【 血 】
◆wWwx.1Fjt6




88 :No.23 血 1/5 ◇wWwx.1Fjt6:07/11/05 00:08:45 ID:fM34AAUL
 中学入学早々、学年主任の遠藤に注意を受けるまで、小林真弓は自分の髪が栗色をしていることにさして関心を
持っていなかった。なるほど言われてみれば自分の髪は黒くない。しかしそれは流行りを追って染めたものではな
く、生まれつきの色だった。意識していなかった分、真弓の戸惑いは激しかった。
「違います。染めていません」
 真弓は答えようとしたが、言葉は口の中で反響するに留まり、遠藤の耳には届かなかった。真弓は自分の気の弱
さに落胆し、お下げを掴んで、カールした毛先を眺めながら思案に耽った。
(そんなに茶色いかしら。先生は迷わず注意されていったけれど……ちゃんと聞いてくれればいいのに。自然の茶
髪でも黒くしてこなくちゃいけないのかしら)
 悔しさに似た感情が、真弓の茶色い目を少しうるませた。

 新興住宅街の一等地、四軒分の地所を一続きにして、小林邸が建っている。真弓はこの家の一人娘である。
 余り趣味の良くない派手な装飾を施した玄関扉が、家政婦の手で内側から開かれた。
「おかえりなさい、真弓さん」
「ただいま、榎田さん。お母さんはお部屋にいらっしゃるわね」
「ええ、お茶を召し上がっています」
「ありがとう」
 真弓は室内履きに履き替えて学生鞄を榎田に託すと、重い足取りで二階に向かった。
(何て言おう。髪を注意されたから染めなきゃいけないの。ううん。私が注意されたなんて知ったらお母さんびっ
くりしちゃう。校則が黒だから私も黒にしようかと思って。……きっと、自然な方がいいって言われるわ)
 切り出す言葉を決めかねて、母の紗英子の部屋の前で真弓の足は止まっていた。
「真弓、帰ったの。おかえり」
 中から声を掛けられて、漸く真弓は扉を開けた。紗英子は寝間着のまま揺り椅子に腰かけていた。
「ただいま。お母さん、また一日中お部屋から出なかったのね」
 紗英子は答える代わりに少し微笑んだ。化粧っ気のまるでないその顔は、日に当たることがないために透けるよ

89 :No.23 血 2/5 ◇wWwx.1Fjt6:07/11/05 00:09:44 ID:fM34AAUL
うに白く、簡単に束ねられた漆黒の髪と対をなしている。真弓の高すぎる鷲鼻や、目に近すぎるきつい眉とは比べ
るまでもない、上品な目鼻立ち。心の病気が治って瞳にも表情が戻ったらどんなにか美しいだろうに、と真弓は思
った。
「お母さんの髪、綺麗」
「なあに、突然」
「お母さんは、黒髪よね」
「傷むようなことをしないからね。日に当たったりだとか」
 紗英子は窓の外に目をやり、老犬のケントが日向ぼっこをしているのを眺めた。
「私の髪、どうしてお母さんみたいじゃないんだろう」
 口に出してみると、それはとても重大事のように感じられた。
「お母さんもお父さんも真っ直ぐな黒髪なのに、どうして私は茶色い癖っ毛なんだろう」
 真弓はこみ上げてきた嗚咽を隠そうと口をつぐんだ。しかしこらえきれなかった涙は頬を伝った。彼女は紗英子
が振り返らないことに少し焦れながらも安堵した。
「真弓」
「……はい」
「少し疲れたから、一人にさせて」
 真弓は、老犬から目を離さずにいる紗英子もまた、涙を隠していることに気付かなかった。
 その夜、久しぶりに、紗英子の部屋へ夫である和夫が招き入れられた。二人は一度も触れ合うことなく深夜まで
話し合いを続けた。

 翌日の土曜はどしゃ降りの雨だった。雨は陰欝な真弓の気持ちを更に暗くした。昨日の出来事をまだ消化できて
いないところに、朝食の席で和夫の相手をしなくてはならないことが堪らなく嫌だった。
 和夫は小さな会社を経営している。身一つで興した会社がそれなりの業績をあげたことが和夫の自慢だった。し
かし真弓はその自慢話を下品としか思えなかった。そのことだけでなく、和夫の全てを下品と感じていた。脂ぎっ
た顔を手でゴシゴシ擦りながらパンを口に詰め込み、それを頬張ったまま大口で笑う和夫との二人きりの朝食を、

