【 足跡 】
◆d6u1tLf.3M




36 :No.09 足跡 1/5 ◇d6u1tLf.3M:07/11/10 21:20:11 ID:5CIxgPsp
 此処は僕が一生かけて忘れることのできない人と出会い、共に過ごした場所です。いえ、一生をかけるからこそその人の
記憶が研ぎ澄まされ、明確な輪郭を帯びてくるように思えてなりません。僕にとってその人―彼女―は、其処に存在している
というその事実だけで、僕自身そのものに影響を与えうる可能性を秘めていたのでした。
 僕は元来、あまり人が得意な性質ではありませんでした。というのは、人は天使と悪魔の二面性をもっているためでした。
それに私が最初に気付いたのは母親と接していたときです。この母親は僕の本当の母親ではありません。ですから、その女性は
僕を客人として扱うのです。その女性の機嫌を損ねると暴力を振るわれます。しかし、その日のうちに女性はおもちゃを持って
不自然な笑みを浮かべながら、僕のご機嫌をとりに来るのです。僕は母親をただ“その女性”としか思えず、僕自身もまたその
女性を客人として扱うのでした。もちろん子供にとって血の繋がりが重要である場合というのは、そう多く見受けられませんが、
この義理の母親の接し方によって、そういう不自然な教育を受けた子供の人格は、一般的人間のそれとは性質を異にします。
すなわち、僕はこの不自然なご機嫌とりが自然なのだと教えられて育てられたのです。この不自然な生活の中で母性や親しみを求め
たくても求められないとき、僕は決まってこの場所を訪れました。此処は家から続く一本道で、また人通りも少なかったことから、
恰好の慰めの場所でした。泣き声は風が掻き消してくれ、涙は土が拭ってくれました。此処にいれば寂しくはなかったのです。
それどころか、この自然の広大さと美しさに感動を覚え、寂しさを忘れることができました。
 初めて社会という自然に触れたとき、僕は排除を受けました。それをいじめと形容するにはあまりに浅薄でありふれた考えである
ように思えるほど、何事とも表せ得ない苦痛を感じました。しかし私は自然―社会という機械的な自然とは別に―を愛していました。
こんな理不尽で不自然な苦痛に屈する以上に、この写真にある緑の道を通るときの感動のほうが勝っていたのです。通学路であった
この道を通ることで、学校で感じた苦痛は拭い去ることができました。この通学路を通るのは学校で僕だけであり、また此処は
過疎地であった為に、この場所を知る者さえいませんでした。ですから、この不自然な苦痛は学校内だけの悩みでした。
また、僕に耐え難いほどの苦痛を与える人間とは僕と同年代か、あるいは精神年齢的には下である場合が大多数でした。
先生と呼ばれる大人はいつも僕をかばい、また苦痛の生産者を叱ってくれました。少なくとも
当時はまだ、大人は自然と同様に僕を慰めてくれる存在でした。私は大人を自然と信じていたのです。だからこそ、当時の大人の
僕に対する対応は自然かつ優しさに溢れていたのです。人間関係において重要なのは信頼関係で、その揺らぎが少しでも外見に
表れると、忽ちその関係が崩れてしまう。僕は当時から見て近い将来―今でいえば過去のことですが―そのダムが決壊するか、
雪崩か津波に飲み込まれるほどの勢いと破壊力で崩れ去る“何か”を確かに目撃することになるのです。
 社会の自然に触れ始めてから6年が経ち、社会では慣れない自然を強要され、家では相変わらず不自然が自然であると教えられ、
そのような矛盾した生活にも適応し始めていたときのことです。この時点ではまだ大人は天使、子供は悪魔というように、その区別
は単純に年齢の区別である―義理の母親は例外です―と思っていました。周囲の子供は多数で多様な人間との関わりによって自己と
他者との区別、自己が他者に与えうる痛みの可能性などに気付き、自我の芽生えを自覚するようになっていました。僕も同様に、
少なくとも上辺だけは自然に振舞うことができる程度の能力は身に付けていました。とはいえ、自然な状態で自然をあるがままに
吸収して育った子供と、僕のように非自然と自然を行き来して、必要なときに仮面を付け替え、その場その場で取り繕うことの多い

37 :No.09 足跡 2/5 ◇d6u1tLf.3M:07/11/10 21:21:01 ID:5CIxgPsp
子供とでは、大人から見て前者は可愛く、後者はむしろ邪魔者たりえる存在なのでした。
