【 声 】
◆wDZmDiBnbU




58 :NO.16 声 1/4 ◇wDZmDiBnbU:07/10/21 20:53:54 ID:ZQYbBC5L
 きのこ、という猫を飼っていました。
 チンチラのシルバーでした。全身が白いふさふさした毛で覆われていて、遠目には果たして
猫なのか毛なのかわからないという有様で、そんなものがぽてぽてと地面を転がってはニャー
ニャー鳴いたりするわけですから、それはもう可愛くて可愛くて仕方がありませんでした。
 初めて出会ったとき、彼女――きのこは、まだ生まれて一ヶ月程度の子猫でした。それに引
き替え私は、この世に生を受けてから二十四年も経っており、ついでに言うなら無職でした。
そんな私が、ペットショップで見かけた彼女を引き取れるはずなどありません。それでも飼う
ことができたのは、当時同棲していた彼の経済力のおかげでした。
 付き合い始めたその当初は、私もまともに職に就いていました。ですが働き始めて二年目に
差し掛かろうかという頃、私はその職場を退職しました。体調を崩した、といいますか、心労
がかさんでといいますか。軽々しく「うつ」などというのは言い訳ではないかと思うのですが、
事実お医者様にも見ていただきましたし、それにこれ以上この職場にいるのは耐えられない、
と思ってのことでした。
 鬱ぎ込むことの多くなった私に、それでも彼は優しく接してくれました。私のわがままで猫、
つまり『きのこ』まで飼ってくれることになりました。彼さえいれば生きていけると、そう思
いました。しかしどうして気付かなかったのか、それは彼がいないと生きていけない、という
ことに他なりません。そして彼にとっては、その逆は成り立たない、ということについても、
まったく思いもしませんでした。
 依存、というものだと思います。長く続くはずのないその関係は、ある日突然に、終わりを
迎えました。
 陳腐に聞こえるかと思いますが、本当に「死のう」と、そう思いました。正しく言うなら、
そうできれば、と強く願いました。そうやすやすと死ねるはずなどないのです。事実、何度も
自殺の真似事をしましたが、そのいずれもが未遂に終わりました。死にきれない、などという
ようなものではありません。自殺と言うにはあまりに稚拙な、せいぜい「死にたがっているフ
リ」と、傍目にはそう見えても仕方のないような行為でした。
 死にたいというのは、本心でした。ですが、それ実行するほどの勇気さえ、私は持ち合わせ
ていませんでした。このまま目を閉じて、眠るように死ねたら――なんて、そんな都合のいい
願い事ばかりするような人間が、自らを死に至らしめるなんてことが、出来ようはずがないの
です。
 楽しい思い出、といいますか。そのときは確かに楽しかった出来事が、何度も頭の中に渦巻

59 :NO.16 声 2/4 ◇wDZmDiBnbU:07/10/21 20:54:40 ID:ZQYbBC5L
きました。私と彼とは、趣味や嗜好に重なる部分が多くて、特に印象深く覚えているのは、や
はり猫のことです。彼は無類の猫好きで、例えば私があの『きのこ』について、「この子を飼
いたい」とわがままを言ったときにも、彼は一も二もなく同意してくれました。実際には、鬱
ぎ込みがちだった私に対する配慮もあったのだと思います。それでも彼は、「俺もこの子のこ
と、気に入った」なんて、笑いながら――すぐに彼女、きのこを、私たちの住むアパートへと
連れ帰ってくれました。
 それが忘れられなかった、というわけではありません。でも私は、猫を飼うことに決めまし
た。彼を失ったまま、一人でいるのはよくないんじゃないかと、そう思ったのです。それに偶
然、家の近所に猫が捨てられていたということもありました。
 たぶん生後一週間ほどの、子猫と言うにもまだ幼い、赤ん坊同然の猫でした。母親はきっと
野良なのでしょうが、しかし周囲をさがしても見あたりませんでした。兄弟もいないようです
から、きっと何らかの原因ではぐれたか、あるいは育児放棄された子なのでしょう。まだ目も
開かず、耳さえ折れ曲がったままの、手のひらに収まるほどの姿。それでも必死に母を求めて
鳴く、その声を聞いて私は、なにか使命感のようなものに駆られたのでした。
 あるいはそれは同情であるとか、もしくは共感の類であったかもしれません。少し自分を重
ねていたといいますか、捨てられた、というその境遇に、放っておけなくなったという気持ち
もあったかと思います。しかしいずれにしろ、同じことです。
 今にして思えば、なんと幼い感情だったのかと、そう思います。
 赤ん坊猫の世話は、思っていたよりも大変なものでした。三時間おきの排泄と授乳、それは
就寝中であっても同様です。うっかり寝過ごしてしまうと、猫の寝床は汚物まみれになり、そ
してその中で、取り残された彼女が悲痛な泣き声をあげ続けることになります。そしてそれを
見て、私の胸は締め付けられるように痛むのです。そんなことが、何度か続きました。
 最初はまるでもぐらかなにかのような、とても猫とは思えない姿の彼女も、次第に猫らしく
なってゆきました。耳が立って、瞼も開いたその姿は、まるでミニチュアの猫のようです。無
論まだ自由に動き回れる程ではありませんが――でも私はその姿に、かつて共に過ごしていた
『きのこ』のことを思い浮かべてしまいました。
 彼女は彼によって買われた存在ですから、彼に貰われていくのは当然のことです。でも私は、
きっときのこは彼が私のために買ってくれたものだと思っていましたので、それは少なからず
意外なことではありました。確かに彼もきのこのことは随分と可愛がっていたようでした。グ
ルーミングを嫌がる彼女に対して、困ったような顔をしながら、それでも根気よくブラシをか

