【 色々は長調から短調へ 】
◆cwf2GoCJdk




83 :No.22 色々は長調から短調へ 1/5 ◇cwf2GoCJdk:07/11/05 00:05:25 ID:fM34AAUL
 シズクの父親だか母親だかはフランス人なのだそうだ。フルネームはたしか、真田・カトーリーヌ・シズクとかなんとか。わたしは今、初めて
「シズク」にどのような漢字が付いてくるのか知らないとわかった。真田はこの漢字以外にないだろう、たぶん。もしかするとカトリーヌにも漢
字があるかもしれないけれど。
 シズクは嫉妬を通り越して、腹が立つほどの美しさだった。整った顔立ちはもちろんだが、わたしが何より憧れたのは、その青みがかった瞳
だった。大きく見開かれているのは対面している相手に魅せるためのようで、この美しい眼を持っている人間がシズクで良かった、と見惚れるた
びに思うのである。わたしの瞳にカラーが宿っていても、宝の持ち腐れという物だ。猫に小判。わたしに色彩。
 そして嫌味なことに、髪の色が黒いのだ。ここまで来るとさすがにフェアプレイとはほど遠いように思う。西洋顔に黒髪は反則である。あまり
に完璧なので、名前すら素晴らしく感じてしまう。
 とはいえあまりに自分が惨めなので、
「白人は光量のあるところだと、肌の汚さが目に付くよね。それに、劣化も早いし」
 あまりに大人げない中傷発言をしてみると、
「クロちゃんは綺麗な肌だよねー。うらやましい。美人だし」
 そんな恐ろしいカウンターを浴びた。惨めである。何の悪意もなく澄んだ瞳で言われるのが、惨めである。
 シズクは毎日のように遊びに来た。きっかけは何だったか、よく思い出せない。シズクは時折思い出したように言う。
「クロちゃんもあたしの家に来れればいいのにね」
 全くその通り。でもそれが出来ないのは二人とも知っている。
 なぜならわたしは、この場所を離れられない幽霊だから。

 十二歳のときで、まだ小学生だった。
 寒さをしのぐ息苦しさで目覚めた。同時に部屋に充満している不快な臭いにも気がつき、それはガスによるものではなく、床に横たわっている
両親の排泄物のせいだった。
 早く脱出しようと思い、天井近くほどの高さのパイプベッドを降りると、絶望的な状況を視認した。窓も、ドアも、狭い部屋の出入り口と言え
る部分はすべて塞がれていた。割れた窓から無理矢理に引き入れているゴムホース周りは特に入念だった。それはガムテープと家具を使った稚拙
なものだったが、結果、どうやら十分だったらしい。
 わたしは両親に話しかけた。まだ生きていると思ったのだ。ピンクに染まった体はとても綺麗で、失禁程度では死人とは思えなかった。すぐそばに近寄ると、息をしていないことがわかった。
 呼吸の回数が尋常ではなくなり、手足も痺れていた。なんとか窓を割ろうと試みるが、そのときの体力では、学習机を除けることすら不可能
だった。
 足掻いている内に動悸が激しくなり、呼吸数は更に増え、全身の感覚がなくなってきた。立っていることすら難しくなると、なぜ自分が死に後
れているのかをなんとなく理解した。

84 :No.22 色々は長調から短調へ 2/5 ◇cwf2GoCJdk:07/11/05 00:06:18 ID:fM34AAUL
 ――プロパンガスは空気より重いから下に溜まるんだ。
 理科の授業で聞いたのか、本で読んだのかは結局思い出せず、それが少し悔しかった。
 それから意識が曖昧になった。尿を漏らしていた気もするが、多少なりとも鮮明に覚えているのはそこまでだ。

 無人の家内と、外に出られる気がしない感覚と、とどめに食事も睡眠も必要のない事実で、わたしは自分が死んだことを確信した。
 たぶんシズクと初めて会ったのは、暇つぶしの方法も思い浮かばず、ガレージでぼんやり人並みを眺めていた頃だったと思う。
 卓絶した美しさ。そんな印象を持ったことは覚えている。小学生程度の年齢だろう女の子に、可愛さではなく美しさを感じたのだ。少女信仰を
する人間の気持ちがあれほど理解できたことはない。