 自然―友達―との付き合いを心から楽しむことができるようになり、ぎこちないながらも生活に価値が見え始めた頃の掃除の時間、
僕はその友達とおもむろに掃除用具でチャンバラごっこを始めました。すると突然、友達が額を抑えてうずくまってしまったのです。
僕は何が起きたのかよくわからず、ぼうっと突っ立っていると、額を抑えていた友達の手の指と指との間から、水性の赤い血が
垂れて出てきました。ふと僕が持っていた掃除用具に目をやると、先端が割れて尖り、友達のまだ色彩を放った紅色の血が付着して
いました。すぐに友達のほうに顔を向けると、額を抑えながら上目加減で顔を上げた彼と目が合ったのです。そのとき、僕は母親を
思い出しました。機嫌を損ねてしまった。それどころか自分にとっての最大の自然を傷付けてしまったのです。後悔を、恐怖を感じ
る余裕はありません。周囲で無闇に騒ぎ、血を見て動転してうずくまる友達には手も触れないような外道ともいえる悪魔ども、
あるいは一人では何もできない大人依存症のゲスが先生を呼びに行きました。そんな冷めた教室で、僕はただ友達を保健室に連れて
行くことだけを考えました。
「ごめんね、ほんとうにごめんね」
廊下を出たところで担任の先生がやってきました。先生は友達をふわりと持ち上げ、すぐに保健室へと連れて行きました。先生の
背中を追い始める刹那、教室の中に目をやると、生徒たちの視線が僕一人に集まっていました。各々の目は、先ほど目を合わせた
友達や、また母親を思い出させるものでした。これからどのような天罰がくだり、暴力を受けるのか。少なくともこの子供たちが
相手である限り、母親がするようなおもちゃの存在はありえないと思いました。
 幸い、友達の傷は浅く、血はすぐに止まりました。傷跡も残らないだろうということでした。先生は僕を叱りました。しかし、
私はまだ甘えていたのです。天使である大人からのおもちゃという見返りを期待していたのです。友達の母親が来て、僕の母親が
来ました。保健室の前に集まった三人の大人と二人の子供。沈黙を破ったのは友達でした。
「ご、ごめんなさい…」
被害者である彼が謝ったことで、責めるべき矛先は謝罪の言葉さえ発しない加害者の僕に向けられました。彼は掃除時間中、禁止
されていたのに遊んでしまったことをただ謝っただけですが、僕にはその謝るという行為そのものが裏切りであるように感じられた
のです。僕に責任を全て押し付けたように感じたのです。
「コイツが!まことに、申し訳ございません!」
先生は僕の頭を掴み、頭を下げさせました。語気を強めた先生の謝罪は憤怒にも似ており、その勢いある声が人気のない廊下に
響いたことで、他人同士という関係から生じる緊張の糸が切れました。
「どうしてくれるのよ!危うく失明するところじゃないの?」
「あなたという子は!どうしてこう可愛げがないの?」
「ほら、謝りなさい!」
三人の大人が一人の子供を相手に怒りをぶつける。その怒りは、今まで僕がしてきたような愛想の感じられない、素っ気無い態度に
対する復讐であるように思えました。大人三人を隔てた向こう側にいる友達のほうに顔を向けると、彼は目を反らしました。彼は

38 :No.09 足跡 3/5 ◇d6u1tLf.3M:07/11/10 21:22:05 ID:5CIxgPsp
そちら側の人間なのでした。僕はたった一人で天罰を受けました。先生が僕を責めるのは彼が負うべき管理責任の押し付けのため
であり、僕の母親は可愛げのない他人を育てるだけでも大変なのに思い通りに動かない僕に対する怒りのために、友達の母親は
自分の実の息子を傷つけた礼儀知らずのクソガキに対する憎悪のために。もはや泣くことさえ許されないこの刹那、僕は友達を
羨ましく思いました。実の子というだけで、ただそれだけのために、子が傷付くだけで我を忘れて怒ってくれる親がいるということ
を羨望しました。方や僕の義理の母は僕という存在そのものを認めていないのです。いつもはかばってくれるはずの先生も、友達も、
僕の敵となりました。僕に味方はいなくなりました。
 母と一緒の帰り道、母は僕を置き去りにして、先行してそそくさと行ってしまいました。一人になった僕―単なる人数の問題では
なくて―は、あの田んぼ道に出ました。振り返ると、木々は青々と茂っていました。つい最近まで、この道に続く木々は桜色に
染まり、春真っ盛りであったのに、いまや若葉をつけて太陽を強烈に跳ね返していました。こういう自然を見れば、いつもの僕は
