73 :No.16 裏切り 6/6 ◇NyJmE7aLQA:07/11/11 12:25:36 ID:QDxDc4Ig
そういって笑ってみせる女性。優しい笑顔だった。その優しさが、どことなく生前の春
香のそれと似ていたことに、私は気付いた。
「すみませんが、お名前はなんとおっしゃるんですか? 私は、草岡直幸といいます」
「あ、すみません。名前言ってませんでしたね。私は七村広美っていいます」
広美さんの姿が、春香のものと重なるのを感じた。私の中で、それまで止まっていた何
かが動き出した。
その後は、二人で他愛もない世間話をした。のどかな田園には、私達の小さな笑い声が
木霊していた。
それから数日間、私はあの場所で広美さんと会話をした。内容は特にこれといって決まっ
てはいない。村のことを聞いたりもすれば、最近のテレビ番組や、果ては政治の話までし
た。いつしか、私の額には冷や汗が浮かばなくなり、手足の震えもなくなっていた。
春香によく似た広美さんは、私が探していたもの、私に唯一欠けていたものだったのか
もしれない。彼女となら、私はやり直しができるかもしれない。そんな希望を、彼女と談
笑をするなかで私は抱いていた。
話に一区切りが出来たところで、私は彼女に思い切って言ってみることにした。
私に足りなかったのは勇気。足りない分はどうすればいいか。自分の内にそれがないと
すれば、それは外から補ってあげればいい。それが広美さんだったのだ。
「一緒に、滝を見に行きませんか? 今なら、妻の思い出としっかり向き合える気がしま
す」
水の落ちる轟音に紛れて、何かが破裂したかのような大きな音が二つ、滝の底から響いた。
おわり