【 CMYK 】
◆IbuHpRV6SU




68 :No.19 CMYK 1/5 ◇IbuHpRV6SU:07/11/04 22:41:22 ID:CXhL+OYA
 休日だというのに雨の止む気配は全くなく、鉛色の秋雨は空から容赦なく降り注ぐ。
例え傘を差して出かけたとしても、この天気では無事では済まないだろう。
僕にとっては大した事の無い問題だが、今日という日が晴れであった事を望んでいた人も多いだろう。
……この雨は、もしかすると地球上の人の流した涙が集まって降っているのかもしれない。
家族を亡くした遺族の涙、初恋の実らなかった若者の涙、人生の重圧に耐えきれずが思わず流す誰かの涙。
落ちた涙が地面に染み込み、蒸発して空で雨雲を造り、そして雨が降り注ぐ。
誰かの悲しみが、廻り廻って別の誰かの悲しみになる……。
読んでいた小説に栞を挟んで丸テーブルの上に置き、隣に置いてあるコーヒーを飲みながら、そんな事をふと考えた。
 今日は特にする事も無いので、僕は昼に目を覚まして簡単な食事を摂った後、ヘッドホンで音楽を聴きながら
溜まっていた小説を読む事にしていた。
 最初に手を出した文庫本の三分の二を読み終えたところで時刻は午後三時を回っていた。
またコーヒーが飲みたくなり、ヘッドホンを外し、台所に行きインスタントコーヒーの瓶を棚から取り出す。
熱湯を湯に注ぎコーヒーの粉を溶かしたその時、玄関の呼び鈴がシンデレラの十二時の鐘の様に不意に鳴り響いた。
 彼女が帰ってきたようだ。
熱々の湯が入ったケトルをガス台に置き、玄関へ向かいやや立て付けの悪い引き戸を少し手こずりながら開ける。
そこには、青い水玉模様の傘を持った少女が立っていた。僕の知っている少女だ。
「こんな雨の中、どこに行ってたんだい?」
「この前散歩した噴水公園に居た黒猫の事、覚えてる?」雨に濡れた傘を畳んで傘立てに仕舞う。
「そういえば居た様な気もしたかな」僕は寒気の吹き込む玄関の引き戸をやはり少し手こずりながら閉める。
「あそこって雨宿りする所がないでしょ?心配になって見に行ってたの」

69 :No.19 CMYK 2/5 ◇IbuHpRV6SU:07/11/04 22:41:47 ID:CXhL+OYA
「猫を?こんな雨の中に?」
「出かけた朝はそれほどでもなかったの。あなたはその時寝ていたでしょう?」
「それで、野良猫は見つかったのかい?」 
少女は首を横に数回振った、ゆっくりと。
「いなかったわ、どこに行っちゃったのかしら」
淡々としながらもそれでいてどこか悲しげな言葉だった。
「取り敢えず中に入ろう。何か飲むかい?」
「……うん」
僕は台所に戻り冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、小鍋に注ぎ火にかけ、さっきいれたコーヒーを口にする。
少し冷めていたが、猫舌の僕にはちょうど良かった。時間が解決するというのは、こういう事を言うのかもしれない。
もう一杯コーヒーを飲もうと、置いてあったケトルにもう一度火をかけた。
 砂糖入りのホットミルクとコーヒーをもって渋柿色の廊下を歩き、居間に向かう。
この家は平屋の庭付き3LDKの和風建築で、僕は親戚からこの家を借り数年間住んでいる。
年季の入った柱、瓦葺きの屋根に畳の部屋という今時珍しい物件だ。僕はそこが気に入っていた。
八畳の居間の丸テーブルに少女は体育座りで待っていた。居間の暖かさにホッとしているようだ。
「ホットミルクでも飲みなよ」
シャトルーズグリーンのマグカップを差し出すと、彼女はまるでマグカップが自分の子供であるかの様にやさしく
両手で持ち、静かに飲み始めた。
「ありがとう」
マグカップを丸テーブルに置き、少女は呟いた。
「いいんだ。気にしないでいいよ」
部屋の中が雨のサラサラとした音で満たされていた。コーヒーを半分ほど飲み干し、僕は口を開いた。
「藍。もしよかったら、君の本当の名前を教えてくれないか?」
自分自身、この言葉は今更だと思った。

