【 天才のこだわり 】
◆LlDUc0t852




18 :No.5 天才のこだわり 1/5 ◇LlDUc0t852:07/11/04 05:06:58 ID:D08t3xS3
 無造作に散らばる筆や絵の具のチューブ。地面は、これまでたくさんの絵の具が何度も零れ落ちたせいで、小
汚く染まっている。一軒屋の一部を無理矢理改造して作られたこのアトリエは、およそ普通の人間が過ごすには
不衛生すぎる乱雑さだった。だがそんな汚さも、ここの主で私の雇い主でもある、天才画家周防守にとっては、
この世で最も過ごしやすい場所の一つなのだった。
 周防は今私に背を向け、一枚の大きなキャンバス相手に仁王立ちをしている。
「麻友君。君はこの絵を見てどう思う?」
 周防は、そう私に問いかけてきた。
 私は、周防の見つめるモノを改めて観察した。キャンバスには言語で説明するには困難な、複雑で難解な“絵”
が描かれていた。かろうじて解るのは、絵の下のところに人が二人ほど横になっているということだけであって、
それ以外の線や丸などの幾何学的模様が何を表しているのかは、家政婦の私には全く理解できなかった。
「何を描かれているのか、私にはわかりません」
 私が素直に感想を答えると、周防は大きく首を左右に振り、大げさな溜息をついてみせた。
「君には失望したよ。いいかい、この絵はね、戦争と平和という二つの対立した抽象的概念が、まるで人間のD
NAの二重螺旋構造のごとく絡み合い結び付き合い、未来永劫決して完全な分離をすることなく――」
 何だかややこしそうだったので、私は最初の三十秒で彼の話に耳を傾けるのを止めることにした。この判断は
正しかった。周防はその後二十分も語り続けたのだ。真面目に聞いていたら、きっと肩が今の三倍はこっていたと思う。
 語るべきことを語りつくしたのに満足したのか、周防は長々とした説明を止めてこちらに振り向いた。今年で
三十五歳になった周防の顔は、珍妙な性格とは裏腹に意外と凛々しい。無精髭が妙なワイルドさを演出している。
「つまり、この絵は、かつてのバブル期に調子に乗ってマンション買ってしまった哀れな中年男性をイメージし
ているのだよ」
 戦争と平和はどこに行ったんだろう。いつの間にかテーマがえらく陳腐なものになってしまっていたが、そこ
らへんに突っ込みを入れることはしない。天才の考えは、私達凡夫にはわからないものなのだ。
「たいへん素晴らしいテーマだと思います」
 適当に感想を言っておく。
「共感を持ってくれてありがとう麻友君。しかしだね、実は非常に残念なことが一つあるんだ。いや、正確には
三つかな」
「どんな問題ですか?」
 私が質問すると、周防は再びキャンバスに視線を戻した。私もその視線を追った。キャンバスに描かれていた
絵は、大部分がすでに色も塗られていた。しかし、所々にまだ色の塗られていない、地の部分がいくつか見受けられた。
「イメージに合う色がね、上手く作り出せないんだよ。赤と茶色と白。この三つの色が、どうしても今ある絵の

19 :No.5 天才のこだわり 2/5 ◇LlDUc0t852:07/11/04 05:07:34 ID:D08t3xS3
具では表現できないんだ」
「赤も茶色も白も、全部絵の具があるじゃないですか」
「違う。だから、私のイメージに合う色だよ。ちゃんと話を聞いときなさい」
 周防は完璧主義者だ。描いた絵が少しでも自分の構想しているものと違うと不機嫌になり、問題の箇所がイメー
ジ通りのものにならない限り、徹底して改善を行おうとする。今までで一番凄かったのが、曲線の曲がり具合が
気に入らないということで、満足できるまで一週間寝ずに曲線を描き続けたことだ。
 この完璧主義は、周防が一人で完結させてくれればそれで問題はないのだけど、実際は家政婦である私にもと
ばっちりはしっかりと飛んでくる。
「麻友君、街に出て私が想像する色のモノを探す。車を用意しなさい」
 家政婦の私に車の運転までさせようとする周防は、私のことを体の良いアシスタントか何かだと考えているようだ。

