132 :時間外No.03 蝶が誘う追憶 1/5 ◇TtwtmrylOY:07/10/29 20:59:56 ID:xd9affYt
大洋にひっそりとなりを潜める孤島。
どこか妖異な雰囲気を纏い、島周辺にほのかに立ち込める霧はそれを一層強めていた。
島の外観はぼやけており、様相を完全に把握することは適わない。僅かに視認できる限りでは、鬱蒼と森が茂るばかりで、一見小気
味悪い無人島でしかない。
しかしながら、そこには少女がいた。儚げにも、辛(かろ)うじて存在を留める一人の少女が。
彼女は外界とのつながりは皆無に等しい。島の沿岸部より伸びる道――はたして道と呼べるのか否かは定かではない――へと歩を進
めると、殺伐とした光景には似つかわしくない洋館とおぼしき建築物が屹立している。彼女は、物心ついたころから洋館に居た。ただ
一人、孤独に世界の移ろいを怠惰に見つめてきた。
また、彼女は"人"ではなかった。病的なまで蒼白とした肌と背中から悠々と伸び行く翼、臙脂(えんじ)を深く、穏やかに湛えた瞳。
そう、"吸血鬼"である。
生きてゆく術を身につけるにあたって、今後成長することは無いであろう幼き細い体躯と、一人であるということは彼女の大きな枷
となった。右も左も分からぬまま放り出された彼女は、自分が吸血鬼である事を自覚するのにもそれなりの時間を要した。洋館の蔵書
を日夜読み耽り、自ら処世術を体得できたのは幸いというべきだろう。
それからは彼女は食事の為、島外に出かけるようになった。"吸血鬼"の名のまま、血を欲するのが吸血鬼の性質らしく、他の食物は
喉を通るものの、血に対する抗いがたい衝動に駆られることも少なくなかった。
外界へと身を投じるにつれて、吸血鬼に関しての噂は広がり、噂は事実として認識されるようになる。噂を聞きつけてか、誰とも知
れぬ人間が度々島に訪ねてくるようになった。
多くは、彼女を唐突に殺そうとした。ある者は剣を振るい、ある者は杖を用いて奇妙な技をやってのけた。直感的に身の危険を感じ
た彼女は、抵抗するほか無かった。抵抗してみると思いのほか人間は脆く、いとも簡単に体がひしゃげた。吸血鬼としての常軌を逸し
た身体能力が細身の彼女にこれほどまでの力を与えているに違いない。
理由なき強襲を乗り越える彼女は、自然に学習した。"魔法"は学習の最たる例だと言っても過言ではない。眼で視て、洋館の書物を
読みあさった結果、何とも不思議な力を手に入れるに達した。
"魔法"が使えるようになってからというもの、ことさらそれを行使する機会が格段に増えた。直接的な打撃を加えなくとも、腕の一
振りで全てが終わる、人を殺す為だけに生まれた魔法。寄り付く敵を振り払うため、幾度となく人間を手にかけ、どこかしら殺戮を楽
しむ自分が生まれつつあることに、いつかしら強い嫌悪感を抱くようにすらなった。
彼女の心は時を重ねるにつれて、ささくれ立っていった。
そして、今に至る。
◇
133 :時間外No.03 蝶が誘う追憶 2/5 ◇TtwtmrylOY:07/10/29 21:00:23 ID:xd9affYt
今宵は満月だ。
薄暗い部屋に一つだけある窓からは、月明かりが一筋の光線を作っていた。窓辺に寄り、月を見上げれば人ならざる血が沸々と滾(
たぎ)るような感覚を覚える。
吸血鬼の性質上、朝は外に出ることはできないので、半ば昼夜逆転の生活となっている。
まどろ みの残滓を感じながらも、ふらふらと立ち上がる。テーブルの上にはコーヒーカップが一つ、それを目覚まし代わりに飲ん
だ。不味い。魔法なぞ要らないから美味しいコーヒーの淹れ方を教えて欲しいなどと最近は思うのだった。
黒衣を柔らかに羽織り、そそくさと準備を済ませる。鳥、獣、そして花も寝静まる夜半、散歩に出かける物好きは私ぐらいなのだろ
う。運動不足になってはますます困ると懸念する私は、玄関口のドアを開け放つ。さあ、夜の散歩の始まりだ。
冷ややかな風が正面から身体に吹き付ける。強風に煽られ、眼前に手を掲げ気味に洋館裏へと回った。
