【 スノウ 】
◆2LnoVeLzqY




81 :No.18 スノウ 1/6 ◇2LnoVeLzqY :07/10/28 22:30:52 ID:94r1qYP2
 あの頃の話をしよう。
 それは、僕が小学校の三年生だった頃の話。世の中の仕組みなんて全くわかんなくて、世界といえば自分の家と教室と、それからよく行く友達の家までの道のりと、そのくらいだった頃の話。
 サンタクロースの存在は95%ぐらい疑ってて、そのくせ5%ぐらいは信じていたくて、おまけに魔法の存在だって、すっかり否定はできなかった頃の話。
 ……つまるところ、僕が子どもだった頃の話だ。

“せんせい”と呼ばれる女の人がいた。
 誰がそう呼ぶようになったのかはよく覚えていない。どうしてそう呼ぶようになったのかも覚えていない。
 そもそも彼女を“せんせい”と呼ぶ理由なんて、考えてみればどこにもなかった。
 だって学校には何の関係もないし、だいいち本名だって知らないのだから。けれど気がついたら誰もが、彼女をそう呼ぶようになっていた。
 たぶんそれも、彼女の魔法のひとつだったのだろうと思う。

 彼女は、魔法使いなのだった。
 僕たちが学校から帰る時間に、彼女は毎日現れた。住宅街の只中にある、家が四軒ぐらい建ちそうな広さの公園の中心。そこが彼女の「出現場所」だった。そこに彼女は机をひとつ置いて、その後ろに立っていた。
 ある日突然、というわけでもない。三年生になった頃から、気がついたら彼女はそこに“いた”のだ。
 あたかもランドセルの色の違いみたいに、“せんせい”は自然と、僕たちの世界に溶け込んできた。その姿を見つけた僕たちは、まるでそれが当然であるかのように、彼女のもとに毎日集まるようになっていた。
 小学校三年生の僕たちの世界はいつの間にか、こうして少しだけ、不思議な方向に広がっていたのだ。

「今日のあきらさん、給食時間中ずっと寝ちゃってたねー」
「へっ、毎日そうならいいのに。あの人、給食時間だけはうるさいんだ。トマト残すなとかさ」
「なら今度からオレにくれよそのトマト。トマトが嫌いとかよくわかんねーな」
 僕たちはいつも学校帰りに、五、六人で彼女のもとを訪れた。
 クラス内ではみんな(担任以外)が彼女のことを知っていたけれど、一度に行くのは五人前後という暗黙の掟ができていた。いつ誰が訪れるのかも、いつのまにか順番ができあがっていた。
 ちなみに、あきらさんというのは当時の僕たちの若い担任のことだ。彼のことを「井上先生」とは誰も呼ばなかった。クラス内の誰もが、彼を下の名前で「あきらさん」と呼んだ。
“せんせい”という呼び名は、公園にいる彼女に与えられたものだからだ。
 彼女は“せんせい”という言葉にぴったり当てはまるように思えた。まるで“せんせい”という言葉が彼女を探し当てたみたいに。名前なんて、そんなもんだ。
「ジャイアンツの先発、今日は誰だと思う?」
「うーん、昨日が試合無い日だったから読めないなぁ」
「しっ、もうすぐ公園よ」
 公園に近づくと誰もが黙った。僕たちが黙ると、周囲の音までもが一緒に消えるようだった。そうして静寂があたりを包むと、僕たちは彼女が近いんだな、と感じる。
 住宅街に伸びる塀の片側が突然途切れると、ぽっかりと公園が現れる。

82 :No.18 スノウ 2/6 ◇2LnoVeLzqY:07/10/28 22:31:42 ID:94r1qYP2
 そして、住宅街に囲まれ、三方を緑色の柵に覆われたその公園の中心には、いつものように、机とともに“せんせい”がいるのだ。