70 :No.19 CMYK 3/5 ◇IbuHpRV6SU:07/11/04 22:42:10 ID:CXhL+OYA
「そんなものなんてないわ」
そう言って目の前の黒髪のセミロングの女の子はホットミルクの残りを飲み始めた。
僕は便宜上、彼女を藍と呼んでいた。
せめて、人間らしい名前で呼ぼうと思った。
飲むのを小休止し、口の回りに牛乳をつけながら言葉を続ける。
「前も言ったけど何でもいいの」
「服のボタン、ストロー、ボールペン、セメント、本の栞。好きに呼べば良いわ」
少女はそう話し、上を見上げてマグカップの残りを全て飲み干した。
 出逢ったときからこの調子だった。
彼女はある日ふらっとこの家を訪れ、住む所が無いと言ってそのまま住み着いた。
正直気乗りはしなかったし、快適な一人の生活を謳歌したかったが、見捨てる訳にも行かなかった。
この世界に、見ず知らずの女の子を家に置いておく奇特な人間が果たしてどれだけいるだろうか。
それ以来、彼女は僕の家で牛乳を飲みながら本を読んだり、縁側で寝転んだり、時々僕と近くを散歩したりした。
さっきの様に、彼女は自分の本当の名前を明かさない。だから、僕も自分の本当の名前を彼女に明かさなかった。
それは多分、意地の様なものだと思う。そっちが多くを語らないならこちらも必要以上には明かさない。
互いの心に一線を引き、壁を作り上げる。歴史上、かつて色々な壁が造られ、そして壊された。
一見ガラスの様に薄く見えるこの壁も、いつか壊れるのだろうか。
ーーでも、名字は分かるわよ。表札を見ればいいんだから。ね、倉田君ーー
得意気に話す彼女。
ーーそれはこの家の持ち主の親戚の名字さ。僕のじゃないーー
それでもそれ以降彼女は僕を倉田君と呼び、僕は彼女を藍と呼んだ。
ちなみに藍という名前は僕の死んだ母親の名前だ。だけど大した意味は無い。
いつしか彼女との不可解な共同生活は月日と共に僕にとっての日常と成った。
時間が解決するというのは、こういう事を言うのだろう。これが解決と言えるのならの話だが。

71 :No.19 CMYK 4/5 ◇IbuHpRV6SU:07/11/04 22:42:34 ID:CXhL+OYA
 あの後彼女はホットミルクを二杯飲み干し、その間中ずっと黒猫の事を考えていた様だ。
僕は音楽を聴きながら途中だった小説を読んだ。ヘッドホンからは
「All we need is thirsty summer!!」
というボーカルが繰り返し流れた。
まったくだ、夏が待ち遠しい。五秒くらいそう思った。
その後、二人分のマグカップを台所に持っていき、朝から溜まっていた食器と一緒に洗う。
窓の外は既に薄暗く、時刻は午後六時を回っていた。気がつくと雨はすっかり止んで、屋根の水滴が地面を打つ音が聴こえた。
瑠璃色で塗りたくられた空と雨上がりの街はとても寒そうだった。
食器を洗い終わり、居間に向かうと彼女は不安そうな目つきで窓の方を眺めていた。
「黒猫の心配をしてるのかい?」
彼女は悲しげな顔で沈黙を守ったままだ。
「野良猫はそう簡単に死にはしない。今頃、この寒さにうんざりして夏へと続く扉でも探している最中さ。
心配する事は無いよ」
僕がそう言うと彼女はこちらを向き、丸テーブルにうずくまった
「倉田君、かわいそうな黒猫はきっと消えたのよ。この強い雨の中で溶ける様に消えちゃったの。
絵の具を水で洗い流す様に跡形も無く」
沈黙が数秒続く。さっき雨が作り出した静寂とは別個の種類の静寂だ。
「黒猫を見つけてどうするつもりなんだい?」
「家で飼うの。あなたが私を拾ってくれたみたいに」
「仮に藍が黒猫を見つけて家に戻ったとしても、僕は賛成しなかったと思う」
「どうして?」
「僕はこう見えて迷信深いんだ。黒猫は不吉の象徴とも言うしね。それに……」
近寄って、僕は彼女の頭を優しく撫でた。

72 :No.19 CMYK 5/5 ◇IbuHpRV6SU:07/11/04 22:43:00 ID:CXhL+OYA
「藍は黒猫が不吉の象徴である理由を知っているかい?」
「わからない。何でなの?」
「実は僕もよく知らない。でもね、こう思うんだ。黒猫はきっと世界中の人々の色んな思いや
怨念が集まって出来ているからなんだってね。嬉しい事も悲しい事も、色んな種類の思いが全部混ざってしまえば
絵の具の様にどす黒くなってしまう。そしてそれが猫になって、皆に不幸をばらまくんだ。何で猫なのかはわからない。
君がたまたまこの家に来た様に、この場合もたまたま猫だったんじゃないのかな。きっと」
彼女の横に座り、また頭を撫でた。
「だから、これで良かったのさ。さっきも言った通りきっと黒猫はどこかで生きているだろうし、仮に君の言う通り
雨に流されたのだとしても、それはそれでいいじゃないか」
「でも黒猫はきっと孤独よ。どんな宿命を背負った生き物だって一人ぼっちは嫌なはずよ」
「孤独は誰の胸の中にでも横たわってるさ。一見幸せそうに見える新婚夫婦の中にも、群れをなして大陸を
横断する渡り鳥の中にも。まるで海底に沈んだ沈没船の様にね。
胸の中に横たわる孤独を飼いならすのはあくまで自分自身なんだと僕は思う」
丸テーブルにうずくまっていた少女は起き上がり、目を真っ赤に腫らしながら僕の顔を見る。
「私ね、あの猫の名前を決めていたの。それはね、私の本当の名前。こんな私にはもったいないほどの良い名前なの。
……私なんかには……」
「君の名前なんだから君が名乗ればいいだろう。咎める人は誰もいないさ。教えてくれないか? 君の名前」
少女は静かに、呟く様に自分の本当の名前を僕に聞かせてくれた。
猫にはもったいないくらいの良い名前だった。

                   <完>



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