60 :NO.16 声 3/4 ◇wDZmDiBnbU:07/10/21 20:55:16 ID:ZQYbBC5L
けてやる彼の姿。私はそれを微笑ましく思いながら、そのすぐ隣で見つめていたのです。
 その場から、私だけがいなくなった今でも――彼は根気よく、ブラシをかけてあげているの
でしょうか。
 そんなことを考えても仕方がない、というのはわかっています。それでも私は、徐々に猫ら
しくなっていく赤ん坊猫の姿に、それを重ねずにはいられません。いずれはこの子も、あのき
のこのように、立派な猫になるのでしょうか。まだ後ろ足がちゃんと動かず、半ば這うように
して動いているこの子が。まだ一人で生きることなどかなわず、何かあればすぐ鳴いて母猫の
助けを求めるような、この生き物が。
 母猫に見捨てられる子猫というものは、先天的に何らかの障害を負っていることがある、と
いうのを聞いたことがあります。でも獣医さんに見て貰ったところ、そのような心配はないら
しいとのことでした。もとより心配など、していませんでした。そしてそのことに気付いたと
き、私はなんとも言えない気持ちになったのを、よく覚えています。
 お互い捨てられた存在であったにせよ、私とその子は、決して対等ではありませんでした。
なぜならその子は、私の存在をなくしては、生き延びることすらままならないからです。現に
今もその通り、そのか細い声を張り上げて、しきりに空腹を訴えています。もう、毎晩のこと
です。私だって決して楽ではないのに、でもこの子は必死です。それは間違いなく、私だけが
守ってあげられる命でした。
 この子もいずれは大きくなって、一人でも生き延びられるようになるのでしょう。あるいは
誰か、別の人に可愛がってもらえるのかもしれません。私がかつて愛したきのこのように。私
が今もなお愛している、その彼に可愛がられ――その側で共に暮らす、あの猫のように。
 幾分猫らしくなってきたはずの泣き声が、しわがれたような声に変わります。夜中にたたき
起こされるには、あまり気分のいい泣き声でないことは確かです。ですが、それでも私は、こ
の子のためにミルクを用意してやらなくてはいけません。私自身がいくら苦しもうと、この子
にとっては関係ありません。なぜならこの子は、私なしでは生きていけないからです。この人
がいなければ生きていけないという、そんな相手を私が失ったばかりであろうと、でも関係な
いのです。
 私にしか守れない小さな命。
 それは同時に、私次第で摘み取られてしまう、弱い命でもありました。
 そうである以上は、それらしく振る舞えばいいのです。それが出来ないから、捨てられるの
です。現に私は、そうなりました。なのにどうして、この子だけは、こうして温かいミルクを

61 :NO.16 声 4/4 ◇wDZmDiBnbU:07/10/21 20:55:55 ID:ZQYbBC5L
飲んでいるのでしょうか。どうしてきのこは、まだ彼のそばにいられるのでしょうか。私がい
なければ、決して飼われることなどなかったはずなのに。どうしてまだ、彼女だけが、彼に可
愛がられているのでしょうか。
 肚の底から絞り出されるような、そんな悲痛な、命の叫びが聞こえます。大変、不快でした。
似たような声にたたき起こされる度に、同じ不快感を感じてきてはいたのですが――でもそれ
は、今までの比ではありませんでした。猫が言葉を話せないのが、こんなに残念だと感じたこ
とはありません。この子は私に、何を伝えたいのでしょうか。私の庇護なしでは生きていけな
い癖に、一体何を言おうと、このような醜い声を出すのでしょうか。
 不快で、とにかく不快でなりません。
 勝手で、何も理解しようとしない、わがまま放題の――この声が。

 彼のことは、今でも愛しています。そしてそれを思い出す度に、あの子猫の、声が。
 耳から、離れません。

〈了〉



BACK−夢現◆WGnaka/o0o  |  INDEXへ  |  NEXT−僕はペットで籠の鳥◆cwf2GoCJdk