【 野猫の躰で魚は泳ぐ 】
◆Br4U39.kcI




36 :NO.10 野猫の躰で魚は泳ぐ 1/5 ◇Br4U39.kcI:07/10/21 18:28:22 ID:ZQYbBC5L
 僕の家の界隈には、でっぷりと肥えた雄の野良猫が住んでいる。
 たぶん彼からすると、僕らの方が縄張りを荒らす不審者なのだろう。限られた者にしか懐くことはなかった。
 いや、そういう人たちにですら、懐いているというよりはちょっと見込みのある下僕程度にしか解釈してないフシがある。
「ムギャ」
 それが彼の鳴き声で、意思伝達の道具だ。かなりの老齢に加え、首周りまで脂肪に覆われ肉厚なため、どうやら発音も難しいらしく、
自業自得でこんな不細工な鳴き方になってるんだと、僕のお爺ちゃんは教えてくれた。
 そんな天上天下唯我独尊の猫が、どうにも散策中に偶然出くわした僕を絶好の玩具要員として選出した嫌いがあり、家の敷地内に
忍び込んでは、こちらに近寄ってきて舌で頬を舐めたり、頬ずりをして、餌を強請り、腹を満たしては、鋭い猫パンチを浴びせて去っていく。
お母さんなどは、もう家のペットみたいねと困ったように微笑んでいた。元来母は人がいいのである。
 特に指定された遊び相手もいない僕は、時間を有意義に消費するため、その猫を観察することにした。
 先生から出された夏休みの自由研究も、これで済ませてしまおうという心づもりだったのである。
 だが観察三日目にしてその姦計は無情にも頓挫してしまうことと相成った。
 ディスカウントストアで購入したばかりの大学ノートは、外装から中身に及ぶまで、鉤爪のようなもので縦横無尽に裂かれてしまって
いたのだ。
 勉強机の上に広がる酸鼻極まる光景に呆然としている僕をよそに、猫は気分良さげに「ムギャ」と隣でせせら笑っていた。
 気づいたのだが、どうやらこの猫。満腹時など、かなり気分の良いときにしか鳴かない性質らしい。最悪だ。
 いかにも機嫌が悪そうな時などは、頭を絨毯に擦りつけながら、無言で床を掘り進めようとまでする(お母さんにチョップ食らっていた)。
 あと魚のなかでは燭魚などが好物らしく、食料の買出しの際、猫は母のサイドバックの中に収まりついていくと、
 魚介類コーナーの前で、常に鰰目掛けて顎をしゃくるのだという(暗に、買わなければこの場で声を出すぞという脅しである)。
 我が家の夕餉では一週間のうち五日も鰰が占める週があった。正直この魚は骨が邪魔で食い辛いのでやめてほしいと切実にを訴えた途端、
下方からの強烈な猫パンチをくらった。
 本格的に食い扶持に困らなくなった猫はますますデブに拍車がかかり、残暑も終わりに近づくと、日がな一日、我が家に居座るように
なっていたのである。
 デブの出不精という渾身のギャグを披露するあたり、なかなか趣の分かる唐猫だなあ。……などと思えるはずがない。
 彼のおかげで僕の野猫に対する疑心暗鬼加減は、加速度的に悪化の一途をたどっていた。いや、家に居てくれる今はまだいいのだ。
 そのうち僕の通う学校にまでアポ無しで押しかけてきたらどうしようと思うと、不安が奔流のように押し寄せてくる。
「ムギャ」
「……」
 僕が怒りを態度に示さないからといって、素知らぬ顔して土足で踏みにじっていく彼に、どこか違和を覚えていた。
 状況が一変したのは、その頃のことである。

37 :NO.10 野猫の躰で魚は泳ぐ 2/5 ◇Br4U39.kcI:07/10/21 18:28:59 ID:ZQYbBC5L
 最近デブちゃん、鳴かないねえ―――。
 夏も過ぎ去った九月の半ば、猫の異変は顕著になった。
 お母さんは不思議そうに首を傾げ、ふてぶてしさ常時満開の猫に対して、ミャーとかナーとか話しかけてみるのだが、
対象物は薄目を開けるだけで元気がない。猫は傍目から見てもわかるほどに、パワーダウンしていた。殊に、ここ数日は
餌もろくに口にしていない。「せっかくデブちゃんという名前をつけたのに、これではいつか名前負けしちまうな」とは、
