【 あなたとわたし 】
◆tGCLvTU/yA




97 :No.25 あなたとわたし 1/5 ◇tGCLvTU/yA:07/10/21 23:34:25 ID:FPtq2/hz
 荒んでいた。灰色の空から落ちてくる小さな水の粒に濡れながら。
 怒っていた。こんな小さな茶色の箱に入れて、こんな寒い世界に放り出した誰かを。
 引っ掻いてやった。差し出された右手と、無理やり私を抱きかかえようとするその左手を。
 わからなかった。灰色の空から一転したように明るい世界で出されたミルクがどうしてあんなにも温かくて、美味しいと感じたのか。
 嘘。これはなんとなくわかっていた。
 
「お出かけの際は傘を必ず持つよう――」
 箱の中に入った女性が、とても不吉なことを喋っている。今日は一日ずっと雨が降るらしい。雨は苦手だ。じめじめするから鬱陶しい。
 窓の方に目をやると、なるほど。今にも振り出しそうな灰色の空。いつもならこの空模様のごとく荒れ狂っているところだが、今日の私は気分がいい。
 それと言うのも、
「ねえ、ユースケ。いい加減準備しなさいよ」
 私に膝を貸してるこの男が、初めて散歩に連れてってくれるというのだから。
「んー。あー、そうだなぁ」
 心ここに在らず、といった感じで適当な返事でユースケは窓の方を見ている。そうだなぁじゃないわよバカ。
 それにしても、だ。私もこの家に来てそろそろ三ヶ月くらいになるけどようやく。本当にようやく初デートということになる。
「とりあえず、いい加減テレビ見るのやめて立ち上がりましょうよ。私なんか昨日から毛づくろいも入念にしたし、爪だって壁で研ぎまくったんだから」
 私としてはかなり気合を入れたつもりだったんだけど、ユースケはあんまり気づいてくれなかった。
「なるほど、朝起きたらやたら壁がボロボロだったのはお前の仕業か」
 苦笑気味にユースケが言う。そこまでボロボロにしたつもりはないのだけど。
 ユースケもあまり気にしてはいないみたいで、苦い表情を浮かべたのは一瞬。口を大きく開けてあくびをするといつもの気の抜けた表情になった。
「……まあ、壁をボロボロにしたのは悪かったわよ。謝る。だから早く散歩行きましょうよ」
 朝からもう何度目のやりとりかわからない。いつもならなんだかんだではいはいと聞いてくれるくせに、今日はなんでここまで渋ってるのか。
 なんだかイライラしてきた。こうなったら無理やりにでも連れていって――と思っていると、ユースケがふと私を抱き上げた。
 普段は見れない、すごく真剣な顔。思わず目を逸らしそうになってしまうけど、私もその顔をじっと覗き込む。
「ソラ。お前は人の言葉がわかるし、話せるよな」
 久々に呼ばれた名前。さらに真剣味が強まる顔。なんだか今日はユースケがすごく格好よく見える。
「……わかるし、話せるけど?」
 うん、とユースケが大きく頷く。
「雨がね、降ってくるらしいんだ」
「降ってくるみたいね。さっきの女の子の話によると」

98 :No.25 あなたとわたし 2/5 ◇tGCLvTU/yA:07/10/21 23:34:56 ID:FPtq2/hz
 ユースケの目が泳ぎ始める。私を持つのもそろそろキツイのか、腕がプルプルと震えている。
 不思議だ。格好よく見えた顔が、すごくだらしなく見えてきた。いや、私の目がようやくモノをまともに見るようになってきたというべきなのか。
「ああ、ソラ。今日ほどお前が人語を理解できる猫で助かったと思った日はないよ。つまり――濡れるの嫌だから明日じゃダメ? 散歩」
 ああ、ユースケ。今日ほど貴方がそのだらしない顔立ちで良かったと思った日はないわ。整っていると今からすることになんだか気が引けるもの。
「……わかったわ」
 渋々理解した、という雰囲気を作って私はしおらしく頷いてみせる。そのホッした表情にカチンと来るが、まだ我慢。
 諦めたのは本当だ。行きたくないというのを無理に引っ張っても、私としても楽しめそうにない。だけど、
「お、話が早くて助かるよ。今度ちゃんと連れてって――」
 さすがにその変わり身の早さ、さっきまでの真剣な表情とのギャップにさすがに私の苛立ちは頂点に達した。
「0点。嘘つきはさっさと死になさい」
 両手をいっぱいに使って、そのだらしない顔に大きなバッテンを作ってやった。ばりばりばり、という音が少し気持ちいい。
「あうっ……いってぇっ! そ、ソラ! なにすんだ、てかどうすんだこれ、この傷!」
 それにしても慌てるさまのよく似合うこと。慌て方ならどの男よりもさまになってるんじゃないかと思う。
 というよりもだ、なにすんだですって? それはこっちのセリフだ。
「あら、不思議なこと言うわね。外に出たくないっていうから外に出られないように傷をつけてあげたのに。まあいいわ、散歩には私一人で行くから」
 雨が降ってくるらしいけど、まあさしたる問題ではない。普段は苦手な雨だけど、この陰鬱な気分を吹き飛ばしてくれるかもしれないし。
 なにより今は一秒でも早く外に出て、この嘘つきの元から離れてしまいたい。
「ちょ、待て」
「なによ」
 振り返る。今反省の言葉をのべて私を大人しく散歩に連れて行けば許してやらないこともないのだが――
「早く帰ってこいよー? 雨に降られてズブ濡れで帰ってくると色々と面倒だからなぁ」
 そのヘラヘラとした顔に、ひっかき傷を数個くらい増やす作業を終えて私は散歩に出かけることにした。一人で。

