【 左手の魔法 】
◆VECrjxD.6o




29 :No.06 左手の魔法 1/6 ◇VECrjxD.6o:07/10/28 00:10:21 ID:94r1qYP2
 私は夢を見ていた。小さい頃の娘が公園で転んで泣いている夢。私が泣いている娘にどうしたの
か聞くと、娘は赤く腫らした目で首を横に振り「なんでもない」とだけ言った。私は娘の頭に左手
を乗せると、その柔らかい髪をしばらくなでていた。
 しばらくして泣き止んだ娘を連れて公園から帰る途中、娘は私の左手をとると嬉しそうに笑って
こう言った。「おとうさんのおててはね、まほうのおててなの!」と。
 私はまた娘の頭をなでた。何度も呼びかける娘の声が、オレンジ色の空にすいこまれていった。

「お父さん! 起きて、会社に遅れるよ!」
 規則的な振動で私は目を覚ました。薄ボンヤリと目をあける。目鼻立ちの整った少女が私の目の
前に居た。さらりと長い髪が流れる。まるで妻の若い頃を見ているようだ。
「祥子? おはよう」
「もう! お父さん。寝ぼけないでよ。それはお母さんの名前でしょ。それとも自分の娘の名前も
忘れたの?」
 少女の叱責を受けて、完全に目が覚めた。そして、目の前の少女が誰かを思い出す。
「鏡子。おはよう」
 少女の名を呼ぶと、頭を掻く。娘があまりに妻に生き写しなもので、ついつい妻の名を呼んでし
まう。その度、娘は不満そうに私を睨むものだから、最後には私が平謝りする事になる。もうすぐ
40歳という父親が娘に頭をペコペコと下げるさまは、ある意味シュールではあるのだが、私にす
れば恥ずかしい。娘の尻に敷かれた父親などと、お隣さんには知られたくない。

「まったく、しっかりしてよね! そんなんじゃ、天国のお母さんに笑われちゃうんだから」
 そこまで言って、しまったと娘が口を押さえる。10年前、家族旅行中に私達の乗っていたバス
と、居眠り運転をしていたトラックが衝突。そのときの怪我で妻はそのまま亡くなった。あの事件
を思うと、今でも心が重くなる。後悔はするだけしたが、あの日出来事を自分の中で消化する事は
できないだろう。もちろん、当時はまだ6歳だった娘にとっても、それは同じ事なのだろう。
 あれから10年経つというのに、いまだにその時の事をひきずっている私を、妻はどう思ってい
るだろうか。ふと、考え込んでしまう。

30 :No.06 左手の魔法 2/6 ◇VECrjxD.6o:07/10/28 00:10:43 ID:94r1qYP2
「ごめんなさい」
 思考に沈んでいた私は、娘の一言でふと現実に戻る。娘は俯いて、すっかりしょげている様子だ。
基本的に私の娘はしっかり者なのだが、少々落ち込みやすい。父親として、なんとか慰めてやりた
いと思うのだが。男親の悲しさか、こういう時にどうしていいのかとっさに判断がつかない。
 右手を上げてから、ふと思いなおして、左手で娘の頭をなでる。私の右手は10年前の事故以来、
感覚が少しばかり鈍くなってしまっている。それを再認識させてしまうとよけいに娘が沈み込んで
しまうので、娘の頭をなでるときは左手でする事にしている。
「娘のお前が落ち込んでたら、私まで落ち込んでしまう。ほら、元気をだすんだ」
 ぐしゃぐしゃと、頭をかき回す。「もう! 止めてってば、髪型が変わっちゃうでしょ!」娘の
抗議の声。構わずに余計にかき回す。ぺチリと叩き落される。

「お父さんなんて、大ッ嫌い! 早く会社でもなんでも行っちゃえ!」
 娘はそう言うと、べーと舌を出して階段を駆け下りていく。いつものように可愛いわが娘だ。し
かし、少しばかり子供っぽいのはどうだろうか。これだけの美人なのだ。普通であれば、ボーイフ
レンドの一人や二人いてもよいと思う。だとすれば親離れ出来ていないのが原因なのだろうか? 
だとすれば、もう少しだけ親離れはして欲しくないような気がする。
「心中複雑だな」
 ぽつりと呟いて、時計を見る。午前8時10分。完全に遅刻ギリギリだ。私は急いで支度をする
事にした。

「あ! お父さん。今日は買い物に行くから、絶対付き合ってね」
 家を出る直前に娘にそう声をかけられた。そういえば、昨日あたりそんな事を言っていた様な気
がする。その時になんの買い物か尋ねると、不貞腐れて口をきいてもらえなくなってしまった。そ
のうえ、「明日までには絶対思い出してね。思い出せなかったら一生口きかないんだから」と一言
釘を刺されてしまう始末。
「分かった分かった。必ず行く」
「返事は一回!」
「はい」
 我ながらなんとも情けない返事を一つ。私はそのまま駅への道を急いだ。