90 :No.23 血 3/5 ◇wWwx.1Fjt6:07/11/05 00:10:10 ID:fM34AAUL
真弓は、朝の拷問、と密かに名付けていた。
 ところがその日は和夫の相手をする必要はなかった。真弓が溜め息をつきながら階下に降りてみると、珍しく紗
英子が外出着に着替えて朝の食卓についていた。
「真弓。今日、時間をとれるわよね。河本の家に行きましょう」
 河本の家は紗英子の実家である。そう遠くではないが、紗英子が実家を嫌うために、和夫と真弓の二人きりで年
に二回だけ顔を出すのが習慣だった。しかしその日、和夫の運転する車には四人が乗っていた。和夫の後ろに紗英
子、その隣に真弓、助手席には榎田までがいた。
 河本の家に着くと、真弓は書斎で本を読んでいるようにと紗英子から言われた。いぶかしげに母を見る真弓を、
紗英子はなにごとか決意した目付きで見返した。
(お母さんに表情が戻ってる)
「お母さん」
「すぐ戻るから」
 紗英子はそういうと、真弓を一人書斎に残して立ち去った。
 母の『すぐ』は長かった。真弓は本棚からモーパッサン短編集を取り出して開いてみたが、目は活字の上を滑り、
何度読み返しても内容が頭に入ってこなかった。頭にあるのは、久々に見た母のよそ行き姿、いつもは饒舌な父の
寡黙だったこと、なぜか榎田まで河本の家に来たこと、そしてその三人に河本の祖母まで加えた四人でなにやら相
談をしているらしいことなど、つまり今日は何もかもが普段と違うということばかりだった。
 何度同じところを読んだだろうか。まるで頭に入らないために諦めて短編集を閉じたとき、ノックの音がして祖
母が一人で入ってきた。
「おばあさま。お話は終わったの」
「終わったよ。そして今からまた始まるよ」
「ああ、私、今日はもう読書をする気分になれないわ」
「もう本は読まなくていいよ。私がお前に話すんだからね」
「私にお話」
「そう、よく聞きなさい。私はお前が大人になったら話そうと思っていたんだけどね。紗英子がもう話すべきだと

91 :No.23 血 4/5 ◇wWwx.1Fjt6:07/11/05 00:10:45 ID:fM34AAUL
言って聞かないのさ。あの子は自分の背負ったものを早く他人に押し付けたくて仕方ないんだろうよ。どうしよう
もない子だよ」
 真弓は母の悪口を聞かされてムッとしたが、最後まで聞こうと黙っていた。祖母はソファに腰かけて真弓をじっ
と見つめた。
「そう怖い顔をしちゃいけないね。私は事実を言ってるんだよ。お前は紗英子のことを好きだから仕方ないかもし
れないが、実際好人物なのは和夫のほうさ。お前は和夫を嫌いだったね」
 一度も和夫のことを悪く言った覚えがないのに言い当てられて、真弓はうろたえた。
「おばあさま、お話ってそんなことなの」
「おっと。脱線したね。まあ年寄りだから、少し大目にみておくれ。話というのはね、なぜお前の髪が茶色いのか
ってことさ」

 十三年前、紗英子は恋をしていた。相手は紗英子が通う絵画教室の講師をしていた、栗色の髪を持つハーフの青
年、賢人だった。年頃の二人が関係を持つのに時間はかからなかった。ほどなくして紗英子は身篭った。二人は結
婚するつもりだった。
 紗英子の両親は二人の結婚に猛反対した。河本家が代々続く旧家なのに対し、賢人は母親しか身寄りのいない、
貧乏画家だった。
 そしてある時二人は、心中をはかった。賢人は亡くなり、紗英子は助かった。

「本当に好き合っているなら駆け落ちでもすればよかったのさ。それをお腹にいるお前のことも考えずに安易に死
のうとするなんて、甘ったれもいいところさ。その死に損いを拾ってくれたのが和夫だよ」
「お父さんは、お父さんじゃない……」

92 :No.23 血 5/5 ◇wWwx.1Fjt6:07/11/05 00:11:19 ID:fM34AAUL
「一滴も血の繋がりなんかない。それなのにお前を本当に可愛がり、何不自由なく育ててくれた。私の育てた馬鹿
娘が犬に青年の名前をつけたり、心の病気を装って閉じ籠っていたりするのも、みな寛容に許してくれている。あ
の青年を育てた母親まで同じ屋根の下に入れてね」
「……榎田さん」
「そうさ。お前のもう一人の祖母にあたる人だよ」
「違う」
「そうかい、どう違うかね」
(お父さんは……和夫さんは、青年に勝った気でいるのよ。青年の手に入れられなかったものを手に入れたつもり
で、それを、私を人質に榎田さんを縛り付けて見せ付けているんだわ)
「ふふふ、お前も紗英子に似てヘソ曲がりだね。年寄りの言うことは聞くものだよ」
 河本の祖母は真弓の心中を見透かしたように笑い、膝を打って立ち上がった。
「まあいい。黒髪への憧れはなくなったようだね」
 真弓は、強く頷いた。体の中に紗英子と賢人の血が流れているのを感じたような気がした。

終わり



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