【 ペス 】
◆D8MoDpzBRE




28 :NO.8 ペス 1/5 ◇D8MoDpzBRE:07/10/21 18:21:25 ID:ZQYbBC5L
 天涯孤独なその男にとって、ペスだけが唯一、心を通わせることの出来る友と言って良かった。
 ペスと呼ばれていたのは雄の雑種犬である。今年で齢は三歳を数えようとしていたが、飼い主にとってその年数
が関心の的とならなかったために、彼が三歳になろうとしていたという事実もまた埋もれようとしていた。ただし、そ
れはペスが愛されていなかったという証ではない。
 六畳ワンルームの手狭な住居は、彼ら一人と一匹にとって広いとも狭いとも言い難かった。食い扶持を日雇い
労働に頼っていた飼い主は昼間の大半を外で暮らしたがために、日中の室内はペスに占有された。十分にしつけ
られたペスは部屋の中を荒らすでもなく漁るでもなく、無為を無為と自覚できるだけの自我すらを持ち得ないままに
一日を過ごした。ただ、主人の帰宅を待ちながら。
 ペスの主人は、早ければ夕方に、遅くとも日付が変わる前には帰宅を果たし、それがどんな時間であれその後ペ
スを散歩に連れて行くことを忘れなかった。河川敷と公園を通るルートが好まれた。ゆっくりと歩けば正味三十分く
らいのコースである。
 主人がペスの手綱を放せば、ペスは束の間の自由を謳歌するように駆けた。河川敷を。公園を。ペスが全力で
走っても窮屈さを感じさせないだけのスペースがそこにはあった。
 しかしながら、それでもそこは小さな箱庭に過ぎなかった。ペスは与えられた自由を持て余した。飼われた犬に、
飼い主のテリトリーからの逸脱は行為としてプログラムされていない。予期し得ぬエラーであり、故に持て余した。
飼い主への忠誠は、それ以外の選択肢を持ち得ぬ存在にとって必然でしかない。
 それでも、こうやって日々繰り返される単調さの反復は、ペスにそれなりの充足感をもたらしていた。与えられた
世界以外を知らないが故に、彼の欲求もまた限定的であった。
 そしてある日、それは突然に絶たれることとなった。

 六畳一間の住居内で起こった異変を、ペスは察知している。視覚と嗅覚で。物言わぬ主人の亡骸の傍らで。首
に巻き付けられた細いヒモに全体重を支えられて、主人は軋みながら空虚な器になり果てた。澱んだ血液は首の
ヒモに駆血されて顔面に鬱滞し、グロテスクな死に化粧を与えていた。
 ペスは吠える。死の意味を知らない。言葉を認識しないがために、死に意味を与えられない。吠えることで主人
を呼び覚まそうと試みる。反復する。主人の沈黙が永劫のものであるとの認識が及ぶまで、反復が止むことはな
い。
 糞尿が、弛緩しきった主人の尿道口から、肛門から垂れ流しにされる。体内の血液が重力に引かれて足の裏に
集まり、つま先から踵までの皮下をどす黒く染め上げる。次いで、死後硬直が始まる。全身の骨格筋に拡散した
硬直は、一昼夜の間続く。胸筋や背筋など、筋力の強い部分が優先的に反り上がるために、屍体の体位は重力
に逆らいやや不自然な形となる。その間もペスの咆哮は途切れない。