慰められたはずでした。あらゆる苦痛を忘れさせてくれ、また感動を与えてくれたものでした。しかしながらいま、僕は何も感じる
ことはありません。絶望とも違う―むしろ絶望などという日常茶飯事には慣れていました―何かの感情。“寂しい”、ただそう思い
ました。人の温もりが欲しい。初夏のまだ涼しい風が僕の体温を奪うのと同時に、涙が流れました。
 「泣いてるの?」
女性の声でした。色に例えるとすれば透明で、しかし七色の虹のベールを帯びており、近寄り難いものでありながら、近寄ってみたい
と思わせる矛盾の出現。振り返ると、制服姿の女の子が立っていました。幼かった僕にとってこの状況と感情は耐え難い不安で、
考える時間はありませんでした。気付けばその女の子に抱きつき、泣いたのです。彼女は僕を包み込み、いま求めていた人間の温かみというものを教えてくれました。当時の僕にとってはそれで十分だったのです。こうして彼女は、僕にとっての自然となりました。
 彼女は田んぼ道の先にそびえる山を越えた町に住む中学生であり、此処は祖母の家への通り道ということでした。
彼女はこの道の先が春に桜並木道となることを知っていました。遠回りになるが舗装された道路を通れば、自転車で安全に速く
祖母の家に着けるけれども、彼女はこの田んぼ道の緑が大好きだから、祖母の家に行くときはいつもこの道を通るのだということも
教えてくれました。こんなにも素直に正直に僕に彼女自身のことを彼女自身が説明してくれることが嬉しかったのです。
まさに自然に遭遇し、自然と会話するかのような、あの懐かしき感動を彼女は思い出させてくれたのです。また、彼女は
両親をもたず、父親と二人で暮らしており、その祖母は父の母親にあたるために、父の頼みでかなりの頻度でこの道を通るというのです。
一度自然を失い、あの恐ろしい感情を知った僕は、この彼女という自然と再び会える可能性に希望を見出しました。
日が沈み、空は橙色に染まりました。いつもはただの色の変化が、この日は哀愁の色を帯びていました。
スカートから覗く白い足が、夕日によって赤々と照っており、つい見入ってしまっていると、彼女はスカートの裾を手で直し、
立ち上がりました。
「そろそろ行こうかな。うん、いい顔になったね。さっきはどうしたのかと思った。背中が震えてたもん。」
彼女が乗ってきた自転車に手をかけ、歩き出すのを見て、僕は一瞬、怖くなったのです。追いかけると、彼女は言いました。
「あんまり人に頼ったらだめだよ。私も悩みを聞くことくらいはできるけど…。」
「また、来ますか?」

39 :No.09 足跡 4/5 ◇d6u1tLf.3M:07/11/10 21:22:48 ID:5CIxgPsp
僕の咄嗟に出た質問に、彼女は微笑み、頷いてくれた。日は山に隠れ、空はまだ明るいのに、日と対に位置する田んぼ道は影で
薄暗くなり、僕の心情を表しているようだった。
 翌日、学校には行きませんでした。しかし僕は、田んぼ道を抜けても、学校を過ぎても歩き続けました。幸い、その日は気温が
高いわけでも、天気が悪くなる予報もなかったので、長く歩くつもりでいました。彼女がいつも見ているという美しい景色を
僕も見たくなったのです。共に自然を愛する者同士、その感動を分かち合いたいと思ったのです。こういう広大でどこまでも続く
風景を見ていると、苦痛などを考えること自体が勿体無いと感じるのです。しかし、彼女に対する気持ちは高揚するばかりでした。
太陽が最頂点まで登りつめ、傾き始めた頃、僕は道の向こうの更に向こうにある丘の上に赤い屋根の家を見つけました。
いままで歩いてきた道を振り返ると、僕の家も、田んぼ道も小さく確認できました。この場所は丁度中間地点で、僕の家と、
恐らくは彼女のいう祖母の家とが見える場所なのでした。この分だと、やはり徒歩ではあの赤い家への到達は難しいように思われました。
彼女の通う家が目的地だったわけではありませんでしたが、確かに考えの端には上っていたので、否定はできません。
そこからの帰り道、彼女との遭遇を期待しましたが、結局その期待が叶うことはありませんでした。
 一週間後、彼女と再び会う機会がありました。お互いに家族構成に関して問題を抱える者同士、募る悩みを打ち明けあいました。
「お母さんがいるんでしょう?私はそれだけでもう、君が羨ましいな。贅沢だよ。」