 周防の家は普通の住宅地にある。彼は絵が描ければそれでいいらしく、金や地位などにはほとんど興味がない。
豪邸や裕福な生活とやらにも彼は興味がなく、結果彼の家はごく一般的な住宅地の中の一軒屋となっていた。
 車で狭苦しい路地を通り、十分ほどで大きな幹線道路に出る。とりあえず最初に向かったところは、駅前の大
手デパートだった。そこの四階には、大きな絵描き用品売り場がある。アマチュアからプロまでが納得できる品
揃えで、周防もよく利用するところだ。
 壁一面にずらりと並べられた無数の絵の具達。チューブにプリントされた絵の具の色がグラデーションとなる
ように配列されていて、なかなかの壮観だった。ぱっと見ただけでも、百を超える種類が用意されているみたい
だった。これだけあれば、きっと周防の納得できる色があるだろう。私はそう思い、適当に近くの筆やらを眺め
ていた。が、すぐに後ろから肩を叩かれた。振り返ると、周防が不機嫌な表情で壁の絵の具達を眺めていた。嫌
な予感がする。
「駄目だ。私のイメージするものがない」
「ここにないとなると、他の店にも多分ありませんよ。ここが、一番品揃えがいいんですから」
「私が求めている色は、こういうあらかじめ人工的に作られた色ではないんだよ。もっと自然体の、人が故意に
手を加えたわけではない色彩。それが私の欲する色だ。とにかく、ここに私の求めるものはない。外へ出て探すぞ」
 外って、一体何をどうやって探すつもりなのか。私の抗議の視線などお構いなく、周防はとっとと下へ降りて
行ってしまった。

「周防さん、一体どうやって色を探すんですか。ねぇ、ちょっと聞いてますか?」
 早足で歩く周防はなかなか速い。身長が高いせいで歩幅も普通の人より大きいのだ。女の私だと小走りじゃな

20 :No.5 天才のこだわり 3/5 ◇LlDUc0t852:07/11/04 05:08:16 ID:D08t3xS3
いと着いて行けなくなってしまう。あちこち視線を巡らせながら、人通りの多い歩道を突き進んでいく周防を、
私は軽く息を上がらせながら追いかけていた。しかし、少ししてから、周防は突然足を止めて、ある遠くの一点
だけを見つめるようにして硬直した。視線の先を見ると、そこには一軒のアイスクリーム屋があった。周防が見
つめていたのは売られているアイスではなく、その店の前に置かれた、大きなアイスクリームをかたどった看板だった。
「あれだ……見つけたぞ、麻友君!」
「あ、あれって」
 アイスクリームの看板は、確かに白い色していた。しかし、その色は白というよりは灰色。長い年月外に出さ
れていたせいか、埃や排気ガスで汚れてしまっていた。
「全然白じゃないじゃないですか」
「あれがいいんだよ。まさに私の求めていた自然体の色彩。店長! この店の店長は誰だ!」
 周防が勇ましく声をあげると、何事かと驚いた顔の店長らしきおじさんが店の奥から顔を出した。
「君がこの店の店長か。悪いが、この看板を私に譲っていただきたい」
 当然、店長さんは困惑する。いきなり現れた無精髭のおっさんが、自分の店の看板をくれと言ってくるのだ。
最悪警察を呼ばれてもおかしくないと私は思った。けれど店長さんは、百十番通報はせずに、とりあえず真面目
に周防の話を聞いてくれた。しかし、話を聞く店長さんの表情の雲行きは徐々に怪しくなっていく。
「いや、そんなこと言われても、看板はおいそれと人にあげられるものじゃないよ」
 ごもっともな意見。おかしいのは周防だから、店長さんはそんな申し訳なさそうな顔はしなくていいんですよ。
 しかし、完璧主義者周防守は決して諦めない。彼はポケットから一枚の短冊状の紙を取り出すと、流れるよう
な手つきでその上に数字を書き込んだ。
「これでどうかな?」
 まさに外道。困ったら金で解決だなんて、ドラマの中の性悪富豪くらいしか使わないような手を平然とやって
のける。それが天才周防の、一般人とは一線を駕している点だ。小切手に書かれた有り得ない金額。看板なんて
どうでもよくなるような金額を前に、店長は目の色を買えて首を縦に振った。恐るべき金の力。
「ありがとう。では麻友君。この看板を車まで運んでくれたまえ」
 躊躇いなく女に力仕事を任せてくるところも、天才周防の凄いところ。私は無駄に重い看板を担ぎ、途中通行
人全員から向けられた好奇の視線にも耐え、車を止めていたところまでなんとか看板を運んだ。腕がしんどい。
できれば今日はもうこれで帰りたかった。けれど、周防はもちろん帰る気などない。まだあと二色、探し終えて
いないからだ。
 車の後部座席に看板を置き、私は車の外に出た。それまで車のそばに立っていたはずに周防の姿が、いつの間
にか消えていた。辺りを見回してみると、五メートルほど離れたところで周防がしゃがみこんで地面をじっと見