29 :NO.8 ペス 2/5 ◇D8MoDpzBRE:07/10/21 18:22:05 ID:ZQYbBC5L
 やがて最後の代謝を終えた骨格筋は、死後硬直から解き放たれる。変化の過程は極めて緩慢で、微細だ。
 屍体が完成された。全ては不可逆な過程である。ペスもようやくその事実を悟り、咆哮が終わりを告げる。
「隣の様子がおかしいんです。一晩中、いいえ、一昼夜。犬が吠えていたんです。今は鳴き声はしないけれど、と
にかく見てください」
 騒々しい声と共に住居のドアが開け放たれた。部屋にこもった便臭、屍臭が外気に逃げて薄れていく。アパート
の管理人と近隣の主婦が悲鳴を上げる。異様な空間が白日の下にさらされ、主人が遂げた凄絶な死の余韻が、
波濤のように外気を浸蝕する。生々しい臭気を帯びて。
 程なくして警察が徒党を組んで訪れた。
 未だ臭気が立ちこめる室内は、警察による蹂躙を加えられて極端に手狭になる。部屋のカーテンは閉め切られ
照明は落とされているために、夕刻であるのに夜のような暗さだ。カメラがフラッシュを焚きながら部屋の中を撮影
していく。丸二日ぶら下がりっぱなしの遺体を、様々な角度からシャッターが捉える。天井の梁にロープがいかに括
り付けられているのか、ロープが首にどう掛かっているのかまでもが仔細に把握できるように。
 次いで物色が始まる。遺書はないか。自殺の動機付けとなる手がかりはないか。そもそも、自殺という死因を覆
すような物証が出てこないか。警察による血眼の捜索が加えられる。
「犬です」
 ペスに懐中電灯が向けられる。それは、二日間の断食がもたらした飢餓状態のまっただ中にいたペスの網膜を
峻烈に焦がした。鋭利な刃物であった。恐慌状態が惹起され、ペスの尻を打ち据える。彼はたまらず走り出す。
「待て!」
 言っている者も、その言葉のナンセンスに気付かない。ペスは瞬く間に半開きのドアから飛び出して直角に曲が
り、階段を落ちるように駆け下りる。夕暮れの闇に溶ける。後を追う警察の視線から、彼らに瞬目の機会すら与え
ずに消失を果たした。脱走。飼い犬時代には一度とて企図したことがない遁走は、成功裏に遂げられた。
 ペスは走った。主人と歩んだ散歩道を。その全行程を体が覚えていたし、それ以外を行くべき道として認識でき
ない。ただひたすら記憶の赴くままに、『散歩』の道程が早送りで再現される。あるべき主人の姿は失われたまま、
商店街、幹線道路、河川敷と、巨大なカーブを描きながらいつものルートを辿る。見渡せる景色も鼻が感じる匂い
も、普段と何ら変わることがない。
 夕暮れが闇の度合いを深くするにつれて路地の街灯は小さな光を放ち始め、それらがおぼろにアスファルトの路
面を照らし出す。色彩は極度に抑制され、風景は鈍色に沈む。
 やがてペスは角を折れて、小さな公園を通り過ぎる。散歩の行程は残り僅かとなり、もうすぐ自宅であるアパート
が見える頃合いとなる。
 そこでペスは立ち止まった。視界の先に、築年数の経った二階建てのアパートを認めている。同時に、鋭敏な嗅

30 :NO.8 ペス 3/5 ◇D8MoDpzBRE:07/10/21 18:22:41 ID:ZQYbBC5L
覚が便臭混じりの死臭を嗅ぎ分けていた。ペスは帰巣本能を打ち負かす大きな力に囚われて、その場から動けな
いでいる。
 そして、帰れないことを何となく悟った。その家には帰れない、恐らく二度と。それは本能的な警戒心に育って、今
までの生活の大半を依拠してきた居住区から彼を隔絶する。
 ペスは元の道を引き返す。絶望の後押しを受けて、彼の姿は再び闇に溶けて消えた。