「最低。とくに私との約束を平気で破りあたりがもうこのジメジメした空気くらい最低だわ」
 昨日必死で考えた散歩コースを一人で歩く。本当ならこの辺りで少しいい雰囲気になってる予定だったのに。
 それにしても、あの態度は本当に信じられない。私が今日という日をどれだけ楽しみにしていたか一日、いや一週間かけて語りつくしてやりたい。
 大体、雨程度でデートを取りやめにしようというその神経が私には理解できない。約束を破るということは、猫でも人でもやっちゃいけないことでしょうに。
「……帰ろうかしら。思った以上につまらないし、全然スッキリしない」
 だけど、あのヘラヘラした顔が浮かぶとどうしても帰る気が滅入るというものだ。それに外に出てから数分。あいつの言う通りにするのもなんだか癪だし。
 もう少し歩いてみようか。帰りたいけど、今は帰りたくない。

99 :No.25 あなたとわたし 3/5 ◇tGCLvTU/yA:07/10/21 23:35:26 ID:FPtq2/hz
 必死で考えた散歩コースを少し外れてフラフラ歩いていると、すごく見覚えのある空き地に着いた。
「捨てられて、拾われて……妙にセンチメンタルな気分になるわね、ここに来ると」
 ちょうど三ヶ月前。人語を話せるせいか気味が悪いと捨てられて、面白いやつだとあの嘘つき男に拾われた場所だ。
 私が入っていたあの茶色い箱はもうなかったし、昔に比べてそこらに生えている草が伸びている。この空き地も三ヶ月分歳をとっていた。
「やあ、また来たのかい?」
 一時は家だったこの場所に妙な感慨を覚えていると、背後で妙に馴れ馴れしい声を聞いた。
 振り返ると、見知らぬ猫がいた。随分と楽しげな笑顔で。
「久しぶり」
 久しぶりなのだろうか。よくわからない。彼は私を知っている風だが、私には心当たりが全くない。
 明らかに警戒しているという態度が伝わったのか、その猫の笑顔が少し苦笑に変わる。
「あ、僕のこともしかして覚えてないのかな。まあ、無理もないか。三ヶ月くらいも前、それも話したのは二言三言だったからね」
 必死で三ヶ月前の記憶を辿る。思い出したくないことばかりだけど、彼のことは全く記憶にない。
 この空き地にいたのは半日くらいだったし、猫には何匹か話しかけられた気がするけど全部無視していた。
「いいよ、別に気にしてない。それにしても、なんだか雰囲気がすごく丸くなったね。三ヶ月前は同じ猫と思えないくらいの凄みがあったけど」
 なんだか調子の狂う相手だ。私と話しているはずなのに、私の返答もまたず話が進んでいく。
「それにしても、君も懲りないね。また捨てられたのかい?」
 思い切り目を見開いた。全身に思わず力が入る。勘違いじゃなければたった今、私はバカにされた。
 あの嘘つき男のヘラヘラとした笑顔が私以外の猫に否定されているのもなんだか気に入らない。あいつはそんな男じゃない。
「失礼ね。捨てることはあっても、捨てられることはないわ。私は」
 どうしても捨てられたと言い張るなら全身全霊を持って、この空き地から出られないようにしてやるつもりだが、
「おっと、ごめんごめん。そんなに睨まないでよ。いや、本当にごめんね。僕は野良だから、飼い猫の気持ちがどうしてもわからなくて」
 どうやら向こうはやりあう気はないらしく、簡単に折れた。正直少し拍子抜けだ。
「ねえ、少し話しを聞きたいな。捨てられてないってことは、君は今も誰かの飼い猫なんだよね」
 またも私の答えなど聞かずにポンポンと話しが進む。いけない、なんだかペースが狂いっぱなしだ。
 しかし、飼い猫とはなんとも微妙な表現だ。私自身はペットというよりも恋人のつもりでやっている。
「なるほど、飼い猫なんだね」
 とりあえずこいつは自分本位で自由奔放なやつだということはわかった。野良になると誰でもこうなるのだろうか。
 納得したように彼は頷くと辺りを見回す。私も続く。一通り空き地の景色を見終わると、改めてこちらへと向き直る。
「どう? 広いでしょう」
 ものすごい笑顔だった。意味はわからなかったけれど