建物の裏はますます殺伐としており、花が咲き誇っていたのは何年前のことだろうか。夜と私にお似合いだ。そうは言うものの何処
となく悔しさがこみ上げてくるのは気のせいだろう、と思いつつ森へと足を進める。
小さな一歩を踏み出した私に予感めいた感覚が走った。確信には至らない、薄弱な気配。
霞がかかったようなもどかしい感覚は、徐々に信ずるに足るそれへと形を変えてゆく。
――誰か、居る。
土を踏みしめるがさついた音がこちらへと向かってくる。耳をそばだてなくとも聞こえる程度の足音になった頃、闇よりおぼろげな
輪郭がほうと浮かび上がった。そうして森の中から何者かが姿を現した。――またいつもの人間だろうか。
暗がりの中に立つ人影はローブをまとい、深くフードを被っているので、表情が判然としない。
思いをめぐらせる私を気にも留めずに、ローブの主はつかつかと近寄ってきた。満月の夜に私に戦いを挑もうとするのならそれこそ
自殺行為だ。何を考えているのだかさっぱり分からない。
ふと気づけば、数歩歩けば体が触れ合う、そんな距離までに何者かは歩み寄ってきていた。
そして、私の姿を認めるなり、気の抜けた素っ頓狂な声を上げた。
「あれっ、お、お嬢さん?」
一体何なのだろうか。毎度の如く、つまらぬ争いを仕掛けてくる下衆共ではないのか。
「わ、うわ、本当に子供だー」
フードを持ち上げ、素顔があらわになる。フードを脱いだ勢いで、清冽たる黒い髪がさらりと宙を舞い、闇に溶け合う。調子の外れ
た声で喚く彼女は、この私がさぞかし珍しいらしい。
「金髪! 眼が紅い! 凄いわ!」
精神年齢はいかほどなのだろうか、この女は。顔を遠慮無しにずずいと近づけてくる彼女から、顔を逸らす。とにかく姿を見られた
以上、処分せねばならないのだ。
私の意志に同調するかのように、右手に薄紅色の光が微弱に灯(とも)る。これだけの至近距離からなら一撃でしとめられると、嫌で
134 :時間外No.03 蝶が誘う追憶 3/5 ◇TtwtmrylOY:07/10/29 21:00:57 ID:xd9affYt
も培われた経験が私に囁く。
踏み出す決意を固め、右手を振り上げようとすると、手首に何かが触れた。
正面を向けば、少女の顔。彼女は柔和な笑みを湛えながら、ただ一言だけ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私と一緒に散歩しましょ」
◇
言葉が合図だったのだろうかどうかは定かではないが、彼女の口が動いたと共に、ローブから伸びる白い手があてがわれた地面が微
かに光を湛えた。
すると見る間に光は広がり、放射状に波紋を描きながら、彼方へと走った。
続いて、光線の走った後にはまばゆい霧が立ち込み、二人を取り巻いてゆく。目の前の少女は以前私の手を握ったままだった。
「離しなさいよ」
「何を」
返答をする間もなく、魔法は更なる反応を示す。
薄霧は次第に沈殿し、地面に歪な形を成した。周りを見渡せば一面が同じような光景に変貌する様が見受けられた。
歪んだ光の塊は、度重なる変形を経て、光は鎮まりかえる。辺りに残ったのは、満月の夜にはあまりにも不相応な花、花、花。上空
からは極彩色の花弁が乱れ舞う圧巻の情景。
ただただ上を見つめる私を現実に呼び戻したのは、彼女の声だった。
「ね、綺麗でしょ」
いかにも自身有り気といった風に彼女は笑顔を絶やさないでいた。
「それより……」
「ん? あまりの美しさに見とれた? 見とれたわねぇ」
「そうじゃなくて」
故意に惚けているのだろうか。怒りとも呆れともつかない感情が段々と沸き起こってくる。
「手」
「手?」
「手、離して」
そうは言ったものの、彼女は相も変わらず、何を今更といった表情をこちらによこす。
「それは無理な相談ね」
「あなたの一番欲しいものはなあに?」
「美味しいコーヒーの作り方」
僅かに彼女は眼を逸らすと、またこちらを見つめて言い放った。
135 :時間外No.03 蝶が誘う追憶 4/5 ◇TtwtmrylOY:07/10/29 21:01:22 ID:xd9affYt