 三日間、ペスは散歩道の軌道上を彷徨い続けた。地縛霊のように、彼の姿は同じルート上に見出され、そのテリ
トリーを逸脱することがなかった。
 近隣から排出されるゴミを漁ることで、飢えを辛うじてしのぎながら暮らした。何を言わずとも与えられていた餌が
ゴミに置換され、当然に食の質は極端に落ちた。
 ペスはまず、ここでの適応に苦しんだ。天から賦与された当然の権利であった食が、一転して散々骨を折った末
に対価として与えられる労賃としての食に変わった。突然の変容に狼狽しつつも、空腹中枢が発する飢餓のシグナ
ルに対しては忠実に従った。これはサバイバルの過程である。無論、ペスが自ら意識することはない。サバイブ、す
なわち生存を賭けて、生存を目的として、ペスのあらゆる行動が規定される。生きるために必要な行動を、ペスは
一から学習し直す必要があった。
 四日目の朝、ついに彼は従来のテリトリーから自らを解放する。散歩道のエリア内では、ありつける餌の量が絶
対的に不足していることを悟ったからである。結界は言葉通り決壊する。
 未知の世界での狩りが始まった。対象はゴミの山に始まり、野禽の死骸、生きたままのドブネズミ、放し飼いの鶏
など多岐に及んだ。見境のない捕食行動に対する人間社会の制裁として、駆除・捕獲活動の手に曝される機会に
も遭遇した。彼は、この時期に最も昂ぶっていた人間への警戒心と、若干の幸運にも味方されて、それら追撃の手
を振り切った。見事逃げおおせたのである。
 狩りは、自然と彼に野生としての自覚を芽生えさせた。愛玩犬から野犬への過渡期は、主に狩りの能力を獲得す
ることに充てられた。一方でペスとして過ごしてきた記憶は消滅しないまでも薄れた。少なくとも表層意識の次元に
まで浮上する機会を得られなかった。
 その犬は既に名を失い、野生化のステップを着実に歩んでいた。名前と住居と自動化された配膳を喪った代わり
に、彼は自由を得た。より正確には、与えられた自由を持て余すことなく咀嚼する能力を得た。
 彼は野犬として、巡る季節を体感する。四季の寒暖の変化が、空調を管理されていた室内での体験よりもラジカ
ルに身体の芯をえぐる。主人の死によって半ば強制的に室外へと放逐されたのが初秋のことだった。落葉樹によっ
て構成されていた並木道は、次第にその色彩を鮮やかな紅に染め上げた。河川敷の土手の上で、植樹されたソメ
イヨシノの葉が、銀杏の葉が、モミジの葉が、様々な表情を景観に与えながら秋空を舞った。

31 :NO.8 ペス 4/5 ◇D8MoDpzBRE:07/10/21 18:23:37 ID:ZQYbBC5L
 更に季節が深まり、堆積した落葉が北風によって一掃され、枯死したように寂れた街路樹たちの姿が冬の訪れを
喚起し出す。野犬と化した彼を、餌不足という天然の厄災が襲う。餌を求めて徘徊・奔走を繰り返したことが、却っ
て彼の飢餓をより深い苦悩へと変貌させた。
 彼の足取りは当然に重くなる。かじかんで、尚かつ飢えによる脱力によって。歩くことも苦痛となり、河川敷に掛か
る高架下で臥床にふけることが多くなる。冬をやり過ごすように。ゴミ漁りによって食事を得る以外の時間は、野生
の怠惰を以て費やした。半冬眠という本能の一部が、野生の習慣として呼び醒まされる。