お父さんの口走ったジョークである。本人にいわせると、特にジョークになってない辺りがミソだという。
 余談だが、お父さんは自前のネタ帳などを作ってしまっている。これがまた最高にツマラナイ。おそらくその方面への
才能が皆無なのだろう。その遺伝子を半分受け継ぐ嫡子の僕が言うのだから間違いない。……筈なのだが、お母さんが父の作る
ネタの大ファンときているから厄介。毎週金曜日の夜になると、リビングで延延と父の垂れ流す寒いネタに母が手拍子しながら、
時にイチャつく姿を、振り翳される権力に抗うことも許されず、強制的に見させられる。
 本当になんというか―――。
「……」
 猫はそんな僕のモノローグを下手の長談義だと切り捨てるように此方を一瞥した後、のしっとお母さんの膝枕の上に落ち着いた。
「あ、大丈夫。まだ重いよ。あはは、依然デブちゃんのままでした」
 お母さんは陽気に、わーいと、デブ猫の手を持ち上げて万歳のポーズをとる。猫はそれに反していかにもぐったりしていた。
 皆の不安を解そうとした行動だったのだろうが、最低でも僕の蟠りが解消されることはなかった。
 だってお母さん、目が笑えてないもの。
 大学時代に演劇に傾倒していた人が、こうも動揺しているところを見ると、愈愈デブ猫の具合は良くないらしい。
 お父さんだけが愉快そうに笑っていたが、やはり不安なんだ。デブは顰め面でカーッカーッと呻っているのだが、意思疎通のきかない
人は無力な眺望者なのだ。そんなんじゃ分からないし、分かれないんだ。
 僕の場合は、分かりたくもない……のか。
 無意味な煩悶だと思う。ただその間ずっと、デブ猫が僕の首辺りを睨み付けていたことを、後々僕は想起するのである。

38 :NO.10 野猫の躰で魚は泳ぐ 3/5 ◇Br4U39.kcI:07/10/21 18:29:46 ID:ZQYbBC5L
 九月も終わって十月になると、デブは僕を僕の自室に誘導したと思うと、カーッカーッっと頻りに嘔吐くことが度々あった。
 その度に僕は眉を八の字にして、態度で示してよと要求する。するとデブは渾身の力で僕の腕やら脚やらを、鋭利な爪でかっちゃ
いていく。それに対し僕は言葉では憤怒しても、行動を起こさなかった。どうしてかというと、この猫にだけは触れたくなかったのだ。
 一ヶ月かそれぐらい前に、僕は傲岸不遜を体現するようなこの猫に対して、強い違和と嫌悪に加え、幽かな嫉妬を抱いた。
 デブ猫が家に居住するまで、我侭を言えるのは僕だけの特権だったのである。皆からチヤホヤされたし、そんな注目される自分が好
きだった。御爺ちゃんは将棋に誘ってくれたし、御婆ちゃんはお父さんとお母さんに内緒で、僕が好きな甘露水を好きなだけ飲ませ
てくれた。中心は、自分だった筈なのに―――。
 悔しかったし、情けなかった。たかが猫一匹で巧遅に積み上げてきたつもりの立場が揺れ動き、むざむざと零落するなんて思わな
かったから。
「だから今の僕には、これだけが……」
 それは僕が五歳の頃、御爺ちゃんと御婆ちゃんが、どうしてもと強請る我侭な孫へ対し、無理して買ってくれた携帯ゲーム機だった。
 未だにソフトは一本も持ってない。でも、そんなのは要らなかった。これを買ってくれたということに意味が内臓されているのだから。
 絶対、絶対に失ってはならないものなんだ。
 不変の愛情が直に実感できるというのは僕に安寧を齎してくれた。この感触はいつでも本物だ。きちんとした証明力がある。失くさない。
「……」
「……え?」
 ニヤリと、デブ猫が僕の持つテクノロジー装置を悪鬼のような表情で睨みつける。彼の方策と動作は、迅速だった。
 瞬く間にデブ猫は僕の手元からゲーム機を口に銜え奪取すると、これ見よがしと云わんばかりに、思い切り床にたたきつけた。
 すぐさま鈍い音が床から反射される。
「ああ……う……あ……」
 壊れ物を扱う手つきで慎重に拾い上げてみる。……駄目だ。剥き出しの硬質な床に容赦なく叩きつけられたせいだろう、
モニタに幾条もの罅が奔っている。この有様では、おそらく内部までも……。いや、問題はそんなことじゃないっ!