「うふふ、面白いものが欲しいのね。夜の散歩は、二人の方が楽しいわ」
私はどこまでも呆れた。
何かしらずれた少女は何を言っても聞く耳を持たず、頑なに私の手を握り続けている。当の彼女は非常に喜々としていて、私がその
お気楽な顔を一瞥すると、こちらを向き軽く微笑んだ。
そろそろいい加減にしてもらえないだろうかと思った頃、突如手を離した彼女は、ふわりと左へ半回転した。
「疲れたし座りましょ」
「嫌だ」
「ほらほら、意地張らない」
しょうもない誘いに乗ってしまった。しかたなく魔法によって顕現した花弁の上に座り込む。
「魔法ってさ、色々あるのよね」
唐突に切り出す彼女の顔に先ほどまでの柔和な笑みは消え、物憂げな表情を浮かべる少女が居た。
「あなたは、どう思う?」
「どうって」
「だからー、私の魔法よ」
随分率直だ。自分の感情を他人へと伝えた事がないため、私は戸惑った。このどうしようもない女にどう伝えようか、悪意に満ちた
感情で胸中を埋め尽くそうとするも、思ったのは一つ、美しかったの一言に尽きるしかなかった。
「別に、美しかったとでも言えば満足かしら」
「うふふ、実に満足だわ。お礼にもう一つ見せてあげる」
楽しげに言った彼女は、私の手首を穏当に掴むと、その手中に空洞を作るように優しく包んだ。
「さて、一体何が起こるのでしょうか?」
彼女は、にやにやと私の表情の微細な変化を楽しんですらいるらしい。ああ腹が立つ。
「しっかり見てなさいよー、そこっ、拗ねたみたいな顔しないっ」
慎重に、何か大事なものを扱うかのように少女の手が離れる。
「まだ手、離しちゃだめよ」
手中にはほんのりと温かみが漂い、この寒い季節には心地よい温もりだった。
指の間からは藍を帯びた光が漏れ出し、はらはらと細やかな粉を散らしている。
少女を見れば、既に彼女はこちらを向き、静かにこくりと頷くだけだった。
合図と共に、私は手中のまだ見ぬ何かを解き放った。
◇
136 :時間外No.03 蝶が誘う追憶 5/5 ◇TtwtmrylOY:07/10/29 21:01:49 ID:xd9affYt
――手を広げた先に広がるのは、蝶――正しくは、蝶の形を成したに過ぎない光だろう――の群れ。矮小な自身の手からは溢れんば
かりの蝶が翅(はね)を広げ、優雅に飛び立った。
つぶさに観察すれば、翅は青を基調として、濃くも薄くも気まぐれだった。翅は浅葱へ瑠璃へ紺へ、自由に変幻する。
手で掴もうとすれば、儚くも美しく粉となって散った。夜空を見上げれば、満月とぴたりと重なり合う蝶が一つ。
煌々と輝く月と自在な青の対比に、切ない気持ち(吸血鬼へと成り果てる以前の記憶、彼女がそれを知る機会は一生訪れる事は無い
だろう)が、忘却の彼方の何かを伴って、私の中で渦巻いた。
そうしてその感覚を忘れまいと、私は両腕でもって、か細い身体をぎゅっと抱きしめた。
◇
「驚いたでしょ、そうそう、それとあなたの驚いた顔! 可愛かったわよー」
「別に」
一気にまくし立てるこの阿呆の調子には乗せられまいと、素っ気無い返答をする。
そのとき、ある考えが頭を掠めた。普段の私なら、下らぬ事を思いつくような楽天的な脳は持ち合わせていなかったはずである。だが、
これだけは伝えなければならない。事後を考えるのを私はやめた。
「寒い、喉も渇いた」
「そうね、ローブを貸すわ」
半ば強引に着させられる形でローブを羽織る。未だに隣の少女の体温が残っているのか、ほのかに暖かい。
そのまま、彼女へと倒れこむと、それを予期していたかのようにゆっくりと受け入れる。
「眠い?」
「違うわ」
「じゃあお子様は瞼が重いのかしら」
「違うわ! そう、私は、私は――吸血鬼よ」
彼女は何も言わなかった。
口を開き、彼女の露出した肩口へ、吸血鬼特有の鋭利な歯をつき立てた。ぷすりと皮膚を突き破る感触、口内に広がる生暖かい血の
味。実に馴染む。
久方ぶりの食事をじっくりと味わう私は、突然抱きすくめられた。くすくすと笑い、そして耳元で聞こえるよく通る声が一つ。
「血もいいけど、美味しいコーヒーの淹れかたも……教えて欲しいでしょう?」