【 コネクタ 】
◆wDZmDiBnbU




32 :No.09 コネクタ 1/5 ◇wDZmDiBnbU:07/11/04 19:59:12 ID:CXhL+OYA
 日記帳を色鉛筆で書いているから、私は人の色を忘れない。
 人にはそれぞれ色があって、それは一生変わらない。その色はその人だけのものだから、他
の人と重複するなんてこともない。たまに色のない人がいるけれど、そういうときは私が決め
てあげることにしている。
「そんなことをしていたら、すぐに色の種類が足りなくなるでしょう?」
 それは姉の感想で、そしてその通りだった。色鉛筆はすぐに足りなくなって、その都度買い
足しに行ったりもした。減り方には偏りが出てくるから、同じ色ばかりを買い溜めしたことも
あった。お父さんの紫色と、お母さんの茶色と、あとお姉ちゃんの青が特によく減った。私の
赤は、思ったほど減らなかったけれど、それも一緒に買い溜めておくことにした。
 結局、青だけがいつも足りなくなる。
 それは昔からのことで、そして今は、尚更だった。

 例えば朝の出来事は、全部青で書かなくちゃいけない。今、朝は姉の時間なのだ。姉はエプ
ロンをして朝食を用意して、全てが整うと私を呼びに来る。車いすの取っ手を押してリビング
に移動して、私を席に着けたあと、姉も自分の席に着く。そして手を合わせたところから、一
日が始まる。
 毎朝の出来事だけれど、それを繰り返すのも、ちゃんと書き留めておくのも、きっと必要な
ことだった。なんてことのない朝が、次の日も同じように訪れるとは限らないからだ。同じ手
順を踏むのはルールのようなもので、私たちを強くしてくれるような気がする。そしてルール
をちゃんと守っていれば、私と姉は二人で生きていけるはずだ。
 仕事に出かける姉を見送って、私は自分の部屋に戻る。それから姉が戻ってくるまで、私は
何もすることがない。高校に通うのをやめてから、もう随分と経っていた。仕方なく窓の外を
眺めたり、あるいはわざと窓を開けてみて、雀や野良猫が入ってこないかなんて心配したりす
る。結局何も入ってこないから、私は飽きる。そしてようやく、日記を開く。
 昔は頻繁に色鉛筆を持ち替えていたから大変だったけど、今はもうそんな心配はない。青鉛
筆だけあれば足りるからだ。他に買い溜めた紫と茶色は、二年くらい前にもう使われることが
なくなった。ちょっとした交通事故で、私が車いすに乗るようになったのもそのせいだったけ
れど、でもそんなことはどうでもいい。大好きな色のうちの二つが、一度に日記から消えてし
まった。それが私にとって重要で、そしてとても胸の痛む事実だった。
 その色はその人だけのものだから、間違って使ってしまうといけない。だから、私は紫と茶

33 :No.09 コネクタ 2/5 ◇wDZmDiBnbU:07/11/04 19:59:37 ID:CXhL+OYA
色の色鉛筆をすべて捨てた。そしてその日以来、私の日記帳は青で埋め尽くされた。あとは申
し訳程度に赤が出てくるくらいだから、それ以外の色も捨ててもよかった。それでも一応とっ
ておいたのは、青の隣に赤しかいないと、少し寂しいかもしれないと思ったからだ。
 日記を書き始めるのは午前中だけれど、でも書くことはいっぱいある。
 私は青鉛筆を手に机に向かって、ただずっと日記に没頭する。朝ご飯のことを書く。入って
こなかった雀について書く。姉の用意してくれたお昼をとって、今度はそれについて書く。も
し疲れたら、そのまま突っ伏して寝てしまえばいい。起きたらまた、続きを書く。
 そうしてちゃんとルールを守っていると、姉はすぐに帰ってくる。
「疲れたでしょう」
 姉は着替えるより先に、私の肩に毛布をかけてくれる。いつも通りとても柔らくて、そして
私の大好きな声。疲れてなんかいないよ、と私は笑顔を返す。姉は外で仕事をして、きっと私
よりも疲れているはずだ。だから私も負けないように、日記をいっぱい書く。そして、疲れて
ないよ、と姉に言う。それはいつも通りのルールで、それが守られている限り、怖いものなん
て、きっとない。
 そのはずだった。
「会って貰いたい人がいるの」
 姉の連れてきた客人は、見たことのない色をしていた。男の人の年齢はよくわからないけれ
ど、きっと大人だと私は思った。二十二歳の姉よりも、少しだけ大人で、そしてよく慣れた笑
顔をする人。私の車いすを見る前から、そのための笑顔を用意しておける、大人の人。
「はじめまして、ひなちゃん」
 姉と私以外の人間の声が、この家の中に響くのは久々だ。そしてそのせいで、少しルールが
破られたような気がした。私がその不安を告げると、姉は困ったように笑う。男の人も、一緒
に笑う。その笑いは適当なあたりで切り上げられて、そしてあとには笑顔だけが残る。聞いて
もいないのに、姉の仕事仲間だと、そして仲の良い友達だと、自己紹介をする。
 それでも一応、最後までは聞いた。でもそのおかげで、仕事が増えてしまった。疲れたから、
と言うと、姉が私の車いすを押す。早く部屋に戻らなきゃいけない、日記を書き足す必要があっ
た。余計なものが混ざり込んでしまったのなら、それを上書きしなきゃいけない。
「ひな。さっきの彼のこと、きらい?」
 私は答えなかった。そのかわりに、笑顔を返す。日記を書くから、と言うと、姉は「ほどほ
どにね」と言って、部屋のドアを閉める。その日はそれきり、姉の顔を見ることはなかった。