31 :No.06 左手の魔法 3/6 ◇VECrjxD.6o:07/10/28 00:11:01 ID:94r1qYP2
 昼休み。私は屋上のベンチで、娘の作ったお弁当を食べていた。最初のうちは下手で、卵焼きな
ど焦げたものばかりが入っていたお弁当も、今では彩りまで考えられて作られるまでになった。し
かし、今日のお弁当はいつも以上に気合が入っているような気がする。はて? 今日はなにかあっ
ただろうか。
「今日も課長は娘さん特製のお弁当ですか? それにしても豪華ですね」
 そんな風に記憶を探っていると、唐突に影がさす。そちらを向くと、部下である佐藤君が私のお
弁当を覗き込んでいた。佐藤君は私の部下で、若いながらも、男性職員の3倍は働く優秀な女性社
員だ。愛嬌のある顔立ちと、気さくな性格で男女を問わず人気者というのが私の印象だ。

「ああ、佐藤君。君もお弁当か?」
「ええ、お手製なんですよ。よかったら食べます?」
 佐藤君はそう言うと、お弁当の中身を私に見せる。
「いや、遠慮するよ。君みたいな子の手料理は、私みたいなおじさんにはもったいない」
 美味しそうなお弁当であったが、丁重に断る。本当に私みたいなオヤジには過ぎたものだ。若い
男性職員にでも食べさせてあげれば、あっという間に陥落するだろうに……
 こんなオヤジに手料理をご馳走するなんて、奇特な子だなと思う。そこでふと閃いた。
「そうだ。佐藤君。佐藤君?」
 女の子が大切にする日を聞こうと思い。佐藤君を見ると、佐藤君は俯いてブツブツとなにやら呟
いていた。

「せっかく気合入れて作ったのに、ハァ……」
「佐藤君? 佐藤君!」
 聞いていないようなので強めに呼んでみる。
「ふぁ、ふぁい!?」
 間抜けな返事と共に、佐藤君がこちらに気づいた。佐藤君はたまにこんな風にぼぅとするため、
年の近い娘を持つ身としては少しばかり心配してしまう。疲れているのだろうか?
「疲れているのなら、無理をしないようにな」
 佐藤君は人の3倍は働く子だ。がんばりすぎて、倒れてしまわないか心配である。

32 :No.06 左手の魔法 4/6 ◇VECrjxD.6o:07/10/28 00:11:22 ID:94r1qYP2
「い、いえ。全然そんなことはありませんよ」
 ぶんぶんと、首が千切れてしまうのではないかと思うほどに振る佐藤君。まあ、元気そうではあ
る。この様子なら大丈夫だろう。改めて質問をする事にした。
「佐藤君。女の子にとって大切な日はなんだろうか?」
「……セクハラですか?」
 佐藤君に睨みつけられた。はて? 私はおかしな事を言ったのだろうか?
「いや、意味がわからないのだが」
「私のほうが分かりません。課長の方がよっぽど意味不明ですよ」
 そう言い、佐藤君はプリプリと怒っている。そういえば、よく妻にもこのように怒られたものだ
った。唐突に怒りだすものだから、私はよく返答に困ったものだ。

「はぁ。そういうことですか……」
 謝ってもなお不機嫌な佐藤君をなだめつつ事情を説明すると、佐藤君の顔は怒り顔から思案顔へ
変わる。表情の豊かな娘だ。少々感心する。
「うーん。簡単なところで娘さんの誕生日、もしくは何らかの記念日とか?」
「いや、娘の誕生日は2ヶ月前に過ぎた。特に記念日があったこともないはずなんだが……」
 あのときの誕生日は大変だった。娘が雑誌載っていたバックを欲しそうにしていたので、そのバ
ックを雨の中探し回った。おかげで高熱を出して寝込むことになり、娘にしこたま怒られた。最後
の最後には「お父さんがどうなっても知らないから!」とまで言われ、さすがに泣いた。
「そうですね。発想を逆転してみましょう。たとえば、課長の誕生日だとか」
 ……そういえばそうだった。今日は私の誕生日だ。我ことながら、他人に言われて初めて気づく
とは。自分に呆れるとともに、あまりの事態の深刻さに頭を抱える。がんばり屋の娘のことだ。お
そらくずいぶん前から今日のために準備をしてきたのだろう。さあ、明日だというときに肝心の私
が誕生日を覚えていない事で、さぞがっかりしただろう。自分のあまりの情けなさにため息が出る。
「ど、どうしたんですか? いきなり落ち込んだりなんかして」
「なんでもない。なんでもないんだ。ありがとう佐藤君」
「ならいいですけど。それでですね……課長。もしよかったら、今度一緒に食事でも行きません
か? あの、もしよかったらで。……あれ?」
 佐藤君に感謝の意を述べると、私はフラつく足で仕事場に戻った。その時に佐藤君が何か言って
いたような気がするのだが、ボンヤリした私の耳には届かなかった。