彼女はこう言って、僕の問題を軽くあしらいました。素直に思ったことを当然に指摘してくれた彼女を、僕もまた羨ましいと思いました。
相手が普通の人間であれば、義理の母からの扱いを知って尚も羨ましいと言われたら間違いなく憤怒したはずである。
しかし、彼女の発言には一点の曇りもなく、事実は事実としてすんなり通る。嫌味がないのです。初めて出会ったときに感じた
透明という印象は間違いではなかったのです。
「おばあさんの家は、屋根が赤いでしょうか?」
僕が唐突に質問を投げかけると、彼女は意外という顔をしていた。意外と言っても嫌悪や不審な意味ではなく、ただどうして僕が
そのような行動―彼女の祖母の家を確かめるような行動―をしたのかを疑問に思っていた感じであった。
「うん、行ったんだ?」
「いえ、この道を抜けたら、ずっと先に家が見えたので…」
「綺麗なところだったでしょう?」
「ええ。とても。」
僕の返答は実に淡白なもので、機嫌を窺うでもなく、気を使うでもなく、ただ頷いただけでした。
「私ね。あの風景が一番好きなの。落ち着くんだ。自転車で走ると、すごく気持ちいい。」
「そうでしょうね。夕方近くになると、あの一面が全て夕日色に…」
僕は何かを話している途中、ふと我に返り、こんなにも図々しく自己の主張をしているのだということに気付いて、
自分が恥ずかしくなるときがあります。そのために語尾が聞き取りにくいことが多々あるようです。
そしてまた、彼女はなにか不思議な力があって、勘が鋭かったのです。僕の気持ちを汲み取ったのかどうかはわかりません。

40 :No.09 足跡 5/5 ◇d6u1tLf.3M:07/11/10 21:24:03 ID:5CIxgPsp
「今度、一緒に祖母の家に行きましょう」
しかし彼女は確かに誘ってくれたのです。僕はだいぶ順調に、自然な人間へと変化を遂げていました。
 相変わらず学校には行かず、僕はただ歩き、いつもあの二つの家が同時に見渡せる中間地点まで行っては帰って来るのでした。
ある日、いつもよりも長く歩きました。日が山に隠れ、いまから家に戻れば空が闇に染まるまでには帰れるはずでした。
しかし、そのときの僕はそうしませんでした。ただ歩き続けたのです。先ほどまで青々と活き活きと生気を放っていた草花は、
空から色が消えるのと同じように、色を失い、眠りにつきました。ふと前に目をやると、あの赤い屋根の家は目前にまで迫っていました。
窓から暖かな光が漏れ、閑静で味気ない夜の風景に色を添えています。そのとき、僕はこの風景にもう一つ、添えられた花を見出したのです。
彼女でした。うずくまっている彼女の背中は震えていました。
 「どうしたんですか?」
僕の掛け声に顔を上げた彼女の顔は険しく、しわくちゃと形容できるほどに泣き崩れていました。
「おばあちゃんがね…。死んじゃった…。」
かける言葉が見つかりませんでした。その原因はおばあちゃんが死んだことではありません。少なくとももっと身近で、
僕の思想の奥にある根源的で、支柱のようだったものが揺らぎ始めたのです。そのときは、その揺らぎが何だったのか、
よくわかりませんでした。しかし何か大きな不安を感じながら、何もできずにただ僕は突っ立っていたのです。
しばらくすると、喪服姿の男性が彼女の名を呼びに来て、その後は彼女の計らいで、家まで車で送ってもらいました。
車の中で彼女は、僕に学校へ行くよう説得しました。説得というほど力のあるものではありませんでしたが、
指切りをして別れました。離れていく車を見つめていましたが、後部座席に乗った彼女がこちらを振り返ることはありませんでした。
いま考えてみると、僕はあまりに利己的で、彼女にとって重荷な存在であったのかもしれません。祖母の家へ行くときに
ついでに会う、そういう通過点として僕の存在があったように思われます。
 それからは僕は学校に行くようになりました。確かに学校の成員から受ける扱いはひどいものですが、昔ほど重大とは考えません。
僕は自然を慰めの場所ではなく、希望の場所と考えるようになりました。すなわち、あの田んぼ道で出会った彼女は、田んぼ道を
越えた先に確かに存在している。存在する限りどこかでまた会うことができる。そういう希望が生まれる場所が自然だと思うのです。
この緑の風景は、左側に彼女が歩き、右側を僕が歩いた、自然を生きた二人の人間の足跡なのです。



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