「お前、なんて……こと、するんだよっ!」
 頭に血が上った僕はすぐさま加害者に飛び掛り、ケダモノのような獰猛さで忌まわしき対象の太い首を力の限り掴み、そのまま何
度も揺すって、壁や机にぶつけたりもした。けれど何故かそれでも猫は一言も発することなく、この程度かと云う様に、頭を傾げ
てプイッとそっぽを向く。脳髄が破裂しそうなほどに冷たい怒りが装填され、それは末梢に到るまでニューロンを介して駆け巡った。
 我を喪失した僕は、先刻よりも強い調子で、床、ベッド、壁、扉という塩梅で叩きつけ、テンションのなすがままに動物虐待を繰り返した。
十分後、急速に冷静さを取り戻した僕は、とんでもないことをしてしまったという動揺と、どんな形であれ大切なものを損壊してしまった
という焦燥と悲哀を再認識して、打算も忘れて子供らしく、後先考えないで泣き出してしまった。

39 :NO.10 野猫の躰で魚は泳ぐ 4/5 ◇Br4U39.kcI:07/10/21 18:30:15 ID:ZQYbBC5L
 そんな困惑する僕のところに、ヨロヨロと千鳥足でデブ猫が寄ってきて、頬を伝う涙を舐めとる。それをゆっくり横目で確認して
みると、猫はなにやら感謝をしているような、屈託のない表情を僕に向けた後、後ろに振り返って「ペッ」と口からなにか吐き出した。
「? ……一体なにを」
 膝立ちして猫の上から覗き見ると、思わず息を呑んだ。それは数え切れないほどの……魚の骨。それに毛玉が不規則に絡まっている。
 すぐに絡まっていた理解と行為が理路整然と符合した。
「え、もしかしてお前……今までずっとそれがノドに刺さってて、それが骨組み代わりになっちゃって更に毛玉が絡まり、飯が通らなく?」
 まさかそれで僕を逆上させ、乱暴なことをさせて、無理やり魚の骨を抜去させたっていうのか? 馬鹿な。なんて非効率的な……。
「あ、いや」
 ……否、取り消そう。猫の言葉も思考も方策も判ずることができない僕には、結局なにも咎めることはできない。
 連日のハタハタ地獄。食いしん坊。大食漢猫の急激な食欲低下。十月に入ってからの僕への攻撃。推理するには充分な量のツールである。
 たぶん流れとしてはこうだ。ノドに複数本刺さった燭魚の骨は、カーッカーッと彼がどれだけ嘔吐いても抜けなかった。そして生半可
な方法ではどうにもならないと踏んで、人間が稀に見せる火事場の馬鹿力とやらを借りようと企て、僕の理性を少しづつ磨耗させる作戦に
切り替えた。たしかに彼の読みどおり僕は所詮まだ子供で、手段次第では一番理性をなくしやすそうに映ったのだろう。だが誤算があった。
いつになっても僕の方からは彼に触れすらもしなかったことだ。僕は意識的に彼を忌避すべき対象とみなし、彼は僕を利用対象として選
んでいた。当惑したことだろう。どう仕掛けてもなかなか思い描く展開と合致しない。本来ならデブ猫はここで今一度作戦を練り直すため、
ふりだしに戻ることになるところだったのだが、予期せぬ僥倖が鎌首を擡げた。扱いをみれば普段より僕が重宝している物と一目で分かる
携帯ゲーム機の出現。猫は悪鬼のようにしめしめとほくそ笑んだ。
 ……そして一連の流れの後、現在に至る。
 開いた口が塞がらない僕をよそに、猫はもう僕に興味がないのか、大きな欠伸をすると、部屋のど真中でゴロリと腹を見せて横になった。