33 :No.06 左手の魔法 5/6 ◇VECrjxD.6o:07/10/28 00:11:39 ID:94r1qYP2
 私の第一の感想は見事に遅刻してしまったということだった。思った以上に仕事が長引てしまい。
いつもは残って仕事をしてくれる佐藤君も、今日に限って機嫌が悪く。最後まで不機嫌顔のまま退
社してしまった。帰り際私に「課長って本当に親ばかですね」と言っていたが、私がなにか悪い事
でもしたのだろうか?
 私の3歩前で不機嫌顔のままの娘が、暗い夜道を自宅へと向けて歩いている。せっかく予約した
レストランも、私が遅刻するものだからキャンセルしてしまったそうだ。
「せっかくバイトしてまでプレゼント用意したのに、お父さんは遅れてくるし、しつこいナンパに
はあうし、最悪」
 娘がやっと口を開いたかと思えば、ポツリとそうこぼした。その言葉が胸に刺さる。穴があった
ら首までどっぷりつかりたい。

「……すまん」
 俯いたまま謝る。申し訳なくて、頭を上げる事が出来ない。私のあまりの情けなさに娘はため息
をついたようだった。
「お父さんが本心から悪いと思ってるなら、私の頭をなでて」
 そんなことで良いのだろうか? 戸惑う私を見ながら、娘は立ち止まると私に向かい合った。そ
して、私に近づくと胸に頭を寄せた。
「早く、こうしてるの意外と恥ずかしいんだから……」
 ここまでされては、私に拒否権など存在しない。娘の豪奢な体を抱き寄せると、大人しくサラサ
ラとした長い髪を左手ですくようになでた。
「んっ……」
 気持ち良さそうに娘が目を細める。なんだか、異常に恥ずかしい。
 しばらく娘の頭をなでることにする。

「お父さん分補給完了。ありがと」
 娘はそう言うと、私から体を離した。
「そうだ。お父さんはおぼえてる?」
 なにを? と聞こうとした。しかし、娘が見ている場所を見て、すぐに思い当たった。私達の家
の近くにある小さな公園。私が娘の頭を初めて左手でなでた場所。

34 :No.06 左手の魔法 6/6 ◇VECrjxD.6o:07/10/28 00:11:56 ID:94r1qYP2
「あのときね。私、イジメられてたんだ。お母さんが居ないことで男子にからかわれて、いつも泣
いてた。全部嫌になって、皆嫌いになっちゃって……私消えちゃいたいって思ってた」
 確かに、誰よりも妻が居なくなった事に傷ついていたのは娘だった。その時の娘の顔を思い出し
ても、泣き顔以外見た記憶がない。

「それでね。いつものようにイジメられて、この公園で泣いてたの。その時お父さんが私を見つけ
てくれて、やさしく頭をなでてくれた。それで思ったんだ。どうしてお父さんは左手で私の頭をな
でるんだろうって、それまではいつも右手で私をなでてくれてたから、よけい不思議に思ったの」
 既にあの時気づいていたのかと、私は驚いた。気づかれないよう注意をはらっていたつもりだっ
たのだが、子供というのは意外に鋭いものだ。
「あのとき、もうお父さんの腕は前みたいに動かなくなってたんだよね。事故のとき私をかばった
せいで……」
 確かにその通りだった。事故のとき娘をかばい。結果、腕の感覚が麻痺した。だが、妻を死なせ
てしまい娘を傷けたこと比べれば、私の腕が以前より動かなくなってしまっていることなど、本当
に些細な事だった。
「でもね。あの時、お父さんの手が、あれだけあった私の嫌な気持ちをみーんなどっかにやっちゃ
ったんだ。それで、ああ、お父さんの手って魔法みたいだなって思ったの」
「でも、やっぱり慣れてないせいで、私の髪の毛をひっぱっちゃったりして痛かったんだけどね」
 娘はくすくすとおかしそうに笑う。なんだか、不器用だと言われているような気がして、猛烈に
恥ずかしくなってきた。
「う、うるさいぞ! しかたないだろう。本当に慣れてなかったんだから」
 ついそう怒鳴って、くるりと娘に背を向けると、再び家へと歩き出す。焦って怒鳴ってしまった
自分があまりに子供っぽ過ぎて、顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
「あ、待ってよ!」
 娘が慌ててついてくる。だが、そんなことなど知ったことではない。私は無言で歩き続ける。

「お父さん。大好きだよ」
 私に追いついた娘はそう言うと、私の左手に抱きつき嬉しそうに笑った。




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