34 :No.09 コネクタ 3/5 ◇wDZmDiBnbU:07/11/04 20:00:01 ID:CXhL+OYA

 まだ色も決まっていないのに、その男の人はまたやってきた。
 仕事から帰る姉についてきて、私たちの家で夕ご飯を食べる。そんなことが何度も続いた。
ルールが変わってしまったことは認めなければならなかったけれど、でもまだどうにかなる程
度のものだと私は思った。たとえその男の人が姉のキッチンに入り込んでも、でも彼は知らな
いのだ。姉の本当の時間は朝だから、いくら夜に家に入り込んでも、きっとまだ大丈夫だ。朝
のルールさえ知られなければ、何も怯えることなんて、ないはずだ。
 だから、まだ半分だけだ。でも半分までは侵入を許してしまった。そのことが私を不安にさ
せるから、日記帳はどんどん進んだ。ほとんどのページが青で埋め尽くされて、赤はまったく
出てこない。あの男の人は色が決まってないし、それに決まったとしても書くことはないだろ
う。日記の中にまで侵入されたら、きっと大変なことになってしまう。
 夜更かしはしてはいけないと、姉にはそう言われていた。でもその姉の帰りも、仕事でとき
どき遅れることがある。だから私も、姉の残業のように、頑張る必要があった。とにかく少し
でも多く、日記を書かなきゃいけない。部屋の電気を消して、月明かりだけを頼りに、文字を
綴る。日付が変わったことにさえ、気付かなかった。
 遠くの部屋から、姉の声が聞こえた。
 私の好きな、あの柔らかい声ではなかった。でも確かに姉の声だった。押し殺したような、
くぐもった悲鳴。そこに男の人の、かすれたような声が、重なる。波のようなうねりを伴って、
遠くから直接、私の脳に響いてくるような、その声。
 私は、日記に没頭した。
 守る必要があった。

 ルールはもう、崩壊していたのかもしれない。
 男の人は、いつしか寝泊まりさえするようになっていた。こうなるともう、朝のルールさえ
も、私から放棄せざるを得ない。この家の色に、彼の色が混じりつつあった。そしてそれは、
姉に対しても。
「ひな。どうして彼と、口をきいてくれないの」
 姉の言葉に、私は答えない。もう無事なのは日記だけだった。その男の人について話すのは、
その日記さえ弱まってしまうみたいで、怖かった。
 黙ったままの私に、姉が小さくため息をつく。どこか疲れたようなその表情に、あの男の人

35 :No.09 コネクタ 4/5 ◇wDZmDiBnbU:07/11/04 20:00:27 ID:CXhL+OYA
の色が見え隠れする。私はいよいよ、覚悟を決めなくてはいけなかった。
 ちゃんと話すから、と言うと、姉は頷いた。でもまだ少し迷っているのは、もう顔を見なく
てもわかる。私と姉はずっと一緒に生きてきて、そしてこれからずっと、そうしていくのだ。
お互いの気持ちなんて、聞いたり伝えたりしなくても、わかる。
 私は姉と話し合った。どう言えば、何をしたら姉が満足するのか、私にはよくわかっていた。
姉は頷いて、そして部屋を出て行った。少し申し訳なさそうな顔をしていたのが心に残る。
 そんなに不安にならなくても、大丈夫。
 そんなことはきっと、言うまでもないことだったと思う。