「せんせい、来たよ」
“せんせい”を中心に、僕たちは机の周囲に集まる。彼女はにっこり笑って、それから恭しくおじぎをした。僕たちはたどたどしくおじぎを返す。
 それは、一種の始まりの儀式だ。僕たちの世界のうち、不思議な方向に少しだけ開いた部分に入り込むためのセレモニーなのだ。
 彼女は綺麗な黒い髪をしていた。服装はいつも違っていたけれど、いつもしている金の十字架のついたネックレスが特徴的だった。
 彼女の年齢は、小学校三年生の、当時の僕たちにはわからなかった。見当がつかなかったのだ。
 今思えば、二十か二十五か、そのくらいに思う。けれどあの頃はいろんなものが、実際以上に大きく、そして遠く思えた。
 六年生なんて別世界の住人に思えたし、近所に住む中学生にはある意味で怖ささえ感じた。
 そんなもんだから、目の前にいる“せんせい”はただひたすらに、当時の僕たちにとっては不思議な存在だったのだ。
「せんせい、今日は何をしてくれるの?」
 クラス委員長の麻衣子が訊いた。“せんせい”はいつも、笑ってそれに答える。
 彼女は僕たちの前では一言もしゃべらなかった。僕たちの間では、「魔法と引き換えに声を失った」とか、そんなふうに噂されていた。
“せんせい”は僕たちをひとりづつ、じっくりと見た。
 そして麻衣子の髪の毛を一本だけつまむと、突然それをつっと引き抜いた。麻衣子が「いたっ」と言い顔をしかめた。僕たちは「あっ」と声をあげた。
 何度か“せんせい”の魔法は見ていたけれど、そんな行動は初めて見るものだったのだ。
 けれど彼女は、すぐに麻衣子の頭を撫でた。そうすると麻衣子の顔にはすぐに笑顔が戻る。
 すると僕たちも安心して、“せんせい”の指の間で風に吹かれて踊る、麻衣子の細い髪の毛を見つめ始めた。
“せんせい”が、それにふっと息を吹きかける。
 するとそれは――青々とした茎を持つバラに変わった。
「わぁ」
「すげー」
「せんせい、どうやったの!?」
 けれど彼女は一切答えない。代わりに返ってくるのは微笑みだけだ。
“せんせい”は麻衣子にバラを手渡し、麻衣子はいっそうの驚きを込めた目で見上げる。
「麻衣子、触らせて!」
「オレにも」
「僕にも!」
 触ってみても、それは正真正銘のバラなのだ。そう、これが彼女の魔法。“せんせい”が魔法使いと呼ばれる所以なのだった。
 僕たちがバラに見とれていると、“せんせい”はいつの間にか、机の上にガラスのコップを僕たちの人数分、置いていた。

83 :No.18 スノウ 3/6 ◇2LnoVeLzqY:07/10/28 22:33:00 ID:94r1qYP2
「せんせい、つ、次は?」
 鼻息荒いその言葉に、彼女はゆっくりと、公園の中にある水飲み場を指差した。それを見た僕たちは我先にとコップを手に取ると、水飲み場へ向かって駆け出した。

 そして机の上に、水の入った人数分のコップが揃った。これも初めて見る魔法だった。
 思えばいつも彼女は違った魔法を披露していた。いったいどれほどのレパートリーがあるんだろう、と思ったし、魔法使いなら当然か、とも思った。
“せんせい”はその水をひとつひとつ、つぶさに注視してから、満足そうに顔を上げた。
 それから、両手で目を覆う仕草をした。見るな、ということらしい。
 僕たちはそれに倣って、両手で目を覆った。指の間からこっそり見ようという気が一瞬起こったけれど、すぐに消えた。
 鶴の恩返しじゃないけれど、何となく、怖かったのだ。たぶんあの場にいた全員が同じ気持ちだっただろう。僕たちは暗闇の中で、とにかく目を瞑り続けた。
 やがて、ぱん、と手を叩く音が聞こえた。僕たちは目を開けた。
 ――けれど、“せんせい”はそこにはいなかった。それどころか、どこにもいなかった。
 公園中見渡しても、そこには僕たち以外、誰の姿もないのだった。
「あ、見てっ! コップ!」
 突然麻衣子が声をあげた。僕たちは一斉に目の前に並んだコップを見た。
 その中に満たされている透明な液体には、何故か一匹づつ、小さな魚が泳いでいたのだ。
「メダカだ……」
 黄色っぽい、とても小さな魚たちは、何も知らない様子でコップの中を泳ぎまわっていた。それは静かに、けれど確かに彼女の魔法が成功したことを示していた。
 しばらく、誰もコップを手に取らなかった。冷たく強い風が吹いて、空が急に曇ってきた。
 原色に塗りたくられた遊具がやけによそよそしく感じられ、周囲に広がる無言の住宅街が、ひどく現実離れして感じられたのを僕ははっきりと覚えている。
 その中心でメダカたちは、どうにかしてコップから出ようと、しきりに泳ぎ回っていた。

 僕たちの前から姿を消した“せんせい”はもう現れないのかと思いきや、その次の日に公園に行った部隊はしっかりと彼女の魔法を目の当たりにしてきたらしい。
 朝のホームルームの後、担任のあきらさんが一旦教室を出た後で報告会をするのが恒例になっていたけれど、僕たちの次の日の部隊は、新しく教室に加わったメダカの水槽の前で、自分たちの見た魔法を得意げに話して見せたのだった。
 その最後はやはり、“せんせい”が姿を消す、というものだった。
 冬が近かった。メダカの水槽が立てるこぽこぽという音が、いっそう窓の外を寒々しく感じさせた。
 僕たちの住む地方では雪が降る。あの公園も、冬の間は一面が真っ白に染まる。
 そうなれば“せんせい”はどうなるんだろうと思った。たぶん、冬の間は見れないだろうな、と誰もが薄々感づいていた。