 間もなく去来する沈黙の中で、古時計の音振動だけが空間を揺らぎあるものにしている。
 だけれど僕は、己が胸で高鳴る心の鼓動のほうが何倍も五月蝿く感じていた。脳の血管も先刻から活発な運動に飽きる様子はない。
 ……なんだろうこの感情は。優しい、純粋に受容したい、懐かしみを帯びた……。それはどんどん敷衍を続けて、限りなく滲入してくる。
 大事なものを壊されたはずなのに、その引き換えとして同等の宝物を得たような、一種の満悦。それが分かると、とたんに思ったこ
とを口に出したくて仕方がなくなる。すぐさま部屋の中央で高鼾をかく猫の胴体を両手で束縛し、持ち上げる。脈絡無しに地べたから
剥がされたデブ猫は、相変わらずの人相(この場合は猫相とでもいうのだろうか)で、肉の重みで押しつぶされる双眸を心底つまらなそう
に開眼する。結果、丁度僕と彼は睨みあうような形となった。
 僕は一寸逡巡しつつも、ゴホンと一度咳払いをして、なるべく真摯に振る舞いながら、でもやっぱり目を伏せた。
「あの……あんがと」
「……」

40 :NO.10 野猫の躰で魚は泳ぐ 5/5 ◇Br4U39.kcI:07/10/21 18:30:49 ID:ZQYbBC5L
 直後に僕は酷くこっ恥ずかしくなって、顔を背ける。脳を攪拌機にかけられたように思考はぐちゃぐちゃで、真っ白で……。
 もうなんか……ミステリー! はっ、し、死にたい……。穴があったら落ちて死にたいっ。
 だがそんな風に顔を紅潮させたり蒼白にしたりして一人で取り乱す僕から、デブ猫は意地糞の悪いにやけた目線を外そうとしない。
 最悪だああぁぁ……と、早くも心底から止め処なく後悔の汁が湧いてきたけど、なんとか其処から思い切り目をそらすことに成功した。
 恥ずかしい馬鹿こそが僕だと自主的に認識できたから、抵抗が薄まったのだろう。もうおかしな所には拘らず。なすがまま、流れるままに。
「けれどもお前は僕のペットでもあるんだ。私欲で人を引っ掻いたり物を壊したりしてはいけないんだ。暫く魚も禁止。理解できるか?」
「……」
 プイッと顔を逸らす。そしてもう一度、今度は逆方向にプイッと逸らす。なるほどなるほど。完全に舐められているなこれは。
 なんだかこれじゃあコイツが僕のペットというより、僕の方がコイツのペットじみてるよなあ。と、自嘲気味に嘆息した。
「……はい、もう分かったよ。なんならキミが王であり首席であり主人公でいい。形式上だけどね。ま、今はそれで満足してくれる?」
 この高慢ちきに、これより先、僕の日常は乱されっぱなしとなるだろう。かといって表面上の尊厳や矜持を拾い集める作業も最早
面倒なことこの上ない。だから今の提案は英断と称してもいいのだろう。たぶん。きっと。希望的観測上……。
 彷徨えるだけ彷徨えば、死後にどこかの好事家が僕の穴だらけな人生を鑒みて、勝手に価値を付与してくれることだろう。
「さ、返答をどうぞ」
 そして僕が夏の数日を賭して標した類推が当たっているならば、我が家に居候するデブな野良猫は、気分の良いときこう鳴くのだった。
「ムギャ」







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