 ある日、高架下で駄眠を貪る彼の元に、ソーセージやチャーハンの食べ残しなどの残飯の類が置かれた。意図
的に。半冬眠状態にある彼の敏感な鼻先を、食餌の匂いがうっすらと通過する。気だるそうに目を開けると、彼は
与えられた餌を視認し、嗅認し、咀嚼を伴った味認を経て嚥下した。
 食餌の提供はあくる日も続いた。やはりそれは残飯の類であった。この日、初めて彼は食餌の提供者の姿や匂
いと遭遇し、それを覚えた。彼はそれを容易には忘れない。年端のいかない少女の姿が、飢えた野犬の網膜に擦
り込まれる。
 与えられた餌の量は決して多くなかった。しかし、慢性的な飢餓状態を乗り切って新たな季節を迎え入れるため
には、とても貴重なエネルギー源となる。
 三日目、少女は野犬への接近を果たす。半冬眠状態の彼は少女を威嚇せず、少女は彼を恐れない。そして首輪
に書かれた文字を、辛うじて読み取れるその文字を、彼女は判読した上でそれを音声に変えた。
「……ペス?」
 か弱い声であったが、彼には伝わった。深層に追いやられた記憶の中にその文字列、いや、その音律が埋もれ
ている。もう一度少女の口が、今度ははっきりとその名を呼んだ。
「ペス」
 懐かしい音律が警戒心の施錠を解除する。ペスが、その声に応えてキュウンと鳴いた。少女が呼応して笑う。
「ペス! ペス」
 キュウン、キャン。一人と一匹が冬の高架下で戯れる。少女がペスに残飯を投げ与え、ペスがそれを受け取り貪
る。がつがつ餌をかき込むペスの姿を、少女がまじまじと見つめている。そしてまた笑う。
 少女による餌付けはやがて日課となった。ペスにとって厳冬は一転、快適な季節となる。
 高架下での邂逅がペスの新しいライフスタイルを作り上げた。半ペット状態。彼の中で、ペスとしての時間と野犬
としての時間はパラレルに進行する。二つの時相を、少女の存在が媒介している。
 高架下を至福の時間が流れる。少女にとっても、ペスにとっても。
 しばらく経って、少女が意を決したようにある人物を連れてくる。やや年配の女性。濃い化粧の匂いが漂ってペ

32 :NO.8 ペス 5/5 ◇D8MoDpzBRE:07/10/21 18:24:12 ID:ZQYbBC5L
スの鼻腔を刺戟したため、彼女の存在が視認される前からペスは警戒心の鎧をまとう。
「お母さん、あれあれ」
 少女がペスを指さす。
「駄目よ、あんな汚い犬。欲しければちゃんとした犬を買ってあげるから、もう近寄っちゃ駄目よ」
「やだ、ペスじゃないとイヤだ」
 年配の女性はまるでペスに関心を示すことなく踵を返し、少女は泣きながらその背中を追った。あっという間の出
来事であり、無論ペスにはやり取りの内容は理解されない。
 その日は残飯の供給も行われなかった。狩りに対する関心も失せかけていたペスは、半冬眠の欲求が促すまま
に眠りに落ちた。
 故に、第三の接近者に対する警戒も遅れた。
 少女たちが立ち去って数時間後、辺りは既に夕闇の侵入を許している。彼らは河川敷を渡す高架の橋脚を挟ん
で右方と左方から別々に現れた。計三人。ゆっくりとペスに近づき、包囲する。
「それ!」
 男の合図で、ようやくペスが覚醒する。すでにペスの身体は抗いがたく投網による拘束を受けた、正にその瞬間
であった。ペスがもがけばもがくほど、彼の四肢には投網が余計複雑に絡まり、抜け出すには絶望的な情況を作り
上げる。やがて息をするにも苦労するほどに、網はペスの身体を絞扼して締め上げていく。
 ペスはもはや完全に捕囚となった。文字通りがんじがらめにお縄を頂戴し、男たちの手によって丁重に運び去ら
れる。ペスは己の行き先を知らない。無論、通報者が少女の母親であり、捕獲者が保健所職員であることもまた知
らない。
 小型のトラックに、ペスは積載された。捕獲時を除いてペスに対する職員の扱いは優しく、暴力的な印象はない。
ただ、これから過ごす一週間が最期の日々になることを、ペスは未だ知らない。
 トラックが走り出す。冬枯れの街路樹たちを横目に眺めながら、徐々にそのスピードを上げる。
 閉めきられたトラックの荷台からは外の情景は見られない。嗅覚も外気を捉えるまでには至らない。故にペスは、
己の行程を知らない。気付かない。
 短い信号待ちを経て、トラックが幹線道路へと折れる。交通量が多く、道路の喧噪だけはペスの耳に届いている。
 そして、その道は少しだけ、かつて彼が毎日散歩したコースと重なっている。
 一人と一匹の三年分の足跡が、そこには残っている。

[fin]



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