 子どもの予感は、大人のそれよりもずっとずっと正しい。
 たぶん大人が感じられないような色々なものでも、子どもなら感じることができるからだと思う。

84 :No.18 スノウ 4/6 ◇2LnoVeLzqY:07/10/28 22:33:44 ID:94r1qYP2
 この世界を満たす目に見えない要素に対して、子どもっていうのはとてもとても敏感なのだ。この世界に生まれ落ちてまだ間もないから。生まれる前に属していた、世界の向こう側とのつながりが、まだ残っている。
 だから大人が感じられないものでも感じられる。大人が見えないものでも見える。
 思えば“せんせい”のことを話題に上らせる大人はいなかった。僕たちが話さなかったのもあるし、あの公園の前を通りかかる大人には、彼女の姿は見えていなかったのかもしれない。
 歳をとればとるほど、僕たちは不思議なものたちに、だんだんと鈍感になっていくのだ。

 初雪が降ったその日から、“せんせい”は突然、姿を現さなくなった。
 公園の、派手な色をした遊具の立ち並ぶ真ん中には、“せんせい”が使っていた机だけがぽつりと残っていた。
 これまではあまり気に留めていなかったけど、その机は僕たちが使っているものとほぼ同じだった。
 冷たそうな鉄製の足の上に、目の粗い木の板が乗っかっているだけのありきたりのもの。その上で魔法の数々が行われていたなんて、にわかには信じられない。
 公園にやってきた僕たち六人の前で、その机は、あまりに寂しげに佇んでいた。
 住宅街が僕たちを取り囲む。ちらほらと、もろい雪が舞う。
 その中にあって今度は彼女の机が、僕たちにはひどくよそよそしく感じられたのだった。

 やがて、真っ白な雪が街一面を覆った。
“せんせい”が現れなくなってから数週間、そしてひと月と経つ中で、その記憶はみんなの中から徐々にだけど薄れていった。
 僕たちの中では紙飛行機が流行り、次にこっそり学校に漫画を持ってくるのが流行り、ジャイアンツのペナントレースはとうに終わり、そしてトマトは相変わらず配膳に上った。
 やがてクリスマスがやってくる。
 その日は終業式にあたっていて、僕たちはこれから始まる冬休みの話をしていた。夏休み中も“せんせい”はいつもあの公園に現れたけど、この冬休みはもうそんなことはない。
「それじゃあみんな、風邪ひかないようにな」
 あきらさんがそう言って冬休みが始まった。みんないっせいに玄関へ向かい、靴を履き、雪の降る玄関の外を見つめた。その時だった。
「なあ、ちょっと聞いてほしいんだけど……。せんせいの、ことなんだ」
 一人が、突然そう言った。
“せんせい”という単語に、誰もが虚をつかれたように固まった。もちろん、記憶は消え切ってはいなかった。
 そして、残酷な言葉が続いた。
「オレ、昨日、テレビで見たんだ。……他にも見た人いるだろう? 手品をやってた。あの手品、せんせいがやってたのと同じだった……」
 手品。……ひどく安っぽい響きだった。クリスマスの特番でやっていた手品とせんせいが見せた魔法、その二つが同じ。そんなこと、現実にはあってはならないと思った。
 けれど何人かがうつむいて、あるいは首を静かに縦に振って、その番組を見たことを示した。
「それって……」
「あ、あのさ、せんせいのことで、ぼくも話があるんだけど」
 続けて、別の誰かがそう言った。僕たちは玄関に留まったまま、いっせいに彼の方を向いた。

85 :No.18 スノウ 5/6 ◇2LnoVeLzqY:07/10/28 22:34:52 ID:94r1qYP2
「隣町のおばあちゃんの家に行ったときなんだけど……途中で、コンビニに寄ったんだ。そうしたら、そこに、いたんだ」
「……誰が?」
 けれど答えを聞きたくはなかった。
「せんせいだよ。店員さん、だった。見間違えじゃない。あれは……せんせいだった」
 誰も、口をきかなくなった。まるで、誰かが魔法で時間を止めたみたいだった。他の学年の生徒がどんどんと玄関を通り過ぎていく中で、僕たちはしばらくずっと、そこに佇んでいた。
 やがて誰かが、ぽつりと言った。
「……俺はおかしいと思ってたんだ、ずっと」
 僕は、魔法が解け始めたのを感じた。
「……わ、わたしも」
「ぼくだって」
「だってさ、一言もしゃべらないなんて変だぜ。ヘンジンに決まってる」
 確かにそうだ、という声があちこちで上がった。それは、誰にも逆らえない流れだった。不思議な方向へ広がった世界は今、少しづつ、閉じようとしていた。
「みんな、ちょっと聞いて」
 最後に、委員長の麻衣子が言った。
「……公園に、行ってみよう」