21 :No.5 天才のこだわり 4/5 ◇LlDUc0t852:07/11/04 05:08:52 ID:D08t3xS3
つめていた。私は近づいて、周防が見ているものを確かめてみた。周防が見ていたのは、大きな犬のウンチだった。
 すごく嫌な予感がする。確か、周防が求めていた色の中には、茶色があったはず。
 しばらくそのウンチを真剣に見つめていた周防は、一言つぶやいた。
「……近いな」
 やめてください。
「だが、違う。私が求めるのは、もっと薄めだ」
 薄かったらウンチでも良かったのだろうか。周防はウンチへの興味をなくし、立ち上がって辺りを見回した。
そして、すぐに何かを見つけた。いきなり駆け出す周防。私はビニール越しとはいえウンチを触らずにすんだこ
とに安堵する暇もなく、周防の後をあわてて追いかけた。
 周防が駆け込んだ先は、工事現場だった。ビルを建設しているらしく、鉄骨の骨組みが高く組み立てられてい
た。今も工事の真っ最中で、そこかしこで建築機材が唸り声を上げている。周防が興味を持ったのは、この工事
現場の地面。土だった。周防は地面にしゃがみこんで、土を手にとり手の平の中でこねたり、地面に小さな土の
山を作ったりして、その感じを確認していた。
「これだ! これだよ、麻友君!」
「……よかったですね」
 その後の展開は、さっきのアイスクリーム屋とだいたい同じ。現場責任者に話をつけ、土をバケツ一杯分ほど
いただき、私達はその場を後にした。
「後は赤だ。このペースなら、簡単に見つかりそうだな、麻友君」
「そうですね……」
 正直、もう帰りたかった。いくらこの仕事は給料が普通より高いとはいえ、今日の仕事はちょっと割に合わな
い気がする。早く帰って、夕飯を作って、九時からの連続ドラマが見たかった。けれど、周防は赤色を探す気マ
ンマン。当然、すぐに帰れるわけがなかった。
 悲劇だったのは、その後日が暮れるまで街中を歩き回ったのに、周防が納得のできる赤色を見つけることがで
きなかったことだった。一日中歩き回って、日が沈み、疲れ切った私は懇願するように、家に帰りましょうと周
防に言った。周防は諦めがつかなかったみたいだが、お腹は減っていたらしく、飯にするか、と言ってしぶしぶ
車に乗り込んでくれた。

 周防の家の台所に立ち、今日の夕飯の準備をする。周防は今日街中で集めた“白”と“茶”を使って、絵の色
を塗っている。
 今日は何にしようか。疲れたから、スタミナのつく料理がいいかな。さっぱりしたものもいいかもしれない。

22 :No.5 天才のこだわり 5/5 ◇LlDUc0t852:07/11/04 05:09:32 ID:D08t3xS3
サラダを作ってみよう。幸い周防は好き嫌いがないおかげで、ご飯は適当に作っても残さず食べてくれる。
 私は冷蔵庫の野菜室からいくつか野菜を取り出した。野菜を切りながら、私は今日一日を振り返った。とても
疲れる一日だった。本当、給料が高くなかったら、こんな仕事絶対しないんだけどね。まぁ、こんな酷い日は年
に二、三回あるかないかだし、普段は結構快適な労働環境だから、むしろ良いんだけど。
 こんな感じで、物思いにふけながら包丁を扱うというのは、とても危険なことです。皆さんは真似しないよう
にしましょう。
「あいたっ……!」
 ほとんど無意識に動かしていた包丁の刃先が、私の左手の親指を僅かに切ってしまった。途端に傷口から真っ
赤な血があふれ出てくる。やっちゃった。私は慌てて傷口に吸い付いた。口の中に、血の鉄っぽい味が充満する。
あまり良い味じゃない。
 しばらくしてから口から出してみるけど、血はまだ止まっていなかった。傷口からぷっくりと血の玉が出てく
る。と、その時妙な視線に私は気付いた。横を振り向くと、周防が目を見開いて突っ立っていた。何かに憑かれ
たような周防の視線に、私は思わず身震いをした。単純な恐怖。周防の唇が、ふるふると震えながら言葉を紡ぎだす。
「それ……だ」
「それ?」
「赤色を見つけた」
「え……?」
 鬼のような形相の周防。一日かけて探して、結局見つけられなかったモノを、今ようやく見つけることができ
た喜び。周防の顔には、人間の倫理的な部分など微塵も浮かんでいなかった。
 迫りくる周防に、私はなすすべもなくその身を突き飛ばされた。

「満足しましたか?」
「愚問だな。この完成品を見れば、そんな質問はむしろ失礼に値することに、何故君は気付かない」
「……失礼しました。素晴らしい作品ですね、周防さん」
「そうだろう。そうだろう」
 出来上がった絵を見つめ、大満足だ、というふうに大きく頷く周防。
 昨日まで色のついていなかった場所には、粉々にすり潰され接着剤で接着されたアイスの看板、同じく接着剤
で塗りたくられた土、そして、すり潰された赤いトマトが塗られていた。
 私は左親指に張った絆創膏を軽くさすりながら、やっぱり何を描いているのか解らないキャンバスを見つめて、
深い溜息をついた。



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