【 消えない羈絆 】
◆Br4U39.kcI




39 :No.09 消えない羈絆 1/5 ◇Br4U39.kcI:07/10/28 14:02:54 ID:xbD7FhZ/
 少年の名は晶という。目鼻立ちの整った、おおよそ社会の様相には似つかわしくない秀麗な顔立ちの少童だった。
 彼は畳の匂いを好み、両親と暮らしていた安普請の実家ではパズルのように床に嵌め込まれていた畳からたち香る藺草の匂いを
よく聞いていた。
 晶にすれば、あの頃は幸せだったのだ。きっと。
 なぜ確定しきれないのかというと、現在置かれている立場と過去の平穏を照らし合わせることにより推し量っているからであり、
特別その昔時が煌いているわけではないからだ。
 晶は母がある事情で死んだ時でも、まだ生きている父の存在と死んでしまった母に馳せる喪失感を天秤にかけることにより、
頬を濡らすこともなければ目頭を熱くすることも一度としてなかった。
 母を失ってからの三年間、最愛の父は晶に出来る限りの慈しみと支柱たる自身の存在を与え続けた。だが疲弊は目に見るより明ら
かになっていた。
 いつか、いつか必ず迎えに行く。それまで我慢してくれ―――。
 追憶に佇むのは、晶を哀れむような、それでいて肩の荷が下りたという安心感が滲み出た別れの約束である。
 預けられたのは一度として会った記憶のない親戚縁者の屋敷。家長はでっぷりと贅肉を携える鬢だけを残した禿頭の中年で、
 はじめ品定めをするように晶の全身を視姦した後、次に整った顔立ちを見止めて、口元を吊り上げると「宜しく」とこうべを垂れ
て挨拶した。
 初日こそ寝床に客殿をあてがわれたりしたが、翌日からは土蔵が閨所となり、住み込みで働く家政婦などからの口調も厳しいもの
と変わった。

40 :No.09 消えない羈絆 2/5 ◇Br4U39.kcI:07/10/28 14:03:23 ID:xbD7FhZ/
 そして家長からは髪を伸ばすよう云われ、日中は濃艶な化粧と着物を身に纏うようになっていた。
 数週間もすると頭髪は肩まで達し、見るからに骨ばっていた矮躯にも柔軟な肉が均等に付いていく。
 こうなると家長の嫡子どもも晶を奴婢に値すると見なしたのか、一斉に下卑た視線を送るようになり始め、庭の手入れをしている
と遠巻きから卑猥な雑言を浴びせられるなどした。
 箱庭というのは野放図な性格を所持する開墾者にとっては実に便利なもので、独善で利己的なルールを設けても批判はなく、其処
では法律などというものは霞んで消える。
 晶自身そのことは随分前、それこそ父親と平易に暮らしていた頃より肝に銘じていることであり、だからこそこの屋敷では一切抗
うという愚かな失態は犯したりしなかった。従順、忠心、隷属という印象を植付けなければならないからである。そのためにも迅速
に処世に長けなければならない。
 寂寥はあった。辛苦に攻め立てられたりもした。その度に土蔵で漆喰の壁に凭れ掛かっている畳に鼻孔を寄せ、藺草を香る。解決
にはならないが、癒しにはなってくれる。
 成長する毎、晶はますますその名の通りに晶々とした魅力を備えつつあり、この頃から家長に自室へと呼び出されては下の作法な
どを学ばされるようになった。
 同時期に出逢った馨と名乗る青年庭師との親交が始まり、彼は何彼につけ晶に対し懇切丁寧に優しく接した。数年前に田舎に一人
残してきたという妹との符合点から罪滅ぼしの気持ちもあったのかもしれない。顔などは似ても似つかないといっていたが。
 人が良い彼は手慰みにといって晶に綾取りを熱心に教授するのだが、どうも晶が手を動かすと殆どの場合糸が手首に巻絡して、
お縄になった盗人のようになってしまうために、どうしたものかと苦笑していた。