 そして僕たちは暗黙の掟を破り、クラス全員、三十五人で公園に向かった。
 雪の降る中を無言の一団が進む様は、まるで何かの宗教の巡礼の旅のようだった。けれど僕たちが向かう先は、ある意味では聖地で、ある意味では、ゴルゴタの丘なのだった。
 やがて住宅街の塀が途切れ、真っ白に染まった公園が現れた。
 原色だったはずの遊具もその輝きを失い雪に没していた。その様子は道路からいっぺんに見渡せた。
 その道路に面した部分に、僕たち三十五人は綺麗に一列に並んだ。……そして誰もが、その姿を確かに見たのだ。
 真っ白なその景色の中に、一人佇むその真っ黒な姿を。
“せんせい”は、雪が降る前と同じように、そこに無言で立っていた。
 ――沈黙の壁が、彼女と僕たちの間を塞ぐ。
 また時間が止まった、と思った。雪だけが魔法を逃れて上から下へと動いていた。誰も公園の中へは足を踏み入れなかった。
 彼女は真っ黒な長いコートを着て、けれど帽子やフードは被らずに、その黒い髪を降る雪に晒していた。
 坦々と雪が積もる中で、彼女はあの時と同じように……僕たちに向かって、微笑みかけていた。
 正直に、怖い、と思った。
 横一列に並ぶ僕たちみんなに、同じ気持ちが駆け抜けたのを感じた。震えが空気を通じて伝わってきそうだった。
 強い風が吹いたのは、その時だ。

86 :No.18 スノウ 6/6 ◇2LnoVeLzqY:07/10/28 22:35:41 ID:94r1qYP2
「きゃっ」
「うわっ」
 目が開けられなくなるほどの風だった。雪が舞い上がり視界を覆い、それは閉じた目に、頬に、容赦なくぶつかった。ごうごうという音が数秒間続いた。
 やがて風が弱まり、視界が開けてみんなが目を開くと……“せんせい”の姿は、どこにも見えなくなっていた。
「……みんな、だいじょうぶ?」
 麻衣子の声で、みんながふと我に返った。横一列に並んだ三十五人は全員が無事で、その間をまた、雪がゆっくりと降り始めた。
 それを確認すると麻衣子は、公園の中を力強く見つめながら、言った。
「……あきらさん、ううん、井上先生に言っておこう。通学路にある公園に、変な人がいる、って」
 そして魔法が、解ける。
 雪が降り続ける。

 そうして僕たちは大人になる。
 サンタクロースの存在は100%否定されて、魔法には「あり得ないもの」というレッテルが貼られる。世の中の仕組みを知る。世界の広さを知る。とりあえず、それらを、知る。
 社会は、世界は、科学で動いて、僕たちはその中で自然法則に従って生きる。誰もがそうだ。毎日がそうやって繰り返される。
 それが正しいかどうか?
 ……知らない。その判断は僕たちに任されていない。仮に間違ってる、と言おうとしても、どう間違っているのか僕たちは説明できないから。
 この世界を満たす目に見えないものを、大人になった僕たちはもう見ることができない。

 あの日以降、僕たちが彼女を見ることはなかった。メダカたちは、水槽の水換えの際に誰かが誤って流してしまった。公園にあった机は雪が解けると綺麗さっぱりなくなっていた。
 そうやって彼女の痕跡は、本当に静かに、僕たちの世界から消えていった。まるで、暖かくなると解ける雪のように。
 誰も彼もが彼女のことを忘れていった。大人になったからだ。誰もがそうなる。
 けれど僕だけは、今日まで忘れずに来た。理由は……わからない。
 今になって思う。
 もしかしたら彼女は消えていなくて、僕たちがそれらを見ることができなくなっただけかもしれない、と。もしかしたら彼女はまだあそこに存在していて、子どもたちの世界を広げるべく魔法を見せ続けているのかもしれない、と。
 もしかしたら彼女は、僕たちのことなんて全てお見通しなのかもしれない、と。

 子どもの頃の話は、これで終わる。僕たちはもう大人だ。これを読む人も、そうでない人も。
 魔法は僕たちの世界から消えた。とうの昔に。学校は、社会は、魔法を否定し科学を褒め称える。
 ……それでも。
 僕は、もう一度彼女に会いたいのだ。公園の真ん中で魔法を見せてくれた彼女に。そう、正真正銘の僕たちの“せんせい”に。



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