 日曜日、いつもなら姉と一緒にいるはずの時間。それをあの男の人のために差し出すのは、
苦痛だった。
「なんか急用だって、かわりに食事の支度とか、頼まれたからさ」
 そんなことは、言われるまでもなかった。私が姉と話して決めたのだ。一日かけて、この関
係をどうにかすると。我が物顔で姉のキッチンに立つ、その姿は嫌いだけれどでも仕方がなかっ
た。姉のためだし、そして姉もまた、私のためにしてくれたことなのだ。
 なにかと喋りかけてくるけれど、答える必要なんて、なかった。特に会話らしい会話もない
まま、一日が過ぎる。とっくに夕ご飯を終えて遅くなっても、でも姉は帰らない。電話も繋が
らないなんて、そんなのは当然だった。何かあったのか、と一人でそわそわするその男の人に、
私は初めて、声をかける。
 私は一人ではお風呂に入れない。だから、入れて欲しい、と。
 なんてことはない、一日面倒を見ると約束したのなら当然の依頼。でも彼は、私の頼みを断っ
た。そんな必要なんてないのに、でも男の人は必ずそうする。とりあえず一度は断ってみせる
のだけれど、でもそんなものは結局、ポーズでしかない。綺麗に取り繕った表面の下に、何度
見ても理解できそうにない、男の人に共通のその色が、見える。
 多少時間はかかったけれど、でも結局は一緒だった。
 少し強引に、押しただけ。それだけで彼は、簡単に前言を撤回する。そして最後の最後には、
撤回する以上のことを、私にしてみせる。浴室に響くシャワーの音に、どこか遠く、ぼやけた
ような、私の声が混じる。姉に同じ声を出させた、その男の、その行為。
 これで何度目のことだろう。姉と同じものを見て、感じて――二人で分け合うのは。
 体の芯を貫く巨大なうねりに、私はただ姉のことを思い浮かべる。姉が認め、この家に上げ

36 :No.09 コネクタ 5/5 ◇wDZmDiBnbU:07/11/04 20:00:53 ID:CXhL+OYA
て、そして私にまで引き合わせた――この男の、力と、熱。とても言い表せないほどの、得体
の知れない、その色。姉の身を焼いただろう激しい彩りが、いま私の奥に灯り、暴れ、迸る。
 湯気の向こうに、意識が飛ぶ。もはや声にもならない。誰に言ったのかさえ、きっと消える。
徐々に引いていくこの熱と、一緒に。
「大好き」
 いつしか滲んでいた視界の向こうに、決して触れることの出来ない青が、見えた。

 危機は、いつも通りの結末になった。
 続くはずがない。その男の人は、もう家に来ることはなかった。残された姉と、そして私だ
けが、この家に残る。二人の時間とルールは、何事もなかったかのように、元に戻る。日記は
普段通りの量に戻り、私が夜更かしすることもなくなった。
 それはまた、いつものことだった。姉がルールを変えようとするのも、そして私に預けたそ
の晩、そのまま戻ってこないのも。だから姉は私を責めたりはしないし、逆に謝ることもない。
 そのかわりに姉は、いつも、泣く。
 それはきっと自然なことで、例えば恋人と別れれば、涙を流すのは当然のことだ。でも私に
はわかる。姉は真面目な人で社会性もあるから、こうでもしなければ、きっと泣けない。それ
どころか彼女は、唯一の肉親にすがることさえ、いまだけしか出来ないと思っている。
 だから私は、日記を書く。不器用な姉のために。私を守るために、不器用にならざるを得な
かった彼女のために。私だけは、ずっと姉の望んだ私でいたいと思う。
 真夜中。ベッドに横たわる私の胸に、姉が顔を埋めて、泣く。何に泣いているのか、どうし
てそんなに悲しむのか、わかるのはきっと、私だけ。この声の柔らかさと、そこに秘めた思い
を受け止められるのも、私だけ。
 そっとなでる髪がほのかに香る。月明かりに照らされて、柔らかな頬が青白く浮かぶ。
 お姉ちゃん、と呟くと、姉の指が小さく、震えた。
 たくさんの青と、そして少しの赤。二人の色は、変わらない。ルールに守られて、ずっと続
く。すぐに朝が来て、姉はエプロンを着る。二人でまた、手を合わせる。
 例え触れ合えなくても。繋がらなくても。青に、赤が、混じれなくても。
 私たちはきっと、ずっと、幸せ。

〈了〉



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