41 :No.09 消えない羈絆 3/5 ◇Br4U39.kcI:07/10/28 14:03:47 ID:xbD7FhZ/
 夜の情事が終わった後、塀の遥か上から覘く炯々たる満月が縁側を歩く長襦袢姿の手弱女のような下男に確かな道を作る。
 その道の先に卑俗に象られた影法師が月光に照らされて黄ばんだ障子に二つ伸びている。下男はきっとほくそ笑んでいるその匹夫
らの顔を見ないようにしているのか、自分の足先を追いかけているのか、終止俯いたままだった。
 その日から夜の負担が少しだけ延長された。
 ここで回想は終わっている。
 それは同時に現実との容赦ない接地が始まるということを意味している。
 凡百の成人にとっても恨み辛みが絶えないであろう環境。況や年端もいかないうちから人権を略奪された晶の破綻は、どう贔屓目
に見ても遠い未来のものではない。すぐにでも添え木を用意しなければ沈下は速やかであろう。
 疲労からか縁側に座り項垂れていた晶が頭を擡げると、丁度作業を終えたばかりの青年庭師の馨と目が合う。彼は見るからに温厚
そうな表情を浮かべて足をぶらつかせる晶に近寄り、そのまま予備動作で少女に扮した少年の艶めいた黒長髪を梳いた。
「目がいつもより落ち窪んでいるし顔色も悪いですよ。これでちゃんと寝ているんですか晶くん」
 馨は誰に対しても、例えそれがまだ自分の年齢の半分ほどしか生きていない子供にさえ敬語で話しかける。ただ媚びているような
印象は伝わってこない。もしかすると純粋に臆病なのかもしれない。
「最近旦那様方に呼び出されるのが頻繁になっていますけど、それが原因なんじゃないですか」
 見下ろすその瞳には狼狽と怪訝と憤慨が入り混じり、このうちのどれが彼の本懐なのかが分からない。
 ただ確かなのは馨が夜な夜な行われている情事に勘付いているということだけだった。馨はいつも以上に、それこその実の妹に
対してするように晶の頭髪を念入りに梳いて、所々にこびり付いて凝固していた白塊を忌々しげに縁側の溝へと落としていった。
「……今すぐにでもここから逃げたほうがいい。それこそ今すぐにでも」
 言って歯を食いしばる。
「明々後日の夕刻、旦那様方は所用で屋敷を空けます。時機といえばその日しかありません。その日はたぶん蔵の鍵は朝から
閉められたままだと思います。しかし鍵番は僕ですから土蔵には私が迎えに行って解錠します。晶さんは必要だと思うものだけを
まとめて待機していてください。……あ、いえ、やはりただ待っているだけでいいですから」
 返事も聞かぬままそれだけを耳元で囁いて、馨は門扉の方へと竹箒を携え去っていった。
 おそらく憔悴しているアンタの代わりに掃除を引き受けたんだろうよ愚直だねえ。そんな嫌味家政婦の彼と晶の両方を小ばかに
したような皮肉が、はたして聴こえているのか聴こえていないのか、晶は日が暮れるまで縁側で飽きることなく漫然と足をぶらつ
かせていた。

42 :No.09 消えない羈絆 4/5 ◇Br4U39.kcI:07/10/28 14:04:06 ID:xbD7FhZ/
 その日晶はいつもどおり壁に立て掛けられた畳に近づいては鼻をひくつかせたり、部屋の隅の一点をひたすら見つめたりして
時間を有意義に消費していた。馨の言葉通り、家長らは所用とやらの準備に忙殺されているためか、今日は鍵も開けられず、
徒に玩弄されてもいない。いたって五体満足。清潔なままであった。
 気づけばもう薄暮。鼓膜を傷める雑踏も薄まり、馨がいそいそと迎えにくるのもそろそろだと思われる。
 するとカチャカチャと、金属同士の擦れ合う音色が晶の耳朶にも届いたと思うと、解錠から間を空けずに荘厳で圧迫的な印象を
与えていた分厚い木の扉が取り払われ、内部と外部が地続きとなった。
「早くしないと、晶くんっ」
 珍しく凄い剣幕で捲くし立てる青年を晶は不思議そうに見つめている。だがそれも一瞬だった。
 すぐに馨への興味を失ったように、立て掛けられた畳の方をジッと見つめ始めた。馨としてはその行動を想像もしていなかった
のだろうか、先ほどの剣幕が嘘のように呆けてしまう。しかしそれにしては驚きすぎているように映った。
「晶くん、何を……」
「おとうさんが、むかえにきます」
 おとうさん。
 いつか、いつか必ず迎えに行く。それまで我慢してくれ―――。
 お父さん。父親。慈しみと支柱たる自身の存在を与え続けて別れ際に晶を哀れむように見つめた者。
 馨よりも早く、安易にも迎えに来ると約束してしまった男。
 三年間を費やして知的障害児だった息子に処世術を教え込んだ末に、競売にかけ大金と引き換えに息子を奈落へ捨てた下郎。
 蚕食によって欠けていた負のピースは収斂し、代替を担っていた欠片は放射状にはじけた。
「いないと、おとうさん、みつけれなくなります」
「違う……その男はだって、君を……捨てたんだ……」
「すてます。おとうさん、みつけれません。むかえにきます。でも、まだきません」
 馨は急激に顔面を蒼白くしたとおもうと、力なくその場に跪いてしまう。上下の歯が小刻みにぶつかり、滑稽な演奏みたい
である。
 その焦燥具合は尋常ではないようで、刮眼したまま恐ろしい魑魅魍魎から逃げるように、後ずさっていく。
 まるで良心の呵責に苦しんだ挙句に幻に踊らされる殺人鬼のごとく。
 そしてどんどん晶から遠ざかっていく。反応から推定するに、どうやら魑魅魍魎の正体はこの晶のようだった。
「まさか……嘘、だろ」
 馨の脳髄では回顧するだけに足るテープの残滓が自動的に、ゆるやかに滑り始めていた。