100 :No.25 あなたとわたし 4/5 ◇tGCLvTU/yA:07/10/21 23:35:52 ID:FPtq2/hz
「何が」
 どこかで、雷の鳴る音がした。そろそろ雨が降ってくるのだろう。
「外の世界だよ。狭い世界に押し込められていると余計に感じないかい?」
 確かに、この空き地だけでも嘘つき男の部屋よりははるかに広い。私もこれだけ自由に走り回れる部屋があればいいな、とは思う。
 狭い世界という言い方がなんだか鼻につくが、気に留めないことにしよう。
「そうね」
 とりあえずではあるが、納得したように頷いてみせると彼はすごく楽しそうに笑う。結局のところ彼は何が言いたい。
「でしょう? 自由なんだよ、野良猫は。この広い世界が、僕の家なんだ」
 大きく出たな、と思った。けど、妙に納得する。なるほど、家だからか。ここが家だから彼はこんなに余裕で振舞っていられるんだな。
 まるで飼い猫全てを否定してるような物言いも、私の家なら一蹴してやれるのに。
「随分とロマンチックね。野良猫はみんなそうなの?」
 一滴のしずくが頭に当たる。ゴロゴロと唸っている雲はいい加減痺れを切らしたようで、今にも振り出しそうだった。
「はは、どうかな。他の誰かなんて興味ないよ、こんな風に喋るのだって君が初めてなんだから」
「そう」
 妙な間が出来る。雨が段々強くなってきた。嫌なシチュエーションだなあ、と思う。
「可哀想だよ、君が。ここで会ったのも何かの縁だ、一緒に行かない? 飼い主なんか放っておいて」
 ようやく彼の言っていることが理解できた。誘っていたのか、私を。無理もない、この美貌だ。やはり男が放っておくはずがない。
 あの嘘つき男に聞かせてやりたい。私はずっとこんな口説き文句を待っているのだ。答えはもちろん、決まっている。
「行かない」
 今までの適当な相槌なんかじゃなくて、はっきりとした拒絶。最低限の礼儀だ。
 少し悔しかったのは、
「……そっか」
 それでも彼の笑顔が崩れなかったこと。フられたんだからもう少し残念そうにしてくれればいいのに。
「さて、フられたやつはさっさと消えるとしようかな。それじゃあ、どこかで会うことがあったら、また」
 笑顔は崩さない。けれど、同情するような哀れみの眼差しを彼は私に向けていた。なんだか、それが無性に気に入らなかった。
 彼が歩き出す。私に背を向けて。
「ミルク」
 呼び止めるつもりで言う。振り向いた。
「飲んだこと、ある? 温かいやつ」
 初めて笑顔を崩して、首を傾げる。ミルクという言葉を彼は理解できていなかった。

101 :No.25 あなたとわたし 5/5 ◇tGCLvTU/yA:07/10/21 23:36:25 ID:FPtq2/hz
「いや、ない……というか、ミルクってなんだい?」
 彼にも負けない、とびきりの笑顔を作る。少しサービスが過ぎたかと思うくらいの誰にも見せない笑顔。
「飼い猫の特権よ」

 見えなくなった背中を、見送っていた。もしかしたら。もしかしたら三ヶ月前、もう少し彼が粘っていれば私は彼の背中を追っていたかもしれない。
 ふと、降っていた雨がやむ。しかし、目の前では変わらず降り続いてる。首を傾げ空を見上げるとだらしない顔が、そこにあった。
「酷い顔ね」
「誰のせいだ、誰の」
 傷をさすりながら、ユースケは言う。
「あら、自業自得でしょう? 約束を破るなんて、人として最もやっちゃいけないことだわ」
 ふむ、とユースケが唸る。続いてよし、と頷くと私を左手で抱きかかえた。なにか観念したように口を開く。
「雨が降ってたからさ。お前が嫌かなと思って」
 驚いた。もしかして、覚えてたのだろうか。私がこの空き地で捨てられてた日のことを。
 だけど、それならついでに覚えておいて欲しかった。私が拾われたのも、こんな雨の日だったことを。
「別に、悪いことばかりじゃないわ。雨の日の思い出だって」
 少し間が出来る。雨音が妙に心地よかった。
「……帰るぞ」
「当たり前でしょ。いい加減体を乾かしたかったところよ。雨は当分降らなくていいわ」
 とりあえず、明日は絶対晴れて欲しいと思う。雨でも必ず引っ張り出す予定ではあるのだけど。
 帰ったらまずミルクを飲もう。そして、あの余裕の笑顔を思い出して今度は思い切り哀れんだ眼差しで見てやるのだ。
 この味を知らないなんて、可哀想だと。



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