 なぜシズクにはわたしが見えているのだろう、と不思議に思った。ほとんどの人間にとって、わたしは存在していないも同然だったからだ。例
えば目の前の通行人に話しかけても、無視されるのではなく、聞こえていない様子だった。
「不思議だねぇ」
 とシズクも言うので、わたしは面白がって言った。
「目が青い子供限定の特殊能力なのかな。幽霊を見る力」

 検証の結果、目の色に関係なく、子供とならば互いに認識出来るとわかった。近くを歩いている少年に飴をちらつかせながら話しかけると、大
抵寄ってきた。
 頭の良さそうな子は、大抵走って逃げて行った。

「あおいちゃんはさ」
 シズクが言う。あおいというのはわたしの名前だ。
「どんな色が好きなの?」
 黒、とわたしは即答した。
「いつも黒い服きてるもんねー。だと思った」
 ならば聞かなければいいのに、とちょっとだけ思った。
 その日からわたしは「クロちゃん」と呼ばれるようになった。それを変に思い、なぜと聞くと、
「だって、あだ名があったほうがいいじゃない」
 なぜか困ったようにそう言った。その表情が思いのほか可愛かったので、追撃することにした。
「ならシズクにもなにかあだ名を付けよう。そうだな、メディシスというのはどうだろう」
「いやだよ。あたしはいいの。……めでぃしす?」

85 :No.22 色々は長調から短調へ 3/5 ◇cwf2GoCJdk:07/11/05 00:06:46 ID:fM34AAUL
「名前がカトリーヌだから。それより」
 どうして「あたしはいい」のだろう。わたしがその疑問を口にするとシズクは、
「んー、だって日本人っぽくない。シズクって日本人っぽいでしょ?」
「だけどカトリーヌって日本人っぽくない本名で呼ぶ奴もいるんだろ? なら何かあだ名があった方がいいんじゃないかな」
「メディサスも日本人っぽくない。それって、あれ。本末転倒って言うんだよ。クロちゃんはシズク、って呼んでくれてるんだからいいじゃな
い。それにそういう人はあたしが嫌がってもカトリーヌ、って呼ぶよ。きっと」
 まったくの正論。メディサスは間違いだが、大過ない。わたしのあだ名も必要ない気がするが、まあいいだろう。誰よりシズクが気に入ってい
るし、仮にわたしが嫌がったとしても「クロちゃん」と呼ばれると思う。きっと。

 死亡時の年齢はシズクと同じだが、享年となると違った。そして何度誕生日を重ねても、身体的にはなんら変わらない。わたしはシズクよりも
現世に触れているが、シズクよりも長生きではない。
 高みから馬鹿にするように話しているとき、わたしはいつも嫌われはしないかと懸念していた。
「クロちゃんって、変なしゃべり方するよね。子どもっぽくないって言うか」
 そんな、大した意を含ませずに言ったであろうことに不安を抱いた。僅かなその違いが、子供にとっては些末ではないから。
「でも本当は中学生くらいなんだっけ」
 だからその一言と、依然として悪意ない青い瞳から、拒絶されているように思えた。
 シズクが立ち上がって言った。
「じゃあそろそろ帰るね」
 わたしは不意を突かれて、反射的に「どうして?」と聞いた。
「鐘が鳴ったら、帰らなきゃ怒られちゃう。いつもそうじゃない」
 そう言われてやっと鐘の音に気がついた。
 歩き始めたシズクに、「待って」と言おうとしたが声にならなかった。
 いつも通りに帰っていくシズクが、その日はいつも以上に遠く感じられた。

 再びシズクと会えたのは、二週間ほど過ぎた頃だった。
 シズクはどこか疲れている風で、無理に作ったような笑顔で「久しぶり」と言った。憔悴した様子が気になった。シズクは落ち着きなく体を動
かして、そばにある机を無意味に触りながら言いにくそうに、フランスに移住する旨を語った。
 