43 :No.09 消えない羈絆 5/5 ◇Br4U39.kcI:07/10/28 14:04:25 ID:xbD7FhZ/
 晶に迎えに来ると約束した父親。馨はまさかここまでその父親の楔が深く打ち込まれているとは思わなかった。
 この晶という少年が知的障害者だということは一目見た瞬間にすぐ分かった。
 それはこの少年が自分の妹と全く同じ障碍、同じ症状だったから。
 そう、かつて自分が疎んでいた妹と全く同じ障碍だったから。
 足枷になって、蹴っても蹴っても縋ってくる忌まわしい妹と同じだったから……。綾取りだって妹をあやすため嫌々……。
 両親も逃げて……妹は自分しか頼る存在は居なかったのに。自分の人生が滅茶苦茶にされるのが怖くて、逃げだした。
「僕はすぐに帰って来ると誓ってしまった……良い子にしてたらすぐに帰るって……」
 不可逆であるべき時間。いまさら取り戻す方策なんてなかった。妹はもう自分を許さないだろうと。
 この際出家しようとも思ったが、余計に現実との齟齬に苛まれそうで。悩んで悩んで気づけば数年が経ってて。
 誰にでも理解ある分け隔てのない真人間を装うことでしか罪の意識に耐えられなかった。それなのに今、新たに知らされた。
 常人が何気なく嘯いてしまうデマゴギーが、彼らにとってはかけがえのない誓約に、そして抗えない羈絆となってしまう。
 決して逃げ出さないように約束という綺麗な形で檻に縫い付けてしまうんだ。
 それはまるで、ふざけた魔法のように。
「違うんだ……あれは……嘘で、違うんだ……」
 馨は自らの頭を抱えて埃の鬱積する床に蹲ってしまう。箍は外れ、今まで偽ってきた罪業のうねりが津波となり、
 彼が少しずつ敷き詰めてきた懺悔の土嚢ごと吹き飛ばして浸水に追いやったのである。完全な排水は二度と望めないほどに。
 これから先、今までのような自己弁護すら苦痛へと置換されるだろう。
「おとうさんと。おかあさんの。においがします」
 畳を指して、晶は微かに笑う。
 母は自殺だった。不妊治療の末に生まれた障害児の我が子に失望し、数年後限界がきて、梁に紐をかけて、首を吊って。
 晶は決して母と父を天秤にかけたわけではなかった。もとより死という概念の部品が備わっていなくために、どうしても
理解がいかなかった。
 詮方ないことだろう。誰も晶に学を教えようと、それどころか関わろうとすらしなかったのだから。
「おとうさん。むかえにきます」
 雑踏が失せた薄暮の街に寂しげな晩鐘が染み渡る。
 土蔵の周囲には人影はなく、誰も訪れる気配はない。陰風も吹き荒ぶことはない。
 誰も咎めてくれない。
 そして晶はいつも通りに藺草の香りを聞く。
 いつまでもいつまでも父のかけた魔法に翻弄され、いつか破綻の津波で浸水に追いやられるまで。
〈了〉



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