【 茜 】
◆bellCAI0rA




37 :No.10 茜 1/4 ◇bellCAI0rA:07/11/04 20:12:33 ID:CXhL+OYA
 彼女の世界は、白と黒とで出来ている。

 彼女は色が視えない。
 そして僕はといえば、目が全く見えない。
 彼女は僕の手を引いて、颯爽と街を歩く。
 彼女は僕の目となって、この忙しい街を導いてくれる。

 僕が今でも、目を閉じるだけで思い出せるほど鮮明に憶えている風景は、幻想的な赤。
 疲れたおじさんたちが、電車の吊革につかまって、心地好い震動に身を預ける頃
 賑やかな買い物帰りのお母さんたちが、子供に「早く帰ろう」と急かされる頃
 ビルの隙間に沈んでゆくおおきな赤が、今でも僕のまぶたに焼き付いている。
 あの空は、立ち並ぶ四角に区切られて狭くなっていたけど
 いつかこの街を出て、風の吹きわたる大草原を彼女と駆けまわってみたい。
 二人が遊び疲れた頃、あたり一面を赤く染めて沈んでゆく夕焼けを、一緒に眺めたい。
「今日も楽しかったね」彼女はきっと笑うだろう。
「うん」僕は微笑み返すだろう。
「ごらん、世界でいちばん綺麗な赤だ。僕の代わりに、たくさん見ておいてくれ」
 僕は想像する。彼女の白と黒との世界に、すっと差し込む鮮やかな落陽の赤。
 生まれつき色を視たことのない彼女に、あの美しさを教えてあげたい。

38 :No.10 茜 2/4 ◇bellCAI0rA:07/11/04 20:14:17 ID:CXhL+OYA

 親に棄てられ、行き場をなくした彼女と出会ったのは、十数年も前のこと――
 僕の両親が生きていた頃の話だ。彼女はまだ3歳。すると僕は10歳ほどだったか。
 以来、彼女とたくさんの時間を一緒に過ごすようになった。
 彼女は僕の着けていた、度の強いぐりぐりめがねがお気に入りだった。
 周りからはいつもからかわれて、あんなの着けたくないって思ってたのに。

 僕は生まれつき目を患っており、日に日に生活に支障を来すようになっていった。
 必死で勉強を続け、第一志望の大学に入学できたとき、ついに僕は光を失った。
 そして、両親との死別。比喩的な意味でも、僕は長い暗闇の最中にいた。
 世界は僕から遠ざかっていった。僕も世界から自分を遠ざけた。
 終わりの見えない絶望から僕を救ってくれたのは
 他でもない、彼女の温もりだった。

「大丈夫、私が世界を視てあげる」彼女は僕にそっと身を寄せる。
 伝わる体温。小さな鼓動。僕のすべてを、あずけてしまいたくなる。
 暮れる大草原の夕焼けの話を、彼女に初めて打ち明けたのはそのときだ。
 空も風もぜんぶ吸い込んで静止する、混じりけのない赤の世界。他愛もない僕の想像の世界。
 拙い言葉で一生懸命語るうちに、なんだか涙が止まらなくなって、僕の顔はくしゃくしゃに緩んだ。
「子供みたいだね」彼女は屈託なく笑った。「行ってみたいな」

39 :No.10 茜 3/4 ◇bellCAI0rA:07/11/04 20:14:52 ID:CXhL+OYA

「――大草原ていえばお前、モンゴルとかじゃないか」
 数年後。大学の友人の何気ないひとことにより、僕の温めていた小さな夢は
 実現への確かな方向性と具体性を帯びて、僕の想像をいっそう刺激した。
 モンゴル。その国に、夢見た景色がある。
 大学卒業後、親族の紹介で事務職・電話応対の仕事に就いた。
 仕事の合間に簿記、ロジスティクスの勉強。フリー点訳のバイト。
「視覚障害者」だからといって決して「弱者」だと思われたくはなかった。
「ムリ、しすぎちゃダメだよ」彼女は僕の手にそっとキスをし、愛おしそうに舐める。
「大丈夫だよ」僕は彼女の頭をそっと撫でる。「君と見るんだ、あの夕焼けを。無理なんかじゃない」

 春。まとまった金が出来た。
 音声ガイドに従って、僕はモンゴルへの旅客機のチケットを予約する。
 はじめての飛行機。彼女はちゃんと、おとなしく座っているだろうか。
 大草原を目の前にしたら、きっと嬉しくてはしゃぎまわるんだろうな。
 荷物をまとめて、家を出る。二枚のチケットを握りしめる。
 早くこの息苦しい街を抜けて、夕焼けの国へと飛び立ちたい。
 信号ですら待ち切れない。そんな僕の逸る気持ちをいさめるように

 風が、吹いた。

 左手からするりと離れていく、握りしめた二枚の感覚。
 まずい、チケットが

40 :No.10 茜 4/4 ◇bellCAI0rA:07/11/04 20:15:29 ID:CXhL+OYA

 僕は短く叫んだ。
 同時に、右手からふっと離れていく、彼女のぬくもり。
 彼女は駆けだす。風に舞うチケットを追いかける。

 彼女は色が視えない。
 盲導犬は、信号の色を見分けるよう訓練されてはいない。

 信号は赤。赤のはずだ。青になれば、メロディが鳴る。それを僕が教える。そして彼女は僕の手を引く。
 いけない。僕の夢を追いかけて、彼女はまっしぐらに駆けてゆく。左右から、暗い鉄の固まり。
 彼女はチケットを口にくわえただろうか。嫌な汗が噴き出る。ああ見えない。歯痒い。
 その瞬間、けたたましいブレーキ音がそれを教える。鈍い音。彼女の悲鳴。
 僕は力を失くして、その場に膝をつく。周囲の雑音が耳に障る。
 悠長なほどに遅れて、駆けつける救急車のサイレンの音。
 事故車の運転手の男に真っ先に話しかけているようだ。
 僕にも一人が近寄り声をかける。「君が飼い主か、怪我はないか」
「衛生上の問題で、犬は救急車には乗せられない。いま保健所の車を呼ぶから」
 きっとまぶたの向こうには、信号の赤、救急車の赤、彼女の、血の赤。何も見たくない。
 両目がずきずきとえぐられたように痛んだ。彼女の視る世界が、僕の見える世界の全てだった。
 僕の世界もまた、白と黒とで出来ているのなら――僕の追いかけた夢は、なにいろだったのだろうか。

「世界で一番きれいな赤よ」彼女のささやく声が聞こえた気がした。
 白と黒との横断歩道に、彼女の温かい血がにじんだ。





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