 二人とも十分は無言だったと思う。少なくともそれほどに感じられた。

86 :No.22 色々は長調から短調へ 4/5 ◇cwf2GoCJdk:07/11/05 00:07:10 ID:fM34AAUL
 シズクが朱色の唇を噛むようにしてから、
「もう行かなきゃ」と言った。
「待って!」
 自然と声が出ていった。
 行かないで。行く事なんか無いよ。一人にしないで。
 なぜ二週間以上もシズクがここに来なかったのか。なぜ今日になって来たのか。ほとんど理解していたのに、声は止まらなかった。
 わたしの見苦しい言葉の数々を、シズクは耐えるように聞いていた。
 行かなくちゃ、と背を向けるシズクの腕をつかんだ。すると、振り向かずに言った。
「ずっと会えないってわけじゃないよ。すぐには無理でも」
「大人になったら?」
 ――大人になったらシズクには見えなくなっちゃう。
「みんなそうだったじゃない。見れるのは、話せるのは、触れるのは子供だけ」
 そして時が経つにつれて、彼らとの溝も深まっていく。
「あたしは違うよ。絶対。だから、お願いだから」
 振り向いたシズクの青い眼は、わたしに向けられていなかった。
「手を離して」
 はじめから力なんて入れてなかった。ゆっくりと手を下ろした。
「バイバイ」
 わたしは何も言わなかった。
 シズクが手を振った。
 わたしは手を振り返さなかった。手を振ったら、二度と会えない気がした。

 わたしは何も見ないように目を閉じて、何も聞かないように耳を塞いだ。そうしていれば、現実から目をそらせたから。

 目を開くと、そこには誰もいなかった。外は暗く、冷たい冬の空気がわたしの命日を思い出させた。
 そして一つの事実に気がつくと、涙が止めどもなく溢れてきた。
 シズクと別れることになるなんて、ずっと前からわかっていた。彼女が成長する以上、当たり前だ。いつかはシズクも大人になる。
 わたしは友達と一緒にいたかったのではなかった。
 ただ、彼女の青い瞳をずっと眺めていたかったのだ。

87 :No.22 色々は長調から短調へ 5/5 ◇cwf2GoCJdk:07/11/05 00:08:00 ID:fM34AAUL

 気が向いたときは、ガレージでじっと外の様子を観察していたりする。時折、子供がよってくると占めたもので、わたしはちょっとだけ暇をつ
ぶすことができる。心ある親御さんからはいつも気味悪がられた。当然。それでいいと思ってる。
 あの世というものがあるのかは知らないが、いつまでわたしはここに留まるんだろう、と機嫌のいい日はそんなことも考える。馬鹿な親の身勝
手で殺されたから、寿命分くらいは保留しておく気なのだろうか。それともこの家が壊されるまで? なんてやっかいな死神なんだろう。
 なんにせよ、先は長そうだ。
 また子供がよってきた。ようこそお化け屋敷へ。
 とても綺麗な眼をしたその女の子は、話しかけるのも聞かずに、好き勝手に我が城門ことガレージを荒らした。
 遠くから母親が歩いてくる。言うほど白人の劣化が酷いわけでもなさそうだ。
 母親がこちらを見ていた。その眼差しは心なしか悲しそうだった。片方の目は斜視のように焦点が合っておらず、少しだけ色も違うように思え
た。
 家の奥にでも引っ込もう。そう考えて踵を返すと後ろから、
「クロちゃん!」
 と声がした。驚いたわたしが顔を歪めて振り向くと、
「駄目でしょ、人の家にイタズラしちゃ」
 
「行きましょう」
 母親はそう言って歩き出す。
 一度だけこちらを振り向いた。黒髪がなびく。
 娘に急かされて再び背を向けた彼女に、今度こそ、小さく手を振った。

 わたしは深呼吸して、数年間変化のない自身を鏡越しに確かめた。相変わらず服は黒。わが身とは裏腹に、壁も、机も、周りの物は確実に老朽
化していく。
 もう何年も前に一人の少女から奪い取った眼球を眺めて、自嘲気味に笑った。
 そこに浮かんでいる青だけは、いつまでも色あせなかった。

 また季節が変わる。
 やわらかい風が吹いて、